Ⅱコリント人への手紙12章 2012.7.22,7.29

 

12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。

12:3 私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――

12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

この箇所は11章の続きで、パウロは自分のことを誇っている

なぜ、パウロは誇ったのか?→パウロが認められないから

11章では、ムチを打たれたり、棒で叩かれたりしたことについて、言われている

12章の2節はパウロ自身のこと

パウロの立場や態度を見習いたい

働き人として誇るなら、一面ムチ、もう一面は、幻や啓示を受けること

受けたほうが恵み

Ex:ダニエルは、夢の中で4つの獣が出てきた

神から与えられた幻は意味がある

神から来たものだから、すばらしい

エゼキエルの幻、ヨセフの夢の解き明かし→大いに意味があり聖書的、預言的

パウロは幻や啓示を特別だと言っている

聖書的には特別なこと

幻や啓示は神が「この人に示そう」という人にしか示さない

神に選ばれ、招かれた人に与えられる、一方的な神からの恵み

だから、もらえたほうが絶対に良い

神からの一方的なものだから語っている

5節が、あるべき姿、たとえや幻や啓示が来たとしても高ぶってはダメ

 

12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

すごい賜物があったとしても、過大に評価されたら問題

地上で、あまり誉められると、天において報いが無くなる可能性がある

 

12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

第三の天にまで引き上げられたと書かれているように、パウロに関連して、あまりにも啓示がすばらしかった

しかし、サタンからのとげが与えられた

万一、啓示や幻を受けると、高ぶることのないように、とげが与えられる可能性がある

神様の配慮で、とげが来る、このことは尊重する

神の按配は絶妙

Ex:地球と太陽の距離を絶妙に定めた

どんなとげが必要かを主がご存知、このことは神の知恵と方法

とげは、それぞれ違う

そもそもパウロはマイナスのスタート

だから10年経っても20年経っても評価されない

「迫害者」だと、ずっと言われていた

神様がハンディ、必要なとげを与える

最終ゴールは天の御国、そのために、神がパウロにとって、もっとも良い備えをしてくださった

パウロにとってベストな方法を神が備えてくださった

 

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

このことは、キリスト教の真理

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」→逆説的

弱いところが主に用いられていくパターンがある

神様が働く機会

主によって祈っていくときに、神様の力によって、聖書を読んだり、メッセージを語れるようになったりしていく

弱さがキリストによって変えられていく

弱いところがベストになっていく

 

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

侮辱は来る

人間的に考えるなら侮辱はされたくない、困難や苦痛や迫害は基本的に嫌なこと

しかし、キリストがパウロに必要と思ってスペシャルに用意してくれた、そして、パウロは、それに甘んじている

神のなさることと人が良しとすることは違う場合がある、このことはよく理解する

主がパウロに対して神の目、長期的に見て、ベストな状態であることを本当の意味合いで理解した

私たちに対しても同じ

不本意なことがある、しかし、要は、これがベスト

高ぶることが無いように、後の世に得るべきものを得られるように、パウロにとって益となるように与えたことなので甘んじて受ける

こういう心境になれたときに主の御心が分かるようになる、そして、このことは本来あるべき姿

Ex:カルト扱い

こういうことが無いと、高ぶったり、人間的なものや変なものを掴んでいた可能性がある

こういうことに準じる

主の言われたことにとどまる

御言葉や神様の方法を尊重する

入るべきところに入るのが大事

 

12:11 私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。

「愚か者になりました」:自分の良いこと、賜物、幻について自分で言わなければいけない

幻や賜物について、口で言うのは、愚かだと言っている

そういう一面がある

パウロは必要があって語った、コリントの人の必要性、益となるため

自分のことを言うことは、基本的に愚かなことだと言っている

奉仕として必要があれば言う

あなたがたの推薦を受けても良かったはず:推薦をパウロはコリントの人たちから受けていない

「あの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした」:

大使徒:ペテロ、ヨハネ、ヤコブ

彼らは、イエス・キリストに着いていた、ゆえに大使徒として認められていた

しかし一方パウロは・・・たしかに彼は後に改心したけれど、その前は迫害者だったので大使徒には劣る→人間的には、そういう見方しか出来ない

でも、パウロは「大使徒たちに劣らない」ことを大胆に言っている

メッセージ、預言、賜物、啓示に関して、パウロは、ずば抜けていた

書簡の数も群を抜いている

ただし、その当時の人に、それが受け入れられるかどうかは別

人間的なことは、ペテロたちと比べると劣っている

でも、パウロが言っているのは真実

この当時の人たちにとっては受け入れられなかった可能性がある

ここを通して学ぶことがある

神の不思議な方法を見る

本当に神のわざがあらわれている人は、その時代、受け入れられない

イエス・キリストがそうだった、カルトと呼ばれ、名声を失い、この世を去った

働きに見合った評判は得られない

人の評価を見ていくときに、ズレたり、ひっくり返されたりする

神の働きをしている人は最後まで認められない可能性がある

そして、もし、今の時代で報いを受けると後の世において受ける報いが減らされてしまう可能性がある

たとえば、レムナントキリスト教会に真理が示されている

獣の国がアメリカとか見ていることを見ていても、キリスト教会で的確に正しく評価されるかどうかは別

そんなことにジレンマを持っているなら、神様の働きは、やっていられない

正しい終末の啓示が真に的確に来ていても、的確に評価されるか受け入れられるかは別

私たちの受ける報いは、この世ではなく、のちの世

イエス様の最後は死刑台、罰だった

大事なポイントは神の前に正しい真理を得ているかどうか

 

12:12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。

「使徒としてのしるし」:素晴らしい癒し等

しかし、世の終わりは偽者のしるしやわざが出てくる

 

12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。

12:14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。

金銭的な負担をコリントの人にはかけないと言っている

献金に関しても主の語った通りにする

献金も相手によりけり

 

12:15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。

「たましいのためには、大いに喜んで財を費やし」:神の働き人になる場合に、親みたいな存在になる

このことは奉仕に着いていくときの原則、ライン

奉仕には、時間、お金、手間がかかる、ゆえに、自分自身を費やす

たとえ、今の世で受けるものは限られていても、今の世ではなく、のちの世で受けるべきものを得る

のちの世の報いは比べられないくらいに大きいのでなすべき奉仕をしていきたい

 

12:16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。

12:17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。

12:18 私はテトスにそちらに行くように勧め、また、あの兄弟を同行させました。テトスはあなたがたを欺くようなことをしたでしょうか。私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。

コリントの信者は、結構、ひどいことを言っている

だから、17節で弁解している

コリントの教会は、かなり、捻じ曲がっている

 

12:19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。

パウロは悪く思われている

何を言っても悪く取られる

少なくともコリントの教会の人たちは、そういう人たちだった

神の働きをしていくときに、こういうことがゆるされる

良い麦、毒麦があるように、クリスチャンといっても、色々な人がいる

そういう面についても見ていく

Ex:インターネットの上で、教会や働き人のことを批難したり批判したりする人がいる

そうではあっても、たとえ、毒麦が出たとしても、種を蒔き続けていかなければいけない

どんなに一生懸命やっていても、色々な人が出てくるのは仕方が無い

だからと言って奉仕をやめることにポイントは無い

パウロでさえ、騙し取られたなどと言われているのだから・・・

だけど、そういうところにパウロは奉仕に行った

良い麦が出てくることを期待して奉仕を行っていきたい

 

12:20 私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。

12:21 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。

コリントの教会は罪に入っている

「党派心」について、気をとめてみたい

英語では、「自己の野心」と訳されている

たしかにクリスチャンはキリストの名によって奉仕している

しかし、奉仕している中での惑わしがある

キリストのためと言いながら、結局は自分の野心のために奉仕しているという惑わしがある

とても微妙な部分において、あるいは、本音の部分で違うものを掴んでいるときに惑わしに入ってしまう

神のためと言いながら、自分の野心のために奉仕をしているときに惑わしに入る

おかしなリバイバルが見分けられなくなってしまう

自分が認められたいと思うと、肝心なところからズレてしまう

自己の野心は重要なキーポイント、それによって、違うものを掴んでいる人がいる

自分の野心のために行っている人は大事なポイントが見えなくなってしまう

ゆえに、キリストの生涯に倣う

イエス様は人を増やしたり、会堂を建てたりすることに力点を置かなかった

神の言葉を優先していた

だから迫害や十字架刑も甘んじて受けていた

神のためと言いながら別のものを掴んでしまうことがある

神様はシビアなお方で、その人の本音を見る

キリストは自分の野心ではなく、御言葉に仕えていた

この世では何も受けない、しかし、後の世において王の座を受けた

順番を間違えてはいけない