Ⅱペテロの手紙1:110       2015.4.26

 

1:1イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。

 

ペテロはここで手紙を書いている。

どういう立場で書いているのか。

一つは、イエス・キリストのしもべであるという事。

主の言われた事を語っている。

使徒という言葉。

どの様なニュアンスがあるか。  これは、代表者という事。

キリストを代表して、我々のために語っている。

聖書はそのような事を語っている。

「ペテロの手紙」とあるが、ペテロ個人の主張ではなく、主がまさに語っている事を、しもべとして語っている。

 

1:2神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

 

神を知る事。また、イエス・キリストを知るという事。

聖書の中で度々、「神を知る」「キリストを知る」という事が語られている事には、目を留めておく。

我々が、初めてイエス・キリストを信じた時は、そんなには知らなかった。

始めは仕方のない事。

しかし、段々、クリスチャン生活を送る中で、深く分かって来、知るようになる。

この事が、一人びとりの歩みを強めたり、助けたりするようになる。

この事は、よくよく知っておきたい。

キリストを知る事に、力を尽くしている人もいるし、「どうでも良い」と思っている人もいるかも知れない。

キリストを知る事が、聖書の中の中では、非常に勧められているし、実際にキリストを知って初めて分かるという事が多くある。

エレミヤ牧師の場合は、終末の事に関しての、召し、働きを知る導きの中で預かっているが、

要は同じ事。 「神様は、大体こういうパターンで語られる」とか、喩えもしかり。

段々と分かって来、知るようになって来た。

隠された喩えとか、言われている事が分かって来る。

それによって、主を知る事に大きなポイントがある。

 

1:3というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

 

我々は、命を得て行かなければならない。

「いのちと敬虔」と書いてあるが、永遠のいのちの事を書いてある。

それに達する方法、大事な事として書かれている事は、永遠のいのちに至るために、どうしても通過しなければならない事として、ここにある「徳」を得る事。

そうでないと、永遠のいのちが危ない。

「徳」とは、具体的に、御霊の実。  これを、我々のクリスチャン生活において、得られるかどうか。この事が、大いに永遠のいのちにかかわって来る。

エレミヤ牧師が、まだ20代で、運転免許が無かった時、免許の合宿に行った。

12週間、他の合宿性と共に雑魚寝して、毎日、学科の勉強と、実際の実施の訓練があった。

そこでの目標は、たった一つ。  何はともあれ試験に受かる事。

そんな意味で、我々が、「御霊の実」を得て行くか行かないかによって、命と敬虔、永遠のいのちを得て行くか行かないかが、大きな違いになって行く。そのあたりが、本日の聖書箇所の結論。

こういった事柄は、聖書の中に度々強調されている。

 

マタイ

3:9『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

 

我々の信仰の先祖もアブラハム。  旧約の神の民のイスラエルはみなアブラハムを先祖としているが、我々は、新約のイスラエル。そういう意味では我々にとっても先祖はアブラハム。

この事を理解しなければならない。

だから、「我々は新約の先祖はアブラハム」「我々は霊的なイスラエルである」「我々は、クリスチャンだから救われている」など、そういう事だけで誇ってはならないという事が言われている。

 

3:10斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

ここも大事。 木は、実を結んで何ぼだという事が、聖書の率直な結論。

バプテスマのヨハネの言葉だが、イスラエルの人達は勘違いしていた。

「自分の血筋さえしっかりしていれば問題ない」

バプテスマのヨハネは正しい事を言った。

「自分の先祖がアブラハムだという事だけでは、何の保証にもならない」

「実が大事だ。良い実を結ばない木は、みな切り倒される」という事を言った。

これが、正しい主からの言葉。これは、新約の我々においても同じ。

我々もその意味で、アブラハムの子孫。新約のイスラエル。立派な牧師を通して洗礼を受けているかもしれないけれども、それはただ、アブラハムの子孫に属しているというだけ。

しかし、それをもっては安心できないと、ここでバプテスマのヨハネが言っている。

 

3:10斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

「実」が大事。

「実」とは何か・・・この箇所だけで解釈してはいけない。

クリスチャン生活の中で、神は、「実」を求めている。

その事は良く理解する。

エレミヤ牧師も昔、イチゴ狩りに行ったことがある。

しかし、イチゴの葉や根っこを持って帰ったわけではない。

イチゴの「実」を取って帰った。

我々は、御霊の実を結ぶ事がポイント。

「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

とまで書かれている。

聖書が、何度か繰り返して書いてある事柄は、「実を結ぶ」という事であって、はっきり言うならば、クリスチャン生活の大きなゴールがそちらにある。

我々は、それをきちんと、クリスチャン生活の限られた年月の中で得なければ、行く末は暗いものとなってしまう。

そのあたりに焦点を定めて行くのが、とても大事な事。

御霊の実を結ぶ事に力を入れて行く。

これは、聖書の中で度々、神様が言われている事。

知っているだけではダメ。  実践しなければならない。

実際に良い実を結んでいかなければ、その後は危ないものになって行く。

実際に我々は実を結ばなければならない。知っているだけでは意味は無い。

聖書はいくつかの箇所で、その事を語っている。

御霊の実を結んでいく事に、力を尽くしていく。

それは、永遠のいのちに通じている。

 

Ⅱペテロ

1:4その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 

言わんとしている事は、徳、すなわち御霊の実。これに関連して素晴らしい約束が私たちに与えられた。

素晴らしい約束が、どういう事かというと、我々が、簡単に言うならば、正しく御霊の実を結ぶようになるならば、神のご性質に与るという、神の約束が与えられている。

しかし、その反対に、世にある欲に従って行くと、滅びに入って行く。

なので、クリスチャンは、ここで書いてある事は、二つの選択があるという事。

(御霊の実)を求めて、素晴らしい約束に入って行くか、欲に従って、最後に滅びに入るか。

二つの事が、この4節に書かれている。

どちらかという事。クリスチャンであってもそう。

そういう意味合いでは、良くも悪くも、我々の歩み方次第で結論が大きく異なるというのが、聖書のはっきりとした結論。

スタートは同じ。皆洗礼を受けて、キリストを信じてスタートするが、必ずしもゴールは同じではない。

 

ガラテヤ書

5:19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 

これが、欲に従って、滅びに入るという事。

これは、クリスチャンに対してこういう事が書かれているので、クリスチャンであっても、こういう道を歩んで行く人もいる。

欲を追い求めて行く歩みは、残念ながら神の国を相続する道に通じていない。

 

5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 

やはりどちらかという事。御霊の実を追い求めて行くのか、肉の実を追い求めて行くのか、肉の実を追い求めて行くならば滅びに入る。

 

Ⅱペテロ

1:5こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、

1:6知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、

1:7敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 

滅びに入るという事ではなく、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、」御霊の実を積み重ねて行きなさいというのが、ペテロがここで勧めている事。

我々がこの事を素直に聞くならば、力の入れどころ、大事な、集中すべきポイントというのは、

御霊の実を増し加えよという事。

この大事なポイントをよく覚えておくべき。

ここにあらゆる努力が入っている人は、正しくポイントを捉えている。

過去の事はどうでも良いから、今より後、御霊の実を求める事に「あらゆる努力をする」

やはり、努力をしないと、御霊の実は身につかない。

努力をして行けば、身に着く。

 

1:8これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

1:9これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。

 

これらが備わったなら、キリストを知る点で役に立たないという事は無い。

これらとは、御霊の実。

御霊の実が我々の内に備わって来て、実を結んでくる時に、イエス・キリストを良く知るようになる。

キリストを知るという事において、我々が進んでいくならば、これは我々の働きを強め、我々自身も、主の恵みに大いに与って行くものとなる。

ちゃんと御霊の実を結ぶ人というのは、段々イエス・キリストの事がよく分かって来る。

しかし、「近視眼であり、盲目であって、」キリストの事がわからない。

レムナントにおいても、段々求めて行く時に、それなりに分かって来る。

「神様はこういう性質の方だ」という事がわかって来ている。

「この御言葉は、このような事を語っている」など。

キリストを知る事において、徳(御霊の実)がきちんと、実を結ぶかという事が、鍵になって来る。

 

1:10ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。

 

召された事と、選ばれた事を確かなものとする。

召されるというのは、英語でコーリングというけれども、召される、呼び出されるという事柄。名指しで呼ばれるという事。

なので、主の声がかかっている事が、まさに召されること。

召しが、確かでない人もいる。    声をかけられているけれどもちゃんと応答しないなど。

選びがあやふやな人もいる。  弟子の歩みに入ろうか入るまいか、10年くらい考えている。

それはあまりに不確か。

そういった事には、御心が無い。

やはり、はっきりした事にポイントがある。

然りは然り、否は否で、やるならやる、やらないならやらないと言った事にポイントがある。それが、「確かなもの」とされる。

召しと選びを確かなものとしていきたい。