Ⅱ歴代誌22章 2011.7.24

 

22:1 エルサレムの住民は、彼の末子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラビヤ人とともに陣営に攻めて来た略奪隊が年長の子らを全部殺してしまったからである。こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。

:ヨラム

ヨラムの父ヨシャパテは圧倒的な勝利を得た

しかし、子であるヨラムは災い続きの生涯だった、挙句の果てには、略奪隊に殺された、そして、アハズヤだけが残った

旧約の神の民である王ヨラムの子どもという子どもが殺された

このことには、たとえの意味合いや語りかけがある、それを理解するかしないかで受ける恵みが異なる

神に愛されたユダの王国のヨラム王は神に背き、無惨な死に方をして、子どもという子どもが殺されてしまった

祝福を得るか否かは、王の歩みによる→王だからと言って必ずしも祝福とは限らない、歩み方次第

このことは、新約を生きる私たちにも語りかけがある

(新約で言う牧師、教師、指導者)の歩みが主の目の前に悪だと信仰的に子どもが死んでしまう→永遠の命を得られない→子どもが死んでしまう(霊的に)という結末になる

Ex:カソリック

まともでない信徒が多い

教会がまともな教えをしていない Ex:マリヤに向かって祈る、ロザリオに祈る

ヨラムは主の目の前に悪を行っている→どんどん信者が死んでいく

王の歩みが正しくないと子ども(信者)がバタバタと死んでいく

聖書で起きていることは偶然ではなく全て必然→神は、鏡のようなお方、ゆえに私たちが行ったように起きてくる、歩みが反映される

 

22:2 アハズヤは四十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王であった。彼の母の名はアタルヤといい、オムリの孫娘であった。

22:3 彼もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母が彼の助言者で、悪を行なわせたからである。

22:4 彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。

22:5 彼はこの人々の助言を重んじて行動し、イスラエルの王アハブの子ヨラムとともに、アラムの王ハザエルと戦うため、ラモテ・ギルアデに行ったが、アラム人はヨラムに傷を負わせた。

その人が、まともなクリスチャンになるかならないかは教育次第

(アタルヤ)の言うとおりにしていたら、とんでもない方向へいってしまった

アハブの家の助言者がこの人を滅びに至らせた

誰を模範として歩むか、学ぶかによって結論が異なる

人数の多い少ないとか、会堂があるか無いかは全く関係が無い

霊の父(牧師)や母が教会にいる

教会を選ばなければいけない

助言者によって歩みが変わってくる

Ex:カソリック教会に行き、「マリヤに祈りなさい」と言われたら、その通りに祈ってしまう

誰を助言者、教師として選ぶか、誰から学びや教えを受けるか、選び方次第で神の怒りをかったり、とんでもないところにいってしまう→結果として罪、死に至る(後の世においては火の池の可能性が大いにあり得る)

クリスチャンだからと言ってエスカレーター式に天の御国に行くわけではない

今のキリスト教界は教理をねじ曲げているので真理が分からない

Ex:クリスチャンと名が付けば、皆が天国へ行くと言っている、しかし、これは誤り

ろくに聖書を読まない人は変なものをつかんだり滅んでしまう

きちんと聖書を読まないとダメ!

 

22:6 彼は、アラムの王ハザエルと戦ったときにラマで負わされた傷をいやすため、イズレエルに帰って来た。ユダの王ヨラムの子アハズヤは、アハブの子ヨラムが病気であったので、彼を見舞いにイズレエルに下って行った。

22:7 ヨラムのもとに行くことによって、アハズヤが滅びたのは、神から出たことであった。彼はそこに着くと、ヨラムとともにニムシの子エフーに向かって出て行った。これは、主がアハブの家を断ち滅ぼすために油をそそがれた人である。

アハズヤの滅び→神から出た

アハズヤの道のように主から離れた道を選ぶときに滅びの道を歩ませられてしまう

これは新約を生きる私たちにも当てはまること

旧約と同じ神が今のクリスチャンにも同じことをする

正しく歩まないときに神の方法によって滅びに至らせられてしまう→滅びの罠や器が送られる

 

参照 Ⅱテサロニケ2:11

2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

ある限度を超えてしまうときに、こういったことがおきてくる

神から滅びが送られてくる

Ex:進化論、キリストは復活していないことを盲信させられる、つまり偽りの剣でやられてしまう

しかし真に求めていくときに、惑わしから解放されていく

惑わしに入るときに、本物をつかめなかったり滅んでしまう人がいる

正しく歩まないときに神からの惑わしの器が来てしまう

Ex:エフーは一人でイスラエルの王、ユダの王を打ち取った人

エフーが強いということもあったかもしれない、しかし、これは、神が命じたこと

 

参照 Ⅱ列王記9:6,7

9:6 エフーは立って、家にはいった。そこで若い者は油をエフーの頭にそそいで言った。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。

9:7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。

このとき、主から油が注がれてエフーにアハブ王を打ち殺さなければならないという任命が下った

このことを実行したときに二人の王は殺されてしまった

神が本当にその人について語られたことは、難しいことであっても実現してしまう

これはエフーだけでなく私たちにも神が本当に語ったなら実現してしまう

 

参照 エレミヤ1:9,10

1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

この御言葉はエレミヤ牧師にも語られた

実行していくときに真実になっていく

Ex1:悪霊のリバイバル集会に関して誰も異論を唱えていなかったので聖霊の第3の波のビデオを通して警告をした→論争が起きたが、分かる人は理解するようになった

Ex2:レフトビハインドが出版されるときに艱難前携挙説のことについて「終末の空想話」と異を唱えた

それを読んだ牧師がレフトビハインドの記事に「レフトビハインドは終末の空想話」と書いたため、はじめからずっこけてしまった

それをきっかけに、各牧師が検証している→結果、レフトビハインドは完敗となった

任命されたら信じて行っていかなければならない

召されることは1つのこと、でも、それに応じるかどうかは別のこと

しかし、神が語られてもいないのに出ていったら負ける

しかし、本当に神が語られて応答したら勝利を得る

Ex:「アメリカは獣的」と書いている→獣の国がアメリカであることを語ったゆえ

主が言われたら行っていくことにポイントがある

 

22:8 エフーは、アハブの家にさばきを行なったとき、アハズヤに仕えていたユダのつかさたちと、アハズヤの兄弟たちの子らとを見つけたので、これらの人々を殺した。

22:9 彼がアハズヤを捜したので、人々は彼を捕えた。彼はサマリヤに身を隠していたのである。こうして、人々は、彼をエフーのもとに引いて来て殺したが、これは心を尽くして主を求めたヨシャパテの子であると言って、彼を葬った。アハズヤの家は王国を治める力を失った。

アハズヤは王であったが、殺されて死んだ

このことに、語りかけや新約へのたとえがある

クリスチャンとして歩んでいても殺されてしまう(霊的に)場合がある

惑わしや変な霊をつかみ、永遠の命を失ってしまう

クリスチャンといっても永遠の命を得るのは別のこと

歩み方次第によって変わる

今は、偽預言者(誰からも批難されたり、責められない預言者)が多い時代

クリスチャンといっても必ずしも皆が命を得るわけではない

 

22:10 アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちにユダの家に属する王の一族をことごとく滅ぼした。

22:11 しかし、王の娘エホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れた。こうして、ヨラム王の娘、祭司エホヤダの妻、エホシェバは、――彼女がアハズヤの妹であったので――ヨアシュをアタルヤから隠した。アタルヤはこの子を殺さなかった。

22:12 こうして、彼はこの人々とともに、神の宮に六年の間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。

例外的であっても、この時、女性のアタルヤが王だった