へブル1:1~7                        2014.4.6

 

 

 

1:1神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、

 

1:2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

 

 

 

神は、目には見えないが語るお方。

 

多くの部分、つまり各時代ごとに、モーセの時代にはモーセ、アロンを通して、士師の時代には、ギデオンを通して、また、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど預言者を通して色々な方法で語られた。

 

そして終わりの時には御子イエス・キリストを通して語られた。

 

 

 

神はわれわれに、語られる。

 

 

 

御子は特別なお方。

 

一つは、御子イエス・キリストによって世界は造られた。

 

もう一つは、神は御子を万物の相続者とした。

 

 

 

ローマ

 

17:16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 

17:17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をもともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

17:18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 

 

 

我々は、共同の相続人。

 

教会はキリストの妻に喩えられる。

 

妻は夫の共同相続人。     男であってもキリストの妻。

 

この世では良い事ばかりではない。条件は、キリストと共に苦難を共にしていること。

 

苦難があったなら、相続の資格のポイントが増えたと思うべき。

 

この相続に比べれば、この世の苦難など取るに足りない。

 

 

 

へブル

 

1:3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 

 

 

我々は、イエスキリストという方に関して、見えるところばかりではなく、見えないところも理解しなければならない。

 

我々も、キリストと共に苦難を受けるなら、後の世に栄光を受ける。

 

神の本質の現われ。      ギリシャ語では「キャラクター」

 

イエス様は、神のキャラクター。

 

主が肉体をとって来られたのは非常に感謝な事。

 

我々は福音書の、イエス・キリストという方の生涯を見ることによって、神様という方の最も分かりやすいパターンを受けたと理解することが出来る。

 

イエス・キリストの歩み、考え方、語られたこと、行動、みんな、目に見えない神ご自身を、見える形で我々に提供して下さった。

 

 

 

1:4御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

 

 

 

我々が知らなければならない事は、父親の遺産があるとすると、兄弟があれば、もめる。

 

ヤコブとエサウがもめたように、相続の資格がありそうな者として、一つは御使い、もう一つは人間、という風に、聖書を読んでいくと見える。

 

人となって来られたイエス・キリストが御使いより勝った者となったとは、肉体を持っておられたイエス・キリストのことというよりは、後に受けた栄光。

 

主は、苦難の後に引き上げられ、神の御座の右につかれ、そして栄光を受けられた。

 

イエス・キリストが人の形をとって来られたという事を通して、人としての我々も、同じように、御使いよりも優れた名を持つようになり、また、優れたものとなるという事。

 

全ての人ではない。

 

キリストと共に苦難を共にして行くなら、共同相続人になる。

 

 

 

1:5神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

 

1:6さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」

 

1:7また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、

 

 

 

イエス・キリストは、御使いより優れた地位につき、優れた名を相続された。

 

結果として、我々も、キリストと共の相続者なので、御使いよりも優れた地位につくようになる。

 

兄は弟に仕えるようになる。御使いと人間の逆転を言っている。

 

もう一つは、我々が知らなければならない事は、後の世でそうなるという事。

 

今においては人間は弟分。    なので、権威を尊重しなくてはいけない。

 

イエス・キリストも御使いよりも低い位置に置かれたが、後に逆転した。

 

我々も、同じように歩まなければならない。

 

 

 

一部の御使いは、非常な怒りを持って、弟(人間)を狙っている。

 

弟殺しは聖書の中では度々出てくる。  エサウもヤコブを殺しそうになり、カインもアベルを殺した。

 

これもやはり預言である。

 

我々はいくつかの事を知らなければならない。

 

後の世でイエス・キリストが偉業を成し遂げられたので、我々も後の世で、御使いと立場が逆転する。   相続権も同様。

 

それをすべて知っている兄である御使い・・特にサタンは、怒り狂って、大いにしつこく、

 

あらゆる方法で、特に後の世を継ぐ予定の人間に目をつけて、色々失敗させるように仕掛けてくる。

 

我々は、後の世では、「御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる」けれども、今の世においては、僕(しもべ)として歩んでいく事が正しい。

 

 

 

マタイ

 

20:24このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。

 

20:25そこでイエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に連力をふるいます。」

 

20:26あなたがたの間ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

 

20:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなた方のしもべになりなさい。

 

20:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 

 

 

主イエス様の時もそうであった。  そして、皆の足を洗ったように、多くの人にパンを供給したりメッセージをしたり、ずっと仕えていった。

 

そのように仕えて、しもべとして姿をとられたイエス・キリストは、神の御座の右につかれたというのも事実。

 

我々もそれを見習っていく。

 

後の世で偉くなりたければ、今の世では仕えて行くべき。

 

人に認められなくとも仕えていく。

 

しもべとしての歩みにポイントがある。

 

 

 

礼拝とは、サービス。 仕えるという事。

 

我々もこれを実践していきたい。