へブル書10:20~10:31 2014.8.31
10:20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
我々には道が必要。 永遠の命に至る狭い門、狭い道。
「新しい生ける道」を主が用意して下さった。
イエス・キリストの身体を通して我々は、永遠の命への道に入って行く。
我々の肉体は罪に繋がっている。
主は我々のために新しい肉体を用意して下さった。それを通して、我々は入るべき命の道に入って行く。このポイントは押さえておくべき。
イエス・キリストはだてに十字架にかかって死に、甦ってきたわけではない。
我々の罪の身体は死ななければならない。それゆえに、キリストは、我々の代わりに死なれた。
「甦り」は、我々が、主によって甦りの命を受けるため。
主は我々に新しい体を与えて下さった。
このあたりは是非、捉えていておきたい。
10:21また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
祭司は、神と人との間に立ち、贖いをしたり、とりなしをしてくれたりする。
10:22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
邪悪な良心。 我々の良心は、邪悪なもの。言い方を変えると、曇った良心。
一つここで理解しなければならない事は、自分の目には、どんなに正しいと思っていても、実は我々の持っている良心自体が邪悪。
ギリシャ語の「良心」の元の意味合いは、「見る」
我々の生まれつきの良心、正しいと思っている感覚も邪悪なものであると聖書は語っている。
しかし、邪悪な良心でも、御霊によって清められる。その人自身の行動をも変える。
色々な邪悪な行動から解放される。
10:23約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
約束された方は真実(忠実)、これはイエス・キリストのこと。
残念ながら人間の世界では、裏切ったり、裏切られたりすることがある。
聖書は、イエス・キリストに対して、忠実な方であると語っている。
その事をわきまえておくべき。
私たちは困難にあっても動揺する必要はない。
「しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
告白という事が、これから大事になって行く。
主も告白という事を大事にされている。
「私を人前で告白しない者は、私も天の父と御使いたちの前で告白しない」
我々が口でしゃべる事もそのまま行いになる。
本当に大事な時に、きちんと告白出来るように祈り求めて行きたい。
10:24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
「いっしょに集まることをやめたりしないで」
「一緒に集まる」という事は、教会の集会に集まる事。
その事は、信仰生活に大きな影響を及ぼす。この事は、大事なポイント。
教会に行かなければ、信仰は弱まる。
クリスチャンは、交わりによって強められる。
孤立するのは、サタンの惑わしの一つ。
「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」
KJVでは、「お互いに注意を払い合う」というニュアンスがある。
人は一人では生きていけない。教会の中で(小さな教会であろうと)、お互いに集まる中で相手の人が、どんな問題があるのかとか、どういう病に悩んでいるのかとか、そういう事に注意を払って、それらのために祈ったり、弱いところを支えたりなど、そういった事のために集まる事をやめたりしないという事につながる。
場合によっては、状況に応じて、愛を促したり、良い働きを互いにしあったり、そういう意味合いで一緒に集まる事にポイントがある。
弱ったり、不信仰に陥ったりすることがあるが、一緒に集まり、祈り合ったり、励まし合ったりする中で、そのような事を大いに感じる。
神様がクリスチャンの交わりとして、用意して下さっている方法なので、是非、尊重していきたい。 それが原則。
10:26もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
10:27ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
突然恐ろしい事が書いてある。
KJVでは、「裁きを、はっきりと確信する」というニュアンスがある。
やはり、主を恐れて、悔い改める事が出来る内に悔い改めること。
10:28だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
10:29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
今、アメリカの宗教的な事に関して、「アメリカに起きている敵意に関してのレポート2013年版」があるが、特に軍隊、兵士に対して、締め付けが厳しく、平日は色々な訓練があるが、休みの日、近くの教会に行こうとした。しかし、ストップがかかった。
そこは福音派であった。
その教会では、キリストの贖いや復活を信じていた。
この教会に行こうとしてストップがかかり、「カトリックなら良い、イスラム教の寺院なら良い」 「キリストの贖いや復活を信じるのは、原理主義者だ」
そういう風になってきている。 墓標すら、十字架のものはダメだと言われる。
亡くなった軍人の葬式においても、イエス・キリストの名で祈る事を禁じたりする。
これは一例。 アメリカでは、そのような動きがたくさんある。
それは、神の子を踏みつける方向へ行く。
「イエス・キリストはただの男で大工のおっさんに過ぎない。十字架にも実際はかかっておらず、そのフリをしただけだ」など。
恵みの御霊を侮る事とは、一つは悪霊的なリバイバルがキリスト教会を席巻しているという事。
例えばベニーヒンなど。
そして、聖霊に従っている人達が、悪霊呼ばわりされること。
黙示録13章には、手や額に獣のしるしの無いものは「売る事も買う事も出来ない」とある。
「売る事も買う事も出来ない」とは、贖いの事。 獣のしるしは、悪霊のしるし。このしるしの無い人は教会内で奉仕が出来ない、つまり喩えで、「売る事も買う事も出来ない」。
聖霊を受けているクリスチャンが、汚れた霊を受けていると言われる事。
契約の血を汚れたものとみなすとは、この事。イエス様もベルゼブル扱いされた。
つまり、聖霊が悪霊呼ばわりされる時が、終末には来る。
また、すでに、教理においては逆転現象が起きている。
例えば艱難前携挙説はいまだキリスト教界を席巻している。
小説レフトビハインドは、何千万部と売り上げている。
教理の方でもインチキな教えが幅をきかすとは、霊的な事にも同じことが来る。
今世界中で一番教勢を伸ばしているのは聖霊派だと言われているが、
教理において、おかしな教理が、正しい教理よりも優勢になっている。
霊においても、どうして聖霊が、駆逐されて行かない。
悪霊が席巻したからといって驚くにはあたらない。
背教の最たるもの。それを暗示するものが、
反キリストはまだ現われていない。それを抑えておられる聖霊がおられるから。
しかし、やがて聖霊が追い出される日が来る。
聖書のあちらこちらの箇所に、この日が来ることを預言されている。
ヨハネ黙示録の11章では、二人の預言者が、その都で殺されるが、彼らの主もその都で十字架につけられた。ここで言う主とは、キリストの霊。
神の子が再び十字架につけられるという事がここに成就するという事。
10:29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
この事は、脅しではなく、近未来に関して成就するという事。
10:30私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
10:31生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
書かれている事は必ず成就する。
レムナントキリスト教会
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