へブル書11:10~20 2014.9.21
11:10彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
アブラハムが入った都。
都に入るためにアブラハムは天幕生活をしていた。
11:9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
一つはアブラハムの、全ての旧約のイスラエルの民族の先祖。
クリスチャンは新約のイスラエル。 アブラハムは、我々にとっても先祖。
アブラハムの生涯から学ぶ人は学ぶが、学ばない人は、全く学ばない。
我々が、どちらであろうと、神様は、ここに教えを定めておられる。
そこから謙虚に学ぶ人は益を得るが、そうでない人は、最も大事な事をもらしてしまったり、抜けてしまったりする。
一つは、他国人の様にして住む(旅人であり寄留者) 。
もう一つは、天幕生活をしたということ。アブラハム、イサク、ヤコブ。
今で言うテント生活。 喩えで言われているのは、神ご自身も天幕(幕屋)に住まわれた。
要は、神と共に歩むという事柄に関しての事。そういう人は、約束を受け継ぐ。
このあたりのポイントは見て行きたい。
ノアも、箱舟に入った。それが入るべき御国に入るという事、命を救うという事に通じていた。
箱舟は、契約の箱に、明らかに通じている。同じギリシャ語が使われている。
契約の箱は神のご臨在。神と共に歩めば、洪水を経ても命を救う、大きなポイント。
明確に、大洪水は、世の終わりに来る。文字通りの水ではなくとも、世の終わりは、ノアの時のようであり、ロトの時のようである。
洪水とは、霊的な大洪水であり、惑わしの霊の大洪水。
その時のポイント、逃れるポイントとは箱舟を造ること。これは喩え。
契約の箱に通じるように、そういう意味では、我々が、正しく神の臨在と共に歩むかが、これから起きて来る霊の惑わしの大洪水に入ってしまうか否かの、大きな違いになって来る。
今の世の終わりの一つの特色は、悪霊の大洪水。(例:ハリーポッターなど)
アメリカ由来のわけの分からないリバイバル= ベニーヒン、ロドニーハワード、ビルハモンなど、これらは、神からの霊ではない。
これこそまさに、聖書に予言されているノアの洪水の先駆けだが、殆どの人はそれを見ることが出来ない。多くの人は、大洪水の中に入って行くけれども、箱舟を造るものは、ノアが守られたように、(契約の箱に通じる) 神の臨在に歩む人はそれらから守られて行く。
このことは、他のみ言葉にも通じる。
例としては、愚かなおとめ、賢いおとめ、油=聖霊、アブラハムのテント生活、
愚かな人はこういった警告を一つも見る事がないが、我々はこれらの事を語るのが仕事であり、
そういう召しなので明確に語る。
愚かになって、霊の見分けが出来ず、わけの分からないリバイバルに流される事の無いようにする。
11:11信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
サラがイサクを宿したのは99歳の頃。
人の常識ではあり得ない年齢で子を宿した。
サラを通して、我々が、学ばなければならない事、彼女を通して、ここでも喩えが働いているが、「子を宿す」= 「種」を宿す。
「種」は、喩えば御言葉の「種」
理解しなければならない事は、受ける、読むなど、みんな同じように聞く。
ある人達は、御言葉の種を宿す力を霊的に持っている。逆にそれがない人々がいる。
御言葉の種が、ある人はそのままであって、全くその人の信仰の身体の中で成長しない。
つまり、子が宿って来ない、そういう事柄。
ある人は、子を宿す。
サラの場合は、信仰によって、子供を宿す力、成長する力を与えられた。
この力を与えられるかどうかで、我々クリスチャン生活が変わって来る。
御言葉を聞いて、ちゃんとそれが宿って来るかどうかで、クリスチャン生活は変わって来る。
どんな言葉でも、それが成長してくると、その人の益になるし、他の人をも助けるようになって来る。
永遠の命の事に集中して、生きて行くのがクリスチャン生活として最も妥当だということ。
「種」を宿す力というのは、本当に意味の深い言葉。
その力は神から与えられる。その力を持って、我々は働きを担う。
しかし、素通りしてしまう、御言葉が成長しない、種が成長しないのでは、何の意味もない。
我々の成長というのは、御言葉の種が宿って行く、というのに大きなポイントがある。
元々サラにはその力が無かったが、信仰によって、その力が与えられた。
11:12そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
死んだも同様という言葉。 死んだも同様のアブラハムという事柄。
喩えの意味合いでは、聖書では、死というのは、罪に通じている。
我々が罪にいて、良い事が一つもできない、死に近い(死んだも同然)、そういう者であっても信じて行くならば、アブラハムの様に立て上げられていく。
しかもそのアブラハムを用いて、たくさんの人が生まれたように、我々のようなものを用いても、神は、業を成してくれるというのが、ここで語られているメッセージ。
多くのみ言葉は、どれもこれもメッセージ、教えがあるが、ある人はそれに気づくが、ある人はただ読み流してしまう。 出来れば、メッセージを受け取って行きたい。
信じて歩む人は、その業を見る。
アブラハムから信仰を受け取る人は、この様な業を自分の生涯において見る事が出来る。
他人事だと思っている人はそれきり。
我々は皆罪人。死んだも同然。 しかし、絶望してしまってはいけない。
アブラハムの生涯は、我々にこの事を教えるために書かれている。
「死んだも同然」は、別に歳を取ったという意味ではない。
喩えを理解すべき。これを通して、我々が、罪、死の中で、死んだも同然、神の御前に何の役にも立たない者でも、神の業が出て来るというのが、アブラハムを通して語られている神様からのメッセージ。
それを信じて行って行く人は、業を見て行く。
サタンの方法は、クリスチャンを、落ち込ませる。
そして、悪い確信を与える。「お前はダメだ」など。
サタンの言う事を信じてしまうと不信仰になる。
11:13これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
これを通して教えられることは、我々は地上において約束のものを必ずしも得るとは限らない。
地上では、ヤコブも約束のものを得ていない。
約束は、天において実現する。
彼らは「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
聖書の中には「告白」という言葉が出て来る。
告白というのは大事。
我々も、地上では、旅人であり寄留者であることを告白した方がよい。
寄留者の反対語は、地に住む人々(英語でダウエル、定住する者)。すっかりこの世についてしまった人々。
クリスチャンのあるべき姿とは、この世では、旅人であり寄留者であるという事が、このような立場が、聖書的に正しい。 しかもそれを「告白」していく事にポイントがある。
残念な事だが、今のキリスト教界のトレンドは、クリスチャンをますますこの世につけて行く。地に定住させる方向に明らかに来ている。あらゆるキリスト教の教えが、そういう方向に来ている。聖書と違う方向に来ている。
愚かな人は、そういうものを見抜けない。ますますそれに追従していく。最後には永遠の命を失うような事になってしまう。
しかし、我々はそのような愚か者になってしまってはいけない。
この世についた人は、偽予言者、羊の皮を被った狼、最たる者は、ローマ法王。
すでに聖書とは全然違う事を多く説いている。「地獄は無い」など。
プロテスタントにもたくさん入って来ている。リックウォレンなど。
時代はそのような時に来ているが、神の言葉は決して変わる事はない。
ポイントは、この世においては、旅人であり寄留者であること。しかもそれを告白していくというのが大いに大事。
この世の人が大いに求めているものに、クリスチャンは寄って行ってはならない。
旅人であり寄留者として最も代表的なのはイエス様の生涯。
イエス様の生涯は明らかに天を目指している。
評判の事を気にしていたら、あのような奉仕は出来ない。
我々もそのような歩みをして行けばよい。
このような歩みは、世的なクリスチャンには理解できない。
我々は信仰については、世的なものでなく、イエス・キリストの歩みについて行くべき。
11:14彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 11:15もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
なので、地上では、自分は寄留者であり旅人である事を告白していく。
それが、実は、入るべき御国に入るための一つのポイントかもしれない。
11:17信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
アブラハムがイサクを捧げるというのは、本当に大変な事だった。
我々が、アブラハムの箇所を通して言われることは、主に従って歩んでいくという時に、アブラハムは、我々の信仰の先祖であるから、どのクリスチャンも、大なり小なり、多かれ少なかれ、イサクに匹敵するようなものを神の御前に捧げるということを神から求められる事がある。
捧げない人もいると思う。しかしそれでは、アブラハムの受けたような祝福を受けない可能性がある。
ひとり子イサクという言葉に語りかけがある。
神のひとり子といえばイエス・キリスト。
神ご自身も、ご自分のひとり子であられ、最も愛する者であられる御子イエスを捧げたので、
同じ意味合いで従って行く人は、自分にとって最も大事なものを、イサクに匹敵するものを捧げて行くという事を神は望んでおられるのではないか。
そして、我々が、正しく神に従って歩んでいこうという時、多くの人は引いてしまった。
イサクを捧げるに匹敵するような経験をどこかでする。
それは、つらい経験だがそれを主にあって、人によっては出来ない事かも知れないが、捧げる時に、入るべき恵みの歩みに入って行く。
アブラハムがイサクを捧げた後、祝福と契約を神から受けた。
11:18神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
「死者の中からイサクを取り戻した」これは、英語の表現だと、「それで彼はイサクを復活させたのです」 これは、復活の型。
何を語ってるかというと、イサクをもう一回与えられたのは死人の復活のような事だと聖書的には見えるという事を、へブル書の記者は言っている。
それはまた、ある意味では、どんなクリスチャンも、ここで教えられているメッセージというのは、我々がもしアブラハムの様に信仰をもって歩んで行くなら、我々自身も、死者の復活を経験するようになるという事。これは、後の日の事ではない。 ラザロの復活は死者の復活の
型。 我々は、死者の復活を経験して行かなければいけない。
言わんとしている事は、我々が、霊によって甦るという事。
死者からの復活は、まず、罪の中に死んでいるという事が前提にある。
そういう者が甦る。それを死者からの復活と呼ぶ。
ラザロの復活というのは、その事を見える形で伝えているが、型である。
本来我々は、罪と死の中に死んだ者であったけれども、そういう者も、キリストを信じていく時に、復活の命で立ち上がって、命に立つ事が出来るという事に関しての喩え。
そう見ないと、復活の意味合いも分からなくなってしまう。
アブラハムのように信仰を持って、イサクを通して、死者からの復活を神はなさる力があると信じた。それは実現した。
我々は、罪にあって死んだ者かもしれないけれども、神はそれを生かすことが出来ると信じた
者はその事を自分の生涯の中で見る、そして実現する。
11:20信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。
レムナントキリスト教会
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