2014.9.28 へブル書11:20~26
11:20信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。
ヤコブとエサウ関して、イサクは預言している。
イサクは、自分の息子である、兄と弟であるエサウとヤコブを取り違えて預言してしまった。
イサクは、目が悪く、騙されてしまった。 騙された祝福であり、預言だったが、見事に成就した。本来、イサクからエサウが受けるべき祝福が、弟ヤコブへ行った。
エサウの方に祝福が残らない事が成就した。それを通して見るべきこと、聖書は、神に関して書かれている。そして、神ご自身は全能な方であり、何でも出来る方であるが、神おひとりでやっていくというより、人が介在する。 イサクの預言や、語った言葉を用いておられる。
そのままに実現していく。
我々は、変なプライドを持ったり、高ぶってしまってはいけない。
しかし、聖書的な信仰は持つべき。 我々のような者でも、祝福したり、呪ったりする時も、
人の語った言葉というのは、結構実現していく。 イサクの預言も実現していってる。
未来の事が正確に実現していってる。ノアの預言も実現していってる。ノアの3人の息子は、一般的には世界の三大人種の祖先である。
神は人を用いて、人の預言が神によってなされる時に、正確に成就したり、呪いも祝福も実現する。良くも悪くも、人は用いられる。
11:21信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。
杖のかしらに寄りかかって礼拝したことにどれだけの意味があるのか。
喩えを理解していかないと、聖書の大事な部分が殆ど理解出来なくなる。
表面的には分かるように思えても、御国の奥義というものは、明らかに喩えや謎を通して書かれている。
一つは弟子としての歩み。ペテロやヨハネには、喩えの理解を語られた。
御国の奥義を知りたければ、弟子の歩みを求めていく。
ただ、表面的な事だけを知りたければ、そうする必要はない。
もう一つは、喩えを通して語られているので、喩えを理解したり、謎を理解したりするというのが大事。
杖 = 教師の喩え 出エジプト記では、杖を持ってナイルを打ち、ナイルは血に変わった。ここでの「血」とは悪霊の喩え。
世の終わりというのは、明らかに教会に悪霊が働く時。
テサロニケの手紙にも、主が惑わす霊を送るという事が書いてある。
惑わす霊は、教師を通して働く。人の器に関しては、よくよく気を付けなければならないというのが結論。器(キリスト教会の)を通せば、必ず神の霊が来られるというのは少し前まで(100年くらい)の話。 具体的には、20世紀初めの、アズサストリートリバイバルあたりから、おかしな霊の働きが起きている。しかも、やはり杖、教師によってもたらされている。
しかも、今はそういう事が言えない時代に来ている。
杖のかしら = 教師のかしら 教師のかしらはキリスト。
礼拝していく時に、真の教師というのは、やはりイエス・キリスト。この方によりたのみ、また、その方を通して礼拝していく。 ここにポイントがある。
11:22信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
イスラエルの子孫の脱出は日本語で言えば、出エジプト。英語で言えばエクソダス。
この事が、世の終わりにおいても、大きな一つのポイント。
なぜなら、出エジプトはモーセの時代で、今から3000年以上前の話だが、未来の事、終末の事に関して語る、黙示録の中に、出エジプトの事があちらこちらに暗示されている。
具体的に言えば、黙示録11章には、「ソドムやエジプトと呼ばれる都」と書いてある。
これが何かというと、教会が、ソドム化し、エジプト化するという事。
ソドムは同性愛で有名。教会が、同性愛を罪であると認めなくなる。「同性愛は問題なし」と教会で言われる時代が、教会がソドムと呼ばれる都になる時代。そういう傾向はすでにきている。
もう一つは、教会がエジプト化するという事。
ソドム化、また、エジプト化した教会に御心は無い。
そこから脱出することにポイントがある。 イスラエルの民の脱出とはまさにこの事を言っている。
これから、教会はエジプト化する。 すなわち、この世についた教会。これも、本当に神の御心を行う人々は、そこから、エジプト化した教会から出て行くことにポイントがある。
今のキリスト教会の教理は滅茶苦茶であって、何一つ正しい事を理解していない。
艱難時代に入って、我々が本当に永遠の命を獲得するつもりならば、唯一の助けは、神のみ言葉のみ。
しかし、黙示録にしても、ダニエル書にしても、封印されている。だから、封印が開かれるという事は必須。 封印が開かれるならば、ソドムやエジプトと呼ばれる都とは、まさに教会をさして言われている事であり、教会がソドム化したり、エジプト化している。
黙示録の中で、「水が血に変わる」という言葉が出て来るが、これは出エジプト記に出ている事柄。モーセの名には「引き出す」という意味がある。これはまさに民をエジプトから引っ張り出すという意味合いがある。一つは「引き出す」という意味。もう一つは、22節で、「自分の骨について指図しました。」とある。この時、ヨセフが具体的にどういったかというと、あなたがたはエジプトを出る時、「必ず私の骨を、携え出なければいけない」と言っている。
これを、創世記の、ヨセフが語っている個所がある。
日本語ではこう書いてある。「あなたがたは必ず、私の遺骸を、持って行かなければならない」と書いてある。この部分の訳には少し問題がある。元の言葉の意味は、「骨」について書かれている。新改訳では、大事な事が抜けている。
なぜ骨について言ったか。ここに意味がある。 「骨」には、
創世記
7:13ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。
「ちょうどその日に」日本語で言うと、「ちょうど、その、同じ」。これが、ヘブル語の骨という言葉と全く同じ。
そうすると意味が分かって来る。
ヨセフは、エジプトから脱出することを語った。 その時にエジプトから出て行くのは、「骨」であると言った。
言わんとしている事は、神が、出エジプトに値すると認める人は、キリストと全く同じような
歩みをしているという意味。
なので、アダムが、女、神が女を造られた時にこの言葉が使われた。「これこそ私の肉の肉、私の骨の骨」と書いてある。「骨の骨」とは全く同じもの。
アダムとイブは結婚したが、結婚はキリスト教会をさすので、教会があるべき姿というのはキリストと同じような姿になって行くということ。
しかし、やはり、ヨセフが自分の「骨」について命じたという事は、「骨」出ない者は、逆に言うと、出エジプト出来ない恐れがある。
クリスチャンの中でも、キリストと全く同じ歩みをしている、キリストの霊によって歩んでいる人は、出エジプトする可能性がある。そうでない人は、出エジプト出来ない可能性がある。
一つの方向性はキリストと同じような歩みに入って行く。
ヨブが「私は裸で母の胎から出て来たので、裸でかしこに帰ろう」と言った言葉を、イエスキリストご自身は文字通りそれを実現された。
ポイントは、この世のものを何一つ持たずに帰ったということ。
この世の事に未練を持ったりすることは、キリストと同じような歩みをすることが出来ない。
そのようにして、我々は、「骨」になる。キリストと同じような歩みに入る。
11:23信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
ここでは両親が、モーセを隠したというところにポイントがある。
モーセは「引き出す」という意味で、文字通り、出エジプトを敢行した。
しかしモーセは型にすぎず、本当に「引き出す」お方はイエス・キリスト。
「その子の美しいのを見たからです。」 ギリシャ語原文では「神の前に美しい」
神の前に美しい子供だから助けられた。
人の前と神の前とでは、基準が違う。
サムエルは、「人はその形を見るが、神は心を見る」と言った。
神の前の美しさは、外見ではない
我々は、神の前に美しいと認められる、それが、選ばれる、守られる、ポイントになったりする。
「彼らは王の命令をも恐れませんでした。」とある。
一般的に我々は権威に従うべき。
しかし、例えば使徒の時代のパリサイ人、律法学者など権威のある人がペテロやヨハネに対し、「イエスの名で語ってはならない」と言った時、「神に従うか、あなたがたに従うか、どちらが正しいか」と反論した。
また、反キリストが全世界のキリスト教会を覆っていたり、獣の国がいろいろ理不尽な事を言っている時に、「王の命令を恐れない」ということも大事。そういう面がある。
聖書は神の知恵を持って読まなければ矛盾してしまう。
聖霊の知恵を持って読めば矛盾しない。
11:24信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
一つは「パロの娘の子と呼ばれることを拒み、」とある。
我々にとっての意味合いは、エジプトは、この世とか、この世についたキリスト教会。
要はこの世とのかかわりを拒む。この世での名誉など、そういったものを拒んでいく。
我々はクリスチャン生活を歩んでいく時に、二つは両立しない。「未信者と釣り合わないくびきを同じくするな」
この世で大成功をおさめて、尚且つキリスト教会でもトップになるというのは、あり得そうであり得ない事。
両方は難しい。どちらかを拒否する事、それをはっきりした方がいい。
曖昧だと結局どこかで突っ込まれてしまう。
モーセの様にはっきりと、「パロの娘の子と呼ばれることを拒み、」という態度が良い。
そうすれば、はっきりと、神にある歩みという事が定まって来るので、見習うべき歩みであるという事を覚えておくこと。
「はかない罪の楽しみを受けるよりは、」とある。 これもやはり選択。
我々クリスチャンは、クリスチャンだからと言って、決して罪の楽しみを受けてはいけないと
言っても、自由意思がある。牧師でも、誰も強制は出来ない。
しかし、二つに一つである。
我々にも世の楽しみはいろいろある。それは、場合によってはクリスチャンを刺激するかも知れないが、それははかない一時的なものであると聖書にある。
キリストと共に苦しみの道を選ぶのか、それとも、この世の名声、地位、金持ちになるなどいろいろあるが 道は二つに一つだけ。
聖書的に正しいのはモーセみたいに、キリストと共に苦しみの道を選ぶことであるが、あまり人気がない。
11:26彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
モーセの偉いところは、神の民と共に苦しむ事を選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思った事。
そして、我々が真にキリストについて行くつもりがあるならば、歩むべき道。
キリストに従って行く時に、神の民と共に苦しむ。
キリストのゆえにそしりを受けるという事もある。
旧約の預言者はみなその道を行っている。
それらは無意味な苦しみではない。
モーセの偉いところは、報いとして与えられるものから目を離さなかった事。
モーセが自分に召された、神が、なした働きを忠実にこなすならば、神からの報いという事を彼は見ていた。
出エジプト記やレビ記、申命記などでは、モーセは、色々文句を言われたり、民が偶像崇拝をしだしたりなどあったが、彼は、最後まで忠実にこなした。
そして、受けるべき報いを得た。
しかしそれは、彼が生きている間は受けていない。
後の世で受けるという事を、信仰を持って歩んだ。
我々も、そうすべき。 神が与えて下さるという約束を、ずっと離さないで持って行く。
そうすると、その事が実現していく。
やはり、信仰を持って、見えないものだけれども、「必ずその通りになって行く」という事は、途中であきらめないという事は、我々が、神からの約束を得るための、大事なポイント。
途中で絶望したり、諦めてしまうとそれきりになってしまう。
モーセは、報いから目を離さなかった。
我々は、そういう意味で信仰を持つべき。
今の世ではこれは実現しない。
しかし、神がそう書いてあるならそうなんだという信仰。
報いから目を離さない事。
ここにポイントを置いて歩んで行きたい。
レムナントキリスト教会
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