へブル書12:18~29
12:18あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
12:19ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
12:20彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。
12:21また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。
12:22しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
ここも、終末の事に関して書かれている。
結論だけ言うと、終末に関連して、ここで見ている事は対称的な事が書かれている。
前半は、非常に恐ろしい、裁きとか、神の怒りとかが読める。
後半は、祝福の事が書かれている。
2種類の事が書いてある。
火の山、これは恐れとか、裁きについて、また、同じ山でも、シオンの山、これは祝福について。
これは、何を言っているのかというと、キリストの再臨に関しての事柄。
その時には、同じクリスチャンでも、2種類の対応がある。
クリスチャンと呼ばれる人々の中でも、ある人々は、厳しいさばき、神の怒りの方に入って行く。 もう一つは、同じクリスチャンでも、祝福の中に入って行く。
終末の事に関して、聖書が繰り返し語っている事は、2種類の結末がある。
2種類のクリスチャンの結末がある。
例: 賢いおとめ、愚かなおとめ。
賢いおとめ達は、花婿に迎えられて、祝福に入って行く。
愚かなおとめ達は、花婿に、「あなたがたを知らない」と、言われてしまい、婚姻が成立しない。おとめとしては、大失敗。
また、良い麦は倉に入り、毒麦は火で焼かれる。 良い魚は倉に入り、悪い魚は火で焼かれる。
ここでも同じことが書かれているという事は、大きな往復として、捉えておくべき。
なぜだか、今のキリスト教会では、我々が見る限り、終末の日に関して、聖書が明々白々に語っている、その日、クリスチャンは2分されるという事、祝福に入るクリスチャンもいるが、災いや、滅びや、裁きに入るクリスチャンもいるという事が、語られていない。
へブル書のこの箇所もやはり同じ事が語っているという事を、全体として捉えて行きたい。
出エジプト記12章
19:10主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
19:11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。
これは、主が、「降りて来られる」というのが、再臨の型。
ここにかいてあるのは、再臨の一つの型。これは、裁きとして来られる主の再臨の型。
三日目というのも微妙。一日は千年。三日目は、三つめのミレニアム。今は三つめのミレニアムなので、再臨が近いと理解する。三つめのミレニアムに、キリストの再臨がある。
その時に大事な事は、10節に書いてあるように、「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。」
神に会うためには、やはり、聖霊によって清められていく事が大事。
罪などから清められる。そうでなければ、愚かなおとめのように、花婿と、出会う事が出来ない。
シナイ山は、律法を与えられた所。
なぜ、シナイ山から降りて来るかというと、キリストの再臨は、また、再臨の裁きというのは、
律法に基づいて行われる。多くのクリスチャンは、「十戒は今の我々と関係ない」と、思うかもしれないが、我々の裁きというのは、十戒に基づいて行われる。
十戒の第一回目は、「あなたはわたしの他に何者をも神としてはならない。」
これで、裁かれてしまうクリスチャンは多いのではないか。
何故なら、神の言葉よりは人を優先してしまう人が多いから。
例えばカトリックなどは、神の言葉より、ローマ法王やねマザーテレサの言葉を優先する。
これはまさに、偶像崇拝。神の言葉を捨て去ってしまっている。
律法に基づいて、クリスチャンも裁かれる。律法の文字通りの言葉ではない。
例えば、「盗むなかれ。」 これは、喩えの意味合いとしては、御言葉を盗むなという事。
そういった意味合いで、我々は、律法に、十戒に基づいて裁かれる。
文字通りの意味合いでも、喩えの意味合いでも、御言葉に基づいた歩みをしていきたい。
19:12あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
この山は触れてはいけない山。 この山に触れる者は裁かれるという感じ。
これ山というのは火で燃えている山。 それに関して、黙示録の8章の2節には、「火の燃えている大きな山が海に投げ込まれた。」 まさに、シナイ山で言う燃える山。
火の燃える山とは教会の事。 山は教会を喩えている。 山は、木がたくさん生える場所。
木は、クリスチャンを喩えている。(オリーブの木、葡萄の木など)
山は、多くのクリスチャンがいる事として、教会の喩え。
しかし、その日、山が燃えるようになる・・これは、惑わしの霊に入っている教会。
ノアの日の洪水の様に、悪霊の中で惑わしの中に入っている教会。
シナイ山で、モーセの頃、出エジプト記で言われている事は、山に触れるなという事で、その日の、一つの、このシナイ山のモーセの出エジプトの19章で言われている事は、「山に触れるな」という事が度々言われているが、今の言葉で言うならば、惑わされた教会。
キリスト教会全体が、出エジプト記のように惑わされた教会、変な霊に惑わされた教会があり、
ポイントは、その教会に触れないという事にポイントがある。
それは、仮庵の祭に通じる。 仮庵の祭というのは家があるけど家に入らないで、屋上に、仮の庵を作って、そこに入る。何故なら教会が裁きの対象になるから。そういう意味に通じる。
19:12あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
ここでのメッセージは、火で燃えるようになってしまった山(教会)に関しては我々はそれに触れてはいけない。
これは、キリスト教会の常識を覆す。
キリスト教会の常識は、我々は教会に行かなければいけない。
カトリックでは、「教会こそ正しい。」、聖書にも間違いがある。
これは否。教会こそ惑わされている。 その日には、今のキリスト教会の常識がひっくり返されて、仮庵の祭のように、そこから出て行くのがポイント。
主の言われた通り、「屋上にいる者は、家に入ってはいけない」のである。
「屋上にいる者は、家に入ってはいけない」
つまり、教会に入ってはいけない。
「屋上にいる者は、物を取り出しに家に入ってはいけない」
「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」
これは喩えの意味合いで、大事な事を言っている。
我々が、やはりその日、おかしな霊に惑わされた教会に戻って行くならば、クリスチャンの惑わされた常識に従って、「何が何でも、教会がおかしくとも、教会に行かなければ救いは無い。」
そのような教会に入って行くならば、誰でも必ず殺される(霊的に)という事を覚えておくべき。
そういう日がある。 この事は、多くのクリスチャンの常識と違う事だけれども、主が語られている日がある。これは、御国の奥義だが、理解していなければならない。
19:13それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」
獣でも人でも刺殺される記してある。 これも喩え。
その日、そういった教会に触れる者は、剣(教理)で刺殺されるという意味。
その日、その教会から距離を置く者が正しい。
そういう教会に入ると、段々と洗脳されていく。
我々は、出るべき時には出る。 そういう頭を持っていなければならない。
レムナントは、はじめから地下教会であるから、出る必要はない。
19:15モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」
女は教会の喩え。
19章全体で言っている事は、教会がおかしくなるという事。
それに触れ続けている人は、裁きの対象となる。また、永遠の命を失う。
19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
三日目というのは、三つめのミレニアム。
「その時に角笛の音が非常に高く鳴り響いた」 これは、我々と関係のある事。
レムナントでは、「角笛ニュースレター」を出している。角笛のホームページもある。
これは我々の語っている角笛と、同じ意味合い。
警告の角笛が、三日目に鳴り響くという事。
だから、我々はまさに21世紀、三つめのミレニアム、三日めにいるのだけれど、その時に角笛を吹いている事にポイントがある。
人から嫌がられても、聖書的にはこれが正しい。
今、角笛を吹きもしない、角笛が必要性を感じないというのは、はっきり言って、今の時代を見分けていない。
角笛を吹く方が正しい。 今はまさにそういう時。
19:18シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
かまどの煙とは、これは、裁きに関連した言葉。
「全山が激しく震えた」
これは、キリストの再臨の一つの方であり、一面。
それは、一つは、19章を通して語っている事は、この様な、火の燃えるような山に対して、再臨のキリストから裁きがあるという事の喩えの意味合い。
もう一つは、シナイ山。
シナイ山は律法を与えられた所。律法に基づいて裁きが行われる。
20:1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
ここで律法が与えられている。
これらを通して言われている事は、キリストの再臨の時に、裁きの基準となるものは、やはり、神の律法。それは、文字通りの律法かどうか分からないが、我々は、律法に基づいて、キリストの再臨の時に裁かれる。
だから我々は偶像を拝まない、喩えの意味合いとしても、器を崇拝して、例えばローマ法王の
聖書とは違うが、ローマ法王が言うので進化論は正しいとした者などは、裁かれる。
この場合、人を神とし、偶像崇拝をしているから。
へブル書
12:22しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
12:23また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
12:24さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
ここは、キリストの再臨が祝福になる人々に関して書かれている。
ここでもやはり、クリスチャンは2種類ある。
一つは、裁きや、火で燃える山だったり、恐ろしい事がある。
もう一つは、祝福的な事。
神の民の中にも2種類の人がいる。
キリストの初降臨の時、イエス・キリストが、初めて来られた時も、やはり、キリストを信じ、
キリストと共に祝福に入り、また、天の御国が約束された、12弟子がいる。
最後の晩餐の時に、「わたしは場所を用意しに行く、用意が出来たら迎えに行く」、これは、再臨のこと。天国はきちんと約束されている。
そういう彼らは、ふるわれて、選り分けられて、12人。
最初は、4千人5千人という大勢の人がいたが、選り分けられて、本当に困難の中を最後まで
ついてきた人達だという事は覚えておくべき。
へブル書で2種類の民について語っているが、数からいうには圧倒的に、裁き、火で燃える山
に入って行く人の方が多い。
逆にシオンの山とか、祝福を書いてあるけれども、こちらの方が圧倒的に少ない。
これは覚えておくべき。
イエス様の初降臨の時は、大多数の人は、イエス・キリストの話を聞いていたが、しかしやがて、惑わしに入り、「十字架につけろ」と叫び出したりする。
これも覚えておくべき。
勿論、祝福に入った方が良いのだが、聖書が暗示している事は、祝福に入るべきなんだけれども、そこに入る人は少ない。
黙示録
14:1また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
14:3彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
贖われた十四万四千人は、明らかにキリストによって祝福に入る人。
14:4彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
ここは、出エジプトの19章で、「女に触れてはいけない」という御言葉と対応する。
つまり、惑わしの教会へ行って汚されていないと言っている。
この日は、教会は明らかにおかしくなる。
その教会とどういう距離を、どういう関係を持つかという事が、我々の永遠の命がかかっている。 聖書が明らかに語っている事は、そのような教会から出るという事。
仮庵の祭が言っているように、家、教会から出て、そして、その屋上に仮庵、つまり地下教会をつくる。 その時には惑わされた教会から出て来る事に大きなポイントがある。
へブル書
12:25語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
かつての旧約の民においても、律法の語り掛けがあったり、教えがあったが、それを拒んだ人たちに裁きがあったように、今も、天からの声、語っておられる方に背を向けてはダメ。
どんなクリスチャンに対しても、神の語ってる声があるという事。
断定的にいえる事は、どんなクリスチャンでも、神の声を聞いていない、心の中に、こうした方がいいという声を聞いていない人はいない。 しかし、全ての人がそれを守るかどうかは別。
旧約の時代、全ての民に対して、モーセの律法は聞かされた。多くの人が裁かれたのは、モーセの律法を聞いていながら、それを守らないために、裁きに入ったというパターン。
同じように、今我々は旧約の律法を聞いていない。
しかし、聖霊は、明らかに、どのクリスチャンに対しても、その心の内側に語っている。
聖書がそのように断定している以上、言い逃れの出来るクリスチャンはいない。
しかし、聞こえているという事は間違いはない。ただ、それを行なうか行わないかで、やはり裁きが来てしまう。
聖霊は、いろんな人に、時々において語られる。
主の声に聞いていく時に、入るべき所に入って行く。
12:26あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
12:27この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
揺り動かしは、文字通り揺り動かし。
艱難時代の揺り動かし。
なぜ、世の終わりの時には艱難時代があるかというと、
神は、揺り動かしがあっても、尚且つ残る者を受け入れたい。
福音書を呼んでわかる事は、イエス・キリスト、その弟子たちも、追いかけられたり、訴えられたり、異端扱いを受けたりと、大変な目に遭っている。
そういう困難には、一つだけ良い面がある。
それは、困難や揺り動かしを通して、キリストにつく人とそうでない人とが選り分けられる。
神は、はっきりとは書いておられないが、主の方法は、誰でも彼でも受け入れるのではなく、
選り分けて、真に、最後まで忠実な人と共に、天の御国を継ぎたいというのが主の方法。
主は最後の晩餐の時に、「私は、あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われた。
しかしそれは本当に限られた人々に行っている。
神には神の方法がある。 やはり、受け入れざるを得ない。
主が受け入れるのは、選り分けられない人々。
12:28こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
御国に関しては、「揺り動かされない御国」と書いてある。
それは、艱難や揺り動かしが来るけれども、尚且つ残った人が受け継ぐのが御国。
ハガイ書
2:6まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
2:7わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
2:8銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――
天と地は、教会をたとえている。
何故ならアブラハムの子孫は、天の星、地の砂にたとえられるけれども、星があるのは天。
星であるクリスチャンが住むのは天なので、それは教会をさす。
教会を揺り動かすと言われている。 これは、艱難時代に通じる。
これは、艱難時代の事を言っている。 なので、ある意味では、艱難時代というのは、神がサタンに負けるのではなく、神のご計画の中で起こる。
しかし、これを通して、主の目的は、ただ単に艱難をもたらすというのではなく、
「わたしは、すべての国々を揺り動かす。」 これを今で言うなら、全ての教団。
この揺り動かしによって、真に留まる人は、宝として残る。
しかし多くの人はみんな、揺り動かされて、実は宝でも何でもないという事が明らかになる。
イエス様の初降臨の時は、最後まで残る宝となったのは、12使徒。
揺り動かされない者が宝。 そういう意味では揺り動かしを主は許しておられる。
揺り動かしがない限り、誰が宝か分からない。
12:29私たちの神は焼き尽くす火です。
レムナントキリスト教会
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