へブル書2章10~18                2014.4.27

 

 

 

へブル

 

2:10神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 

 

 

「栄光」という言葉に注目すべき。

 

喩えて言うならマラソンで金メダルを取る。これは栄光であり、そのような意味合い。

 

金メダルをはるかに凌ぐ栄光。

 

金メダルは簡単には取れず、一人しか取れない。

 

 

 

へブル

 

2:7あなたは、彼を、御使いよりもしばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉の冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」 これは、イエス様のこと。

 

 

 

ここにも「栄光」という言葉がでている。

 

ここで言わんとしていることは、御使いよりもしばらく低い時に、人間になっていた。

 

こういった位置関係というものは、今の時代においては、やはり人間は、能力的にも、地位から言っても低いということ。

 

故にイエス様が人間になったという事は、御使いよりも低くなったという事。

 

しかし、それで終わったわけではなく、その後、栄光と誉の冠を受けた。

 

地上では、栄光の冠を受けていなかった。受けたのはいばらの冠。

 

この世では栄光を受けていない。

 

後には、イエス様は栄光と誉の冠を受けた。  父なる神の右に座した。

 

そして、万物を、その足の下に従わされた。

 

 

 

2:9ただ、御使いよりもしばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉の冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 

 

 

この事は覚えておくべき。

 

今の世と後の世は違うという事は、この世では低かったり、栄光を受けていない。

 

後の世では、栄光と誉の冠を受ける。

 

 

 

10節の、「神が多くの子たちを栄光に導く。」これは我々と関係のある事。

 

その時に我々も栄光に入る。そういう意味では、御使いよりも高い位置に入って行く。

 

しかし、その時に、10章に暗示されている事だが、はっきり命じられていない。

 

我々は、御国に入るのだが、一つの前提として、主と苦しみを共にするという事が暗示されている。 明示されてはいない。

 

「彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」

 

イエス様の歩みが模範。

 

我々も、主のあとに従って行く時、似たような歩みをするという事を覚悟する事。

 

 

 

2:11聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。

 

 

 

聖とする方はイエス様。聖とされる方も、元は一つ。

 

それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない。

 

主が、ある人を兄弟と呼ぶとき、この事は特別な事。

 

誰にでも彼にでも、イエス様は「兄弟」と呼んでいない。

 

「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない。」という言葉には裏がある。

 

イエス様はある人々に対しては兄弟と呼ぶのは恥なので、呼んでいない。

 

ある特定の人たちに対しては、兄弟と呼んでいる。

 

 

 

ヨハネ

 

20:17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちの所に行って、彼らに『わたしは、私の父またあなた方の父、私の神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」

 

 

 

ここで「兄弟」と言っているのは、他でもない11弟子の事を言っている。

 

イエス様が人を兄弟と呼んでる場面は、あまりない。

 

「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない。」という時に、「兄弟」という言葉の重さや意味合いが理解できる。

 

主と共に苦難を共にする人たちを、イエス様は「兄弟」という事を恥としない。

 

我々は後の世で栄光を受けたいのだが、全てのクリスチャンが後の世で栄光を受けるとも限らない。

 

後の世で、主は、多くの人たちを栄光に導こうとしておられる。

 

しかし、誰でも、というわけではなく、11弟子のように、最後の最後まで、場合によってはキリストのゆえに自分の身に危害が及びそうな場合でも、そういった時でもついて行く事が、後の世で栄光を受けるポイント。 この事は、明示されてはいないが、暗示されている。

 

「一つ」という言葉。

 

 

 

ヨハネ

 

17:11わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 

 

 

最後の最後まで、もう明日は主が十字架につけられる時まで従ってきた11弟子達のことを言っている。

 

この事も、明示されてはいないが、暗示されている事。

 

 

 

へブル

 

2:12「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

 

 

 

これは、詩編からの引用。

 

 

 

詩編

 

22:22私は、御名を私の兄弟たちに語り継げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

 

 

 

これは、イエス様が苦難を受けている時の事が書いてある。

 

そういう人、主と同じように苦難を受ける人が、真の意味で主の兄弟。

 

聖書の中で使われている「兄弟」とは、重い言葉。

 

 

 

22:6しかし、私は虫けらです。人間ではありません。 人のそしり、民のさげずみです。

 

22:7私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

 

22:8「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」

 

 

 

これはまさにイエス様が十字架につけられた時の言葉。

 

このような苦難を受けて、主は兄弟たちを救い、我々もそれによって贖いを受けたが、しかし、主に従い通した者たちが御名を告げられる。

 

そういう意味でこの箇所は暗示されている。

 

 

 

へブル

 

2:13またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。

 

 

 

ここは、イザヤ書の引用。

 

 

 

イザヤ書

 

8:17私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。

 

8:18見よ、私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。

 

 

 

8:11まことに主は強い御手を持って私を捕え、私にこう仰せられた。この民の道を歩まないよう、私を戒めて仰せられた。

 

8:12この民の謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。

 

8:13万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方をあなた方の恐れ、この方をあなた方のおののきとせよ。

 

 

 

民の惑わし、間違えなどに入って行ってはいけない。

 

今のキリスト教会のトレンドや常識は艱難前携挙説。これに入って行ってしまう人は主に「兄弟」と呼ばれない可能性がある。

 

 

 

聖書に書かれている御言葉には、どんなことにも意味があり、裏がある。

 

恵みの時も、困難の時も、忠実に従って行く事にポイントがある。

 

 

 

へブル

 

2:14そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

 

2:15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

 

 

 

血と肉を持っているとは、人間の表現。

 

御使いは、血と肉を持っていない。

 

ここでは、なぜイエス・キリストが肉体を持って人の子として生まれたかを言っている。

 

それは、我々人間を助けるため。

 

アダム以来、サタンに騙され、誰もかれも、死の中に入るようになり、何の助けもない状態。

 

その人を助けるためには、イエス・キリストも、人間の肉体を持って行かないと、助けることが出来ないので、神と等しい様だったのだけれど、人という卑しい形をとって、そして来られた。そして、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、人々を解放して下さった。  なので我々は、罪や死に関して聖書的な理解を持たなければならない。

 

アダムとイブの時に罪が入って来て、それ以来、人が死ぬようになった。

 

しかし、イエス・キリストによって、死の恐怖から解かれ、罪によっての死の罰から解放されたのも事実。

 

 

 

2:16主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

 

 

 

神様は御使いではなくアブラハムの子孫である我々を助けて下さった。

 

 

 

2:17そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

 

 

 

聖書には「兄弟」が強調されて書かれている。

 

兄弟という事は特別な事。

 

イエス様は、誰でも彼でも兄弟とは呼んでおられない。

 

最後まで従った11弟子を兄弟と呼ばれた。

 

 

 

大祭司というのは、まったく他の人々と同じだけれども、神と人との間の仲介役。

 

そういう意味で、主は、全く我々と同じ姿をとられた。

 

 

 

レビ記

 

9:7それから、モーセはアロンに言った。「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなた自身のため、またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、主が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」

 

 

 

アロンは大祭司として贖いを行なった。

 

贖いとは民の罪が赦されるために、色々な奉仕をする。その時に、誰でもよいわけではなく、大祭司、祭司でなければならない。

 

大祭司は、イエス・キリストの型。

 

キリストもご自分の血を携えて、民のための贖いを行なった。

 

その時にアロンは全く他の人と同じだけれども、特別に神様に選ばれて大祭司として、神と人との間に立って贖いを行なった。

 

同じように主も、大祭司の働きをなすためには、やはり、アロンと同じ、人の姿にならなければならない。 なので、主は肉体をとって人間の形をとって来られた。

 

 

 

へブル

 

2:18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 

 

 

主ご自身は肉体を持って地上に来られた。

 

我々と同じように試みを受けられた。

 

我々が試みを受けた時に、主は我々に助けを与えることがお出来になる。

 

同情をも持っておられる。  肉体を持った人は、同じように肉体を持った人に同情出来る。

 

そういう意味で主は、同じような形を持たれた。