へブル書4章1~7 2014.5.18
4:1こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
安息というのは、神の約束の地。 それは、我々の受ける領土。
具体的にはカナンの地だが、これは喩え。
クリスチャンとして入るべき、永遠の領土。 それをあらわしている。
多くの教会で言われているように確かにそうである。
しかし我々は、聖書に書かれている、もう一面の事も見逃してはならない。
「万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」
やはり、入れない可能性がある。 恐れる心を持つべき。
聖書には、両面が記されている。
御国に入る事は、レベルが高い。 楽勝な事ではない。
コリントⅠ
10:11これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
安息に入らなかった人たちの事が書かれている。
10:1そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
旧約聖書を読むときに、出エジプト記や申命記を読んでいく時に、バプテスマや御霊の賜物の事は書いていないが、新約の光で見ると、彼らは新約の我々と同じようにバプテスマを受け、御霊の食べ物を受け、御霊の飲み物を飲んだが、それにもかかわらず滅んでしまった。
バプテスマと書かれているのは、新約の我々の型。そういう意味では我々も、御霊の食べ物を
食べ、御霊の飲み物を飲む。
10:5にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
厳しい御言葉であるが、そのように受け取るべき。 大部分は滅んでしまう。
これは、特に終末には、この部分が、かなり適用される。
我々は、そのような時代に突入しようとしている。
これからは我々はサバイバルの時代。
われわれは、それらに耐えられるような歩みをしている。
万人受けではない。
10:6これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
これからの多くのクリスチャンは悪を貪るようになる。
神様はきちんと見ておられる。 滅ぼされるクリスチャンがどんどん出てくる。
10:7あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
偶像崇拝は、器崇拝につながる。御言葉よりも、ベニーヒンの言う教理、ローマ法王の教理などについて行く人は、滅ぶ。
10:8また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
我々は、悪い時代にめぐり合わせてしまった。 ハンデがある。
しかし、御言葉は変わっていないので、全ては自己責任。
4:2福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
ここに書いてある事は、教会へ行ってメッセージを聞くのは一つの事。
継続して礼拝出席するのは良い事。 しかし、それに留まって、聞くだけで、信仰に結びつかないクリスチャンになれば益とはならない。そのような人たちの轍を踏んではならない。
われわれは、御言葉を聞いたら、実行し、行なう。 そして、信仰によって結びつけられて益とするようになっていきたい。
具体的には、「あなたがの上には、神から与えられた油が留まっているので、人があなた方を教える必要がありません。」
人が教える必要はない。 まして、高価な注解書はいらない。
御言葉を聞くことは一つだけれど、信仰を持ってそれを行なえば益になる。
聞いたことを信仰に結びつけ、御言葉を行なう事を実行していきたい。
へブル
4:3信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
「怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」
この言葉は度々出てくる。
どの様ないきさつでこの御言葉が出てきたか。
民数記
14:22エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように10度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、
14:23わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。
14:24ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
民数記
13:25四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
13:26そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
13:27彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
13:31しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
これに対して神は怒られた。
14:11主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
14:12わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」
この箇所を通して、主に聞き従うとか、主を信じないという事に関しての、聖書的な意味合いというものを見て行かなければならない。
ここで注目すべきなのは、スパイが言ってきたことは、人間的にいうならば至極まともな事。
悪く言うなら神様の言ってることが理不尽な感じさえある。
我々の信仰生活というものは、敵との戦いというのは、絶対に勝ち目のない相手に信仰をもってあたるという事。
たとえ相手が悪い御使いであっても、信仰をもって戦って行く。
人間的な考えで「これはだめだ。」という事でも、主が助けて下さるなら、勝利実現していく。
第二歴代誌
20:17この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」
20:1この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。
20:2そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」
20:3ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。
20:4ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、主を求めた。
20:10ところが今、アモン人とモアブ人、およびセイル山の人々をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。
20:11ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。
20:12私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
20:14ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。
20:15彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
20:22彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
20:23アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。
結局、勝利が与えられた。
20:30このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。彼の神は、周囲の者から守って、彼に安息を与えられた。
ここに「安息」が出てくる。
人間的な考えで物事を行なって行くのはポイントがずれている。
へブル
4:4というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。
4:5そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。
4:6こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、
4:7神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
安息という事に関して、神は7日目に休まれた、御業は創世の初めから終わっている、と言われている。
休みとか、安息とはどういう事かというと、働くという言葉の反対語として出てくる。
ここで言われているのが、我々に休みに入るように勧められているということ。
4:11ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
4:10神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
我々が勧められているのは、自分の業を終えて休む事。
業を終えて休む事が理想的。
ヨハネ
6:28すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
6:29イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
イエス・キリストを信じる。それが神のわざ。
レムナントキリスト教会
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