へブル書4章816          2014.5.25

 

 

 

4:2福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

4:3信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

 

 

 

安息に入るという事に関して、信仰という言葉が語られている。

 

安息に入るという事は、自分の業を降ろすということ。

 

信仰があるか無いかで大きく違う。

 

我々が自分の手の業を降ろしたとしても、神様がやってくださる。

 

我々が安息に入る時に、信仰、つまり神様がやってくださるという事を信じるという事。

 

へブル書のこの辺の箇所には「安息」が多く出てくる。

 

 

 

4:8もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

 

4:9したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

 

 

 

ここで再度言われている事は、「残っている」という事。

 

言わんとしている事は、それぞれの人に、KJVでは、それぞれの人に、それぞれのクリスチャンに、安息はある。

 

ポイントは、安息に関してもやはり区分がある。

 

あるクリスチャンは、そのクリスチャン生活のどこかで、入るべき安息に入る。

 

後の世ではなく今の世で。

 

しかし、ある類のクリスチャンは、入るべき安息に入らない。

 

入るべきなのに入れないという事が、大いに強調されている。

 

 

 

4:10神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

 

4:11ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

 

 

安息に入る人の特長というのは、自分の業を終えて休んでいる人。

 

「休む」ということは、聖書の中ですすめられている事。

 

「自分の業を終えて休むべきである」

 

我々は、安息に入るために力を尽くしてつとめるべき。

 

クリスチャンは、自分の業を終えて、休む、という事をどこかで体得しなければならない。

 

入るべき安息に入れるように祈り求めていきたい。

 

人の考えと神の考えは違う。天が地より高いように、神の思いも、我々の思いよりも高い。

 

 

 

4:12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

 

4:13造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

 

 

 

神の言葉は、ここに書いてあるように、我々のいろいろな考え、はかりごとを判別することが出来る。 神の前に隠れているものは何も無い。

 

エデンの園において、エバは、神の言葉に対して、どのように対応するかによって、彼女の心の奥底の、願い、目的、大事な事は、透けて見える。彼女にとって、蛇の誘惑は、ウィークポイントとなった。

 

見るに良く、食べるに良く、賢くなれる。 欲に惹かれて行ってしまった。

 

神の言葉を通して、彼女の真の心の有様は、あからさまになっている。

 

神の前には全てが裸である。 聖書はそういうもの。

 

聖書を通して、いろいろ見方が変わってくるのは、無理はない。

 

聖書は、心を映す。

 

それぞれの人の心を映して、それそれれの人にそれぞれの惑わしが入ったり、偽りに入ってしまう事は、ある程度神によって許されている。

 

そのような意味でも、命に至る門は狭くその道も狭い。

 

しかし、それを通して、人々の心の有様は明らかになっている。

 

例えば艱難前携挙説を支持する人は、艱難には遭いたくないという思いが明らかになっている。

 

我々が自分の事ではなく、神の事を優先していく時に、自己中心の間違いから免れることが出来る。

 

同じ御言葉をどの様にとるかによって、その人の心が透けて見える。

 

 

 

4:14さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 

 

 

信仰の告白を固く保つこと。

 

 

 

第一テモテ

 

6:13私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

 

 

 

ポンテオ・ピラトに対してすばらしい「告白」は、へブル414節の「告白」と同じ言葉が使われている。

 

告白は大事な事柄。

 

我々が人前で主を告白することが出来るかは、大きな問題。

 

我々が人前で、主を告白しなければ主も我々を否まれる。

 

生活の中に主を告白するという事が入って行く様に、祈り求めていく。

 

この事は、益となる。

 

 

 

へブル書

 

4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 

4:16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 

 

 

大祭司は、民の罪を、民に代わって、神の前に出て行き、血をもって贖いをする。

 

新約の時代では、一人一人のためにとりなしをして下さっているのはイエス・キリスト。

 

その方の一つの素晴らしい事は、肉体を持って、我々と同じような生活を送り、同じように、全ての点で試みを受けたという事。

 

同じ経験をしているので、我々に同情出来る。

 

イエス様は、特別な肉体を持っておられたわけではない。 

 

我々と、全く同じ肉体を持っておられた。

 

だから、我々の歩みに関しても、同情出来るお方である。