へブル書5章1~9          2014.6.1

 

 

 

5:1大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。

 

 

 

大祭司ということは、神と人との間に立って贖いをなす奉仕。

 

それを、主がなされた。

 

 

 

レビ記

 

9:7それから、モーセはアロンに言った。「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなた自身のため、またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、主が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」

 

9:8そこで、アロンは祭壇に近づき、自分のために罪のためのいけにえの子牛をほふった。

 

 

 

このような奉仕は旧約の時代にあった。

 

これは、どういう事かというと、ここで命じられているように、「またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、主が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」

 

贖いは難しい言葉であるが、理解しなければならない。

 

贖いは「買い取る」という意味がある。

 

具体的には、我々の罪を買い取っていただき、罪の負債を支払って下さったという意味合い。

 

旧約の民は、これで天の御国に入って行った。

 

ここで、罪の贖いをなしているアロンは、キリストの型。

 

旧約聖書に出てくる、色々な有名な人もある意味では、イエスキリストの型。

 

イエス様ご自身が、「聖書は私について証するものである」と言っている。

 

ダビデは、王であるキリストの型であるし、モーセは、律法、おきてを与える方であるキリストの型。  キリストはどの働きをもなされる方。

 

「それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。」

 

アロンは、イエス・キリストの型。

 

イエス・キリストは型としてアロンと同じことをした。

 

罪のための生贄として、ご自身が神の小羊であるから、ご自分の身体を捧げられた。

 

そして、山羊や羊の血でさえ、罪から清めたのだから、まして、神の小羊の血は、我々の罪の贖いをするというポイントは、しっかり押さえておくべき。

 

イエス・キリストの血は、我々の罪を贖う。また、血に象徴される聖霊によって、私たちは罪を清めていただく。

 

もう一つ知っておくべき事として、イエス・キリストのなされた贖いという事で、ご自分の命を失って、ご自分の血を流された・・・ここのポイントもしっかり押さえておくべき。

 

我々は、良くも悪くも、イエス・キリストに対して恩を受けている。

 

それに関連して、聖書の中で、どこにも強制というのは無いが、(イエス・キリストも強制される方ではない)我々がこの事を正しく理解し、自主的に主の働きを担って行くならば、恵みを受ける。

 

逆に恩を仇で返す人もいる。(イスカリオテのユダなど)

 

また、「イエスキリストは復活していなかった」という人など。

 

人それぞれ、良くも悪くも、主から報いを受ける。

 

主から受けた恩に報いるような働きを、自主的に行なうならば、大いなる恵みを受ける。

 

 

 

へブル書

 

5:2彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 

5:3そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。

 

 

 

大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、他の人々を思いやる事が出来る。

 

無知な人を思いやることができる。

 

主は無知な人々や迷っている人々を思いやる事が出来る。

 

 

 

5:4まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。

 

5:5同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。

 

 

 

大祭司の栄誉は、自分で受けるのではなく神に召されて受ける。

 

「召し」という言葉は、キリスト教用語でよく出てくる。

 

英語では「calling」。

 

神の働きに関しては、大祭司に限らず、神ご自身から召されて受けるというパターンがある。

 

これは、預言者としての働きもそうであるし、神の召しによって与えられる。

 

新約の時代においてもそれは変わらない。

 

そういう意味合いでは我々が、主からの働きを担って行くという時に、主からの召しが基本的にある。

 

例として、ペテロ、ヨハネなど。

 

 

 

教会の奉仕は「試用期間。」

 

 

 

5:6別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

 

5:7キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

 

5:8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

 

5:9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

 

 

 

ここで、我々が注目しなければならないのは、「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 

神は、特別扱いはなさらない。  なので、我々にとっては模範。

 

 

 

5:8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

 

 

 

キリストも、従順という事を学ばれた。

 

我々は、クリスチャン生活を地上で続ける。

 

天の御国に入る事に関して、従順を学ぶという事が、一つのポイントとしてある。

 

模範であられるキリストが、従順を学んだなら、我々も、やはり従順を学ばなければならない。クリスチャン生活とは、従順を学ぶところ。

 

従順は、多くの苦しみをえて学ぶ。

 

我々は、主がそうであったように、我々も、この世において従順を学び、初めて入るべき所に入って行く。

 

逆に、始めから終りまで不従順で反抗的(サタンの特長)ならば、火の池に入る。

 

主の御前に従順を学ぶというのは大事な事。そして、入るべき所に入って行く。

 

従順を徐々に徐々に学んでいく。

 

クリスチャン生活というのは、良い事ばかりではない。

 

自分の意思とは反対の方向やら、意に沿わない事が多くある。

 

それを通して、従順を学んでいく人が、入るべき命に入って行く。

 

かたくなになるべきではない。

 

誰も、苦しみは通りたくはないが、苦しみを通して、従順を学ぶことも事実。

 

主の歩まれた道が、我々にとってベストな道である。