へブル書7110    2014.6.29

 

 

 

7:1このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

 

7:2またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。

 

 

 

このへブル書の中で、メルキゼデクという言葉が多く出てくる。

 

何故かというと、神の祭司だから。

 

へブル書というのは、キリストの様々な働きがあるが、キリストは王であり、律法の方であるが、このへブル書の中では、祭司という事柄が、よく述べられているので、そういう意味合いでは、キリストこそ、真に、メルキゼデクに等しい祭司である。

 

そういった事柄が書かれている。

 

ここで、サレムの王メルキゼデクという様に、日本語の聖書では書かれている。

 

ここの言葉には意味がある。

 

メルキゼデクはヘブル語では「義の王」。   サレムの王 = 平和の王

 

へブル書の初めの方で、「柔らかい食物」「固い食物」に関する記述がある。

 

そこで厳しい事が書かれている。

 

赤子の様に、乳、ミルクに留まらずに、大人として固い食物に挑戦していくように書いてある。

 

固い食物に挑戦していく。

 

日本語の聖書にはカタカナで書かれた多くの部分がある。(人名など)

 

イサクにしても、ヤコブにしても、モーセにしても、アロンにしても、意味合いがある。

 

それらの言葉の意味合いを見ていく時に、神がその人を通して、(ここで言えばメルキゼデク)

 

サレムの王メルキゼデク。  「サレムの王」と書かれた事にも大きな意味合いがある。

 

聖書はそのような形で、書かれているもの。

 

人名などに神様は意味合いを隠しておられる。  聖書は、そういう本。

 

これは「固い食物」と関係がある。

 

我々が、聖書の言葉の隠れた意味合い、神様が秘めている意味合いなどを本当に求めていく場合、言葉の意味合いを見ていくつもりがなければならない。

 

例えばエゼキエルとか、イザヤなどはどういう意味合いか。    答えは書かれていない。

 

聖書の中の人名、地名などの隠れた意味合いを、神様が秘めておられる。  これは事実。

 

外国語での研究はそういう面で日本語のそれよりも開かれている。

 

外国ではそういう書籍、研究などは、豊富にある。

 

日本では、キリスト教書店に行ってもそのようなものはほとんど無い。

 

英語では、旧約聖書、新約聖書の意味合いの辞書がある。    しかも安い値段。

 

それぞれの言葉の意味合いを見ていく時に、やはり神様が隠された意味がある。

 

今のところ日本語では無いが、英語をかじっているなら、スマホでもインターネットでも、そういったサイトがあるので、調べる事が出来る。

 

そのようにして、言葉に意味合いがあるので、この辺りを見ていく時に、いわゆる、「固い食物」に入って行く。 大人としての学びに入って行く。

 

 

 

: ルツ記1:2その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、 

 

1:3ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。

 

 

 

「マフロン」という言葉の意味合いは、「病気。」

 

「キルヨン」は日本語で、「倒れる」

 

これを通しても神様は語っておられる。

 

ルツは元々、他の夫の元にいた。「病気」「倒れる」など、異邦の民の中にいたが、真の夫であるボアズ、つまりキリストによって、恵みの畑の中に入って行った。

 

神様の言わんとしている事は、真の夫であるキリストに出会う前は、我々は、マフロン=病気を夫としていたり、キルヨン=倒れる 事を夫としていたりという歩みだったけれども、真の夫であるボアズの所へ行った時、恵みの畑に入って行った、という事柄を語っている。

 

ほんの小さな名前ですら、意味合いがある。それを通して、それを丹念に一つずつ見ていく時に、いろんな聖書の表面的な意味合いだけでなく、隠れた意味合い、神様が隠された意味合いなどをも見えるようになってくる。固い食物に触れていく事が出来るようになる。

 

そういう場合にこの手間は、我々が本当に聖書の学びという事を真面目にしていく時に、へブル書の記者も、メルキゼデクという祭司の意味合いを聖書的に正しくとらえている。

 

だからこそ、へブル書は今日までも残っている。  固い食物に彼は達している。

 

我々も固い食物を食べていけという事。

 

 

 

へブル書

 

7:3父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

 

 

 

メルキゼデクこそあるべき祭司のパターン。

 

同じへブル書

 

7:24しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

 

7:25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 

 

 

創世記においてメルキゼデクという人が、突然出てくる。

 

「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく神の子のようだ」と聖書に書いてある。

 

「父もなく母もなく」  これは、メルキゼデクという人が、特殊のように書かれているが、イエスキリストの型であるという事。

 

そういう意味合いで言うと、

 

 

 

7:24しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

 

7:25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 

 

 

我々が理解しなければいけない事は、へブル書の中で度々書かれてある、祭司という役割に関して。

 

イエスキリストに関しては、色々な働きがある。

 

王としての働き、他の働き、教えを語る方という意味の働きもある。  ここでは、祭司という

 

形での、キリストの役割。

 

祭司は、旧約聖書においては、神と人との間に立つ。

 

旧約聖書の中で、どんな人も罪を犯してしまうが、その罪を赦すために、祭司の所に、牛とか羊を持って行くと、祭司がその血を神の前に捧げて、民のためにとりなしをする。

 

祭司の願い通り、民の罪は赦された。

 

羊や牛の贖いは有効であった。アロンすらも間違いをしている。  金の子牛を皆に拝ませるなど。

 

真の歩みの祭司というのはキリスト。

 

その祭司の役割を通して我々は、キリストの祭司としての役割を知らなければならない。

 

一つは、我々は、頻繁に失敗を犯す者であり、頻繁に罪を犯してしまう者である。

 

そういう時に非常に大事な事は、その都度、我々と神の間に立って、とりなしをして下さる真の祭司である方、イエス・キリストがおられるという事。

 

そして、非常に力づけられるのは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」という事。

 

だから、我々がキリストのとりなしとか贖いとか、キリストのアドバイスとかをちゃんと聞いていく時に、我々は、失敗の多い者だけれども、完全な救いに入って行く。

 

 

 

へブル書

 

7:4その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。

 

7:5レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。

 

7:6ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。

 

7:7いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。

 

7:8一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。

 

7:9また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。

 

7:10というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

 

 

 

一つは、メルキゼデクがアブラハムを祝福したという事を通して、メルキゼデクの方がアブラハムよりも位が高いという事を言っている。 メルキゼデクの祭司というものは、レビの祭司よりも、さらにすぐれた祭司だと言っている。

 

 

 

創世記

 

14:18また、シャレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

 

14:19彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られたいと高き神より。あなたの手に、

 

14:20あなたの敵を渡されたいと高き神に誉あれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

 

 

 

ここを通してへブル書の記者の言っている事は、メルキゼデクの方が、アブラハム(アブラム)の子孫のレビよりも、価値があり、位の高い者だという事を言っている。

 

 

 

一つは祝福。祝福とは、基本的に、上の人が下の人に対してするもの。

 

二番目は、十分の一を捧げるという事。  十分の一をあげるという事は、下の者が上の者にあげるという事。

 

レビはアブラハムの子孫。アブラハムが十分の一をあげたという事は、彼よりもずっと先のレビも、アブラハムを通してメルキゼデクに十分の一をあげたという事だから、レビよりもメルキゼデクの方が上。

 

 

 

へブル書に戻ると、

 

そういう意味ではレビ族の働きというものは、ここに関して限度がある、または、悪い言い方をするなら、レビの働きは、ある意味では、失敗してしまったと言える。

 

だからこそ、メルキゼデクの位に等しい祭司という事が言われてくる。

 

レビという事を考えると、レビ族の中に、アロンがいる。    モーセもレビ族。

 

聖書は、レビ族は失敗したという事を暗に語っている。

 

メリバの水の件で、モーセとアロンは怒って岩を2回打った。

 

そのために、民を約束の地に導きいれる事が出来なかった。

 

しかも、モーセが打った岩は「キリスト」!

 

モーセとアロンが、祭司とか、また、モーセの律法学者とかが、最終的にはキリストを叩くようになるという事を暗示している。

 

これは、イエスキリストの時に成就している。

 

岩であるキリストを叩いたり攻撃したのが誰かというと、祭司長。

 

結局イエス・キリストを十字架につけて殺した。

 

律法学者は、イエス様曰く「彼らはモーセの地位についている」。しかし彼らはイエスキリストの御言葉を否定し、やはりイエス様を十字架につけた。

 

レビのやからは失敗する・・モーセとアロンが、民を約束の地に入れられなかったという事は、非常に暗示的。

 

事実、モーセの後を継いでいる筈の律法学者は、入るべき御国に入って行かない。

 

逆に「自分に倍勝るゲヘナの子にする」と言われた通り、民はみんな惑わされて行った。

 

「盲人を導く盲人」になってしまった。

 

この事は、世の終わりにも再現すると思われる。

 

レビの失敗、今の時代のレビ・・律法学者は、神学者に喩える事が出来る。

 

また、祭司の末裔は、牧師かも知れない。

 

残念なことに、聖書が語っている事はいずれ、神学者、牧師が背教し、キリストを攻撃するようになってしまったりすることが実現する可能性がある。

 

しかし、真の意味での教師というのは、イエス・キリスト。

 

レビは失敗しても、真にキリストについている人は失敗しない。そして真理を見たりする。

 

 

 

我々は、人の祭司、神学者には頼らないが真の教師であるイエス・キリストを教え主としていく時に、知恵の無い者でも、大事な事を教えられる。

 

 

 

終末に関する事柄で、「戦争と戦争の噂」がある。  イエス様は強調されている。

 

それは必ず起こる事。これがスタート。  教会に向けての戦争がスタートしたなら、これが終末のスタートの合図。  もう後は、留まる事がない。これは主が教えられる事。

 

レビが失敗するというクールな面も見ていく。