へブル書9:1121       2014.8.3

 

 

 

9:11しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

 

9:12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

 

 

ここでは、イエス・キリストの大祭司としての歩みが書かれている。

 

大祭司、祭司は、神と人との間に奉仕をする。

 

民は皆、罪を犯す。、

 

イエス・キリストは、いろんな働きをされたが、その一つが大祭司としての働き。

 

我々は自分一人では、罪を贖う事も、対応することもできない。

 

そんな我々のために大祭司が与えられた。

 

幕屋とは。 我々が、天にある歩みをして行くならば我々自身が幕屋。

 

 

 

黙示録

 

13:6そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち天に住む者たちをののしった。

 

 

 

神の幕屋とは、すなわち、我々クリスチャンが幕屋でもある。  神を宿す存在として、クリスチャンも正しく歩むなら、幕屋である。

 

12節では「永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と書いてあるが、その御言葉の通り。

 

永遠の贖いの意味合いは、ひとつは、我々の罪を買い取るという贖い主の歩みによって、我々のあらゆる罪を、主が買い取って下さるという事。

 

もうひとつは、永遠という言葉は、永遠の命につながるので、どの罪も、主の成し遂げられた永遠の贖いによって赦されていくということ。

 

 

 

へブル書

 

9:13もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば

 

9:14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

 

 

動物の血とか灰でも清めを成しているのなら、まして、キリストの血は我々を清める。

 

ポイントは、私たちの良心を清めるという事。また、死んだ行いから離れさせるという事。

 

死んだ行いとは、罪の行いであったり、我々を永遠の死に至らしめる行い。

 

我々の歩みがどの様なものであるかが永遠に通じる。

 

クリスチャンであろうとなかろうと、我々が罪から離れて、正しい生きた行いをずっと続けていくなら、それは、永遠の命についていく。

 

しかし、死んだ行いを続けていくなら、死、永遠の死、滅びにいたる。

 

聖書に、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死に至る」とある通り。

 

ずっと死の行いを続けていくならば、永遠の死に至る。これは厳然たる事実。

 

だから我々は死の行いから、主のあわれみによって、清められるという事が非常に大事な事柄。

 

クリスチャンの歩みは、永遠に通じていく。

 

清めるとは、

 

 

 

マタイ

 

8:1イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。

 

8:2すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで私をきよめることがおできになります。」

 

8:3イエスは手を伸ばして、彼にさわり「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。

 

 

 

らい病は、明らかに、我々を覆っている罪に関しての喩えであり型。

 

主は、ここの箇所で「わたしの心だ。きよくなれ。」---この言葉が、「私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ」といった、「清める」という言葉と全く同じ言葉が使われている。

 

ここで使われているらい病に関してのメッセージは、主は我々のらい病、たとえの意味合いとして、我々の身体に取り付いて、死んだ方向へ追いやるが、その病から癒されるという事が、ここで書かれているメッセージ。

 

 

 

イエス・キリストの血は、我々の良心を清め、死んだ行いから離れさせて下さる。

 

その結果、生ける神に仕えられるようになる。  それまでは、死に仕えており、罪に仕えていたが、主の血に触れるならば、我々の思いが死の方向から離れて行って、命の方向に変わって行く。

 

聖餐式の葡萄酒の血は御霊に通じる。

 

なので、具体的に言うなら、我々が祈りの中で聖霊に触れ、キリストの血に触れていくという事を続けていくべき。   その時に一人一人の、死んだような、罪や死に走って行く、死んだ行ないについていく、らい病のような歩みであっても、きよめられる。

 

主の血を求め、習慣にする。  聖霊が清めてくださる。

 

 

 

9:15こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。

 

 

 

ひとつは、新しい契約の仲介者。

 

ここで、新しい契約とは、「遺言」とも訳せる。

 

神と人との間の仲介者がイエス・キリスト。

 

イエス様の仲介に関しては、遺言書として主の死によって有効なものになった。

 

遺言書は実現していく。

 

キリストの死によって、我々の契約とは、神と人との契約。

 

その重さを捉えていくべき。軽いものではない。

 

キリストの命がかかった契約。

 

キリストは、我々のために命を捨てられた。

 

我々は、永遠の遺産を受ける事が出来るように、召されている。

 

ある人はそれを、この地上において正しく全うし、実現する。

 

しかしある人は、エサウのように取り損ねてしまう。これにはポイントがない。

 

得るべきものをちゃんと得る人にポイントがある。

 

我々クリスチャンの生活の中において、最も大事な事というのは、「たとえ全世界を手に入れても自分の命(永遠の)を損ねたら何の得があろうか」--- このことを間違えてしまう事がないように正しくとらえていく。

 

 

 

9:16遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。

 

9:17遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。

 

9:18したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。

 

9:19モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、

 

9:20「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。

 

9:21また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。

 

 

 

19節で、契約の書(今で言う聖書)にも、民全体にも、血を注ぎかけた。

 

 

 

9:18したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。

 

聖書にもあらゆる約束がある。

 

血が無ければ、全ての契約は、成立することはない。  有効とはならない。

 

血は聖霊の働き。

 

新約聖書は新契約の書。 旧約聖書は、旧契約の書。

 

これらは血なくして成立しない。

 

仮庵の祭に関して聖書に書いてある。これについても血(聖霊)の働きが無ければできない事。仮庵の祭は、地下教会での働き。   レムナントではそれを実行している。

 

聖霊の働きによってこそ実現していく。

 

血無しには神の言葉はどんなことも成立して行かない。

 

我々自身も、血無しにはどんな御言葉も実行していけない。

 

人間的な考えの下ではすべてがずれてしまう。

 

聖霊の働きがあって初めて我々は、契約の言わんとしている事を理解し、また、神が、聖書の契約の目的としている事を理解し、聖霊が望んでいる事柄を理解し、ポイントをついて行って行くことが出来る。