へブル書9:20~9:28 2014.8.10
9:20「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。
ここでは、「契約」は「遺言」をさす。
遺言は、書いた人が死ぬ時に有効になる。
我々の契約に関しても、主が命を失われた故に、我々と神との契約も実現したものであり、変える事の出来ない契約となった。
聖書に書かれている事は正しくとらえていく。
イエス・キリストの死によって、我々と神との契約が、変わることの無い有効なものとなった。
命を失った主に報いる歩みをしていく事が、大きなポイントとなる。
9:21また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
幕屋とはクリスチャンをさす。
器具は、英語では、「器」となっている。すなわち人間の器。
全てのクリスチャンはキリストの血によって清められる。
器もクリスチャンを喩えている。
清められるという言葉は、らい病が「清め」られるのと同じ言葉が使われている。
我々の罪も、血によって清められる。
聖餐式の葡萄酒の血は、聖霊を喩えている。
9:22それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ここで書いてある「罪の赦し」。
ルカ
4:18「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
ここに書いてある、「捕われ人には赦免を」。 赦免がまさに「罪の赦し」。
イザヤ書
61:1神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」とある。
捕われ人には「解放」・・・へブル書にある「罪の赦し」という言葉と同じ。
ここでの捕われ人とは、罪に捕われた人。 罪の奴隷。
未信者の人も大いに奴隷であるし、クリスチャンでも、奴隷状態からなかなか解放されないという問題がある。 それに関して、キリストの血は、その罪から解放するという事をまさに言っている。
罪の奴隷という事は、真面目に考えなければならない。
クリスチャンであっても、罪の奴隷となっている部分が、往々にしてある。
そこに関しては、聖書は明らかに語っている。 御国の奥義としては、例えば、アブラハムには子供が二人いたけれども、一人は自由の女の子(イサク)、彼は、アブラハムの家を継ぎ、財産を継いだ。
これは、御国を継ぎ、御国の家を継ぎ、また、天の父の財産を継ぐ者の喩え。
もう一人の息子、イシマエルは、奴隷女の子。
これは、罪の奴隷の喩え。 言わんとしている事は、我々は罪の奴隷であり続けていく時には、御国を継ぐことは出来ないという事の喩え。
罪から自由になれば、御国を継ぐ。 しかし、奴隷のままである場合は、御国を継げない。
これは、全てのクリスチャンに対しても言われている事。
毒麦であったにしても、良い麦であったにしても、クリスチャン生活をしている間はわからない。 罪の奴隷であり続けるなら、身を滅ぼす。
罪は、しつこくしつこく我々を奴隷状態にする。 罪を犯す者は罪の奴隷。
どこまでも自由になって行かないなら、入るべき御国に入れない。
「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
ここで言う罪の赦しとは、罪からの解放の事を言っている。
血を注ぎだす事がなければ、奴隷状態からの解放はない。
この血は、聖霊の喩え。
言わんとしている事は、聖霊が注がれる時に、我々は、罪の奴隷状態から解放されるという事。
聖霊が注ぎ出されて行くという事は、祈りなくしてはあり得ない。
祈りに時間を割くことが無いなら、罪の奴隷状態から解放されることはあり得ない。
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはあり得ない。
血(聖霊)が注ぎ出されるまで祈ること。
そうすれば、強い罪や呪いの力から解放されるのを見る。
へブル書
9:23ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
9:24キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。
9:25それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
9:26もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
キリストは何度も何度も十字架にかかる必要はない。
ただ一度十字架につけられた事によって、世の中にいる何十億という人の罪をみな贖う事が出来た。 そのように神は定められた。 それによって、罪は取り除かれて行く。
9:27そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
人間には例外なくこの二つの事が定まっている。
どの様な人にも死ぬ事が定まっている。 そして、死んだ後裁きを受ける。
裁きとは、聖書では、「裁判」という意味。
黙示録
20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
書物とは「書き記される」という意味合いで使われる。
我々のすべての行いは書き記されている。
それと共にいのちの書が書かれている。
20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
行ないは大事。 「信仰によって裁かれた」とは書いていない。
行いが、御前に正しくなるよう求めていくべき。
20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
我々は、いのちの書に名が記されることを絶対に求めて行かなければならない。
しかも、命に至る門は狭くその道も狭い。そして、それを見出す者は稀であると、主が言われている。
マタイ
10:15まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
ここにあるさばきの日というのが、死んだ後に裁きを受ける、そのさばきの日。
ソドムとゴモラは裁きを受けるが、12使徒によって、はっきりと福音が示されながらそれに耳を傾けないなら、さらに重い罰を受ける。
マタイ
23:33おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
ここにある刑罰とは、「さばき」という言葉と同じギリシャ語が使われている。
神の言葉に、携わっている人達であっても、その時に、偽善の歩み、ただ人前の歩みをしていて、実際は神の御前に、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいで、罪の奴隷であれば、いくら、神の奉仕についていようがいまいが、その時に、ゲヘナの刑罰をどうして逃れようか。 ゲヘナは火の地獄。
なので、さばきの日には、たとえ、神の働き人であろうと、その人が、歩むべき道を歩んでいないときに、地獄のさばきに入ると言っている。
我々は、このクリスチャン人生の間にあるうちに、神と和解し、罪から解放されて行かなければいけない。
へブル書
9:28キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
キリストがこの世に来られる目的。
初降臨の時は、罪を負うために来られたが、二度目の時は、救いのために来られる。
キリストの再来の時に、救いを必要とする人達、それこそ滅ぼされる寸前に艱難に遭っている人達の救いのために来る。
例えばダニエル書のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが、火の燃える炉に投げ込まれた時、その時に4番目に神の子が現われ、三人は火の炉から救い出された。
同じように、世の終わりの時、艱難時代の時に、キリストは救いとして来られる。
御国の奥義のようではあるが、正しくとらえていく事。
第二テサロニケ
1:4それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。
1:5このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。
1:6つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
1:7苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
この箇所はまさに再臨の事を語っている。
この時に困難にあっている人達の救いのために主は来られる。
1:8そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
正しく歩まない人に対しては、キリストの再臨は報復の時となってしまう。
1:9そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
1:10その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。
この言葉が暗示しているものは、やはり、艱難時代において、正しく主につくクリスチャンが絶体絶命、地上には何の道もない、そういった、「あわや」といったその時に、キリストは来られる。その時主は、こういった人々の感嘆の的となられる。
その時に「信じている」人達は少ないという感じがある。
「はたして人の子が来る時に地上に信仰を見る事が出来るだろうか」と主は仰せられた。
最後まで信じ通していきたい。
レムナントキリスト教会
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