エペソ人への手紙1章 2012.11.17,11.24

 

1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

神の御心によって立てられた人だと、パウロは自分で言っている

しかし、人間的には、彼を使徒として立てようとした動きがあったかどうかはわからない

なぜか?→パウロは以前、クリスチャンを迫害したから

でも、キリストによって立てられたとパウロは言ってる

自分で言わない、誰も認めてくれない

ペテロやヨハネやヤコブのように、使徒に任命されたわけではない

しかし、書簡の数はパウロが一番多い

ゆえに神の前に多く用いられた器と言える

これによって教えられること:パウロを通して神は働き人について語っている

ちなみに、おかしな教えを語っている人は神さまからは任命されない

神の御心によって、そういう働き人(パウロのような働き人)が立てられることがある

パウロは人からは認められなかった、立てられなかった

ここで、神によって用いられるパターンについて、パウロを通して提示されている

ポイントは、人からではなく、神に立てられること!!

神と人とでは違う

神の御心を求める人を神は欲している

神によって立てられるということを見ておく

 

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

霊的な祝福がある

霊的なものが非常に大事、人を生かすものは霊だから

参照 ヨハネ6:63

6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

霊が変えられるなら、力を受ける

霊の祝福を受けることが大事

ただし、祈らないとダメ!!

祈りの中で、霊的な祝福を受ける

 

1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

クリスチャンになったことは・・・お一人一人は、世界の基の置かれる前から選ばれている

「傷のない者」:非難されるところがない

クリスチャンとして、きよい者、非難されるところのない者となっていくことが大事

クリスチャンであっても、ゴールは異なる

スタートは同じ、しかし、ゴールは違う

ゆえにクリスチャン人生において、きよい者にならなければいけない

参照 へブル人への手紙12:14

12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません

きよくなければ、誰も主にまみえることができない

主にまみえない場合→天の御国に入らない可能性がある

道は開かれたけれども、最後まできよくないなら、御国に入れなくなってしまう

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙2:13

2:13 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

御霊による聖め:汚れから離れる

クリスチャンでも、汚れにずっと引っ張れることがある

罪から、なかなか足を洗えないことがある

しかし、罪からのきよめは、聖霊にある

肉の力で決心したからと言って、解決するわけではない

聖霊の力、祈りに解決がある→自然にきよめられる

 

1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

「子にしようと」(KJV):養子とする

クリスチャンの大きな間違え→多くのクリスチャンは、クリスチャンになったら、神の実子になったと勘違いしてしまう、しかし、神の実子は、イエス・キリストのみということと、地上にいる間は、「養子」の立場に過ぎないという点については、正しく理解しておく

要は、実子ではないということをとらえておく

このことは、クリスチャンがきちんと理解しなければいけない

「子となる」ということは、揺るぎのない立場ではない

養子関係というのは、いくらでも調整が可能

「子にしよう」としているわけであって、実際に「子になる」かどうかは、また、別のこと

4節についても、しかり

そうしようとしたけれど、子になれないということが現実にある

「神の子」(養子)となるのは、結構大変なこと

参照 ローマ人への手紙8:23

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 

参照 ローマ人への手紙8:16,17

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

このように書かれているので実現することはたしか、しかし、すべる人が多いので、きちんと(永遠の命を)ゲットすること!!

17節には、「神の子」となるための恵みについて書かれている、神の相続人となることは、大変な恵み

ただし、このことに関しては「栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」という条件がある

さらに、「本当に共にしているのなら・・・」というニュアンスがあるので、このことも心に留めておく

つまり、相続財産を受けるのに条件があるということ

キリストがしたこと:神のことばのために苦難を受けた

Ex:パリサイ人や律法学者との論争、十字架の刑

しかし、そういった中で奉仕を全うした

キリストと似たような生涯を送るなら、相続する

逆に、苦難を受けないなら御国を相続するのは危ない

 

1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

「神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光」(KJV):愛する方によって受け入れられる、そのために色々と訓練を受けている

 

1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

罪の赦しを受けている

それによって、大変な差が出る→罪の赦しを受けるか受けないか?は大事なこと

たとえば、世の中の裁判所でも、有罪or無罪で、その後が大きく変わる、神さまとの関係もそれと同じ

神の贖い:無罪放免する、それは御子の血(聖霊)

これから、贖いが危なくなり、神との契約が破棄されるクリスチャンがいる

 

1:8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、

1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、

9節の「みこころの奥義」について

聖書に「奥義」ということばが沢山出てくる

参照 マルコ4:1013

4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。

4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」

4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。

奥義を通してクリスチャンの間に区分がある

弟子たちには、奥義が示される

御言葉の奥義には大きな恵みがある

奥義を理解したいのなら、キリストの弟子として歩んで、御心をおこなうこと!!

たとえが奥義と関係する

同じ聖書を読みながら、まったく別の結論にいってしまう人がいる

尊いことは、神は私たちを選び、御言葉の奥義を教えてくださる

神が奥義を教える→神が心をゆるし、許可を出し、認めたということ

そして、本当に悟ったら歩みが伴う

色々な事柄を主に聞いていくときに、御言葉が開かれていく

Ex:アメリカの10本の角、宮の崩壊のこと等

神が許可するなら、奥義が示されたり、開かれたりする

必要な啓示が与えられることにポイントがある

 

1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、

「天」「地」:教会のたとえ

キリストにきちんと集められるように祈り求めていきたい

 

1:11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。

「御国を受け継ぐ」(KJV):財産を受け継ぐ

このことは、度々聖書で書かれている→天の父の財産を受け継ぐ

「私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って」:主の目的のために実現し、働かれる

主が意図してくださっていることを実現するために、神さまは色々なことを起こさせる

色々なことが主の働きの中で起きる、主の配慮がある

良いことも、そうでないことも、色々なことがおきてくることは、主の深い配慮の中で主が介入しておられること

色々なことの中に神の働きがある

起きてくることのすべては益になる

良いこともそうでないことも、その裏には主の働きがある

 

1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

御言葉を信じたか?信じないか?で、受ける報いが変わる、大きな差が出る

「信じた」(KJV) :信頼する

キリストのことばを信頼する人に恵みがある

 

1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

「聖霊」:御国を受け継ぐための保証のハンコ

終末の問題点:聖霊をないがしろにしたため、聖霊のハンコを無くしてしまう

Ex:賢い娘と愚かな娘→油の差があった、愚かな娘は聖霊の油を持っていなかった

これから、そういう時代がくる

参照 へブル人への手紙10: 29

10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

 

参照 黙示録17:2

17:2 地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」

「不品行のぶどう酒に酔う」:聖霊と思っていたのに、別の霊を受ける 

Ex:ベニー・ヒンが下す悪しき霊

聖霊をきちんと受けることが大事

聖霊にのみ「知恵、啓示、教え」がある

でも、現実は「聖霊」と思って、別の霊をつかむことがあるので気をつける

聖霊もどきに気をつける

どんな霊に導かれているか?については、よくよく吟味すること!!

 

1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、

1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

17「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」とパウロがあえて言われているように、ある人には与えられ、ある人には与えられないということに関しては認識しておく

ある人は啓示を霊においてきちんと理解する、しかし一方、ある人は文字や知識の上でしか神を知らない

知恵と啓示の御霊が与えられるように祈り求めること!

 

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

18,19節に書かれているようなことを、クリスチャンであっても知ることができないという可能性がある、見えていないという可能性がある

だから、パウロは祈り求めている

ゆえに、きちんと見えるように、幼子のようにひるがえって主に祈り求めていきたい

謙虚に祈り求めていく

18節「聖徒」ということばに関して→「聖徒」は、この世の人、そして場合によっては、他のクリスチャンが受けていないような苦難を受ける

しかし、その先には報いがある

正しいクリスチャンは、ある意味、欲が深い

この世のものよりも、後の世の価値のあるものを求めているから

パウロが言っていたように、この世のものを「ちり」や「カス」と見なすような価値観になっていきたい

18,19節のことを本当に求めるなら、歩みや力点が変わってくる

本当に見えたら歩みがビシッとしてくる、歩みや働きに関して何も疑問を持たなくなる

たとえ、今は実現していないことだとしても、見るのと見ないのとでは、全然違う

そして、後の日に必ず実現する

 

1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

たとえ、私たちが罪や問題の中にあったとしても、キリスト同じようによみがえる

 

1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

「すべての支配、権威、権力、主権の上に」とは、霊的なニュアンスの事柄に関して言われている

霊的な戦いに入ることにポイントがある

今は勝利していなくても、必ず勝利する

 

1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

聖霊が満ちているのが「教会」

正しく主の御心をおこなうかどうか?で変わってくる

主の声を聞いて、御心をおこなっていくときに報いを受ける

主の語りかけを聞いていくことが大事

かしらであるキリストがどうしたいのか?→主の言われたことをおこなうなら、報いを受ける

主はかしらであっても、からだではない、ゆえに働きは肢体である私たちクリスチャンに任されている

問題は、主が何を語っているか?ゆえに預言は大事

主の言われているポイントをとらえていきたい