ガラテヤ人への手紙2章 2012.8.25,9.2
2:1 それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
2:2 それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。
1,2章を読んで分かること→パウロは福音を人から教えられなかった
でも、パウロに神が福音を啓示され、キリスト教の中核となった
ほとんどの書簡はパウロが書いた
神が直接教えてくださるということがある
神の啓示を期待したい、たとえ人間的には教えてもらわなくても神が教えてくださる
2節の「おもだった人」とは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブのこと
むだにならないためでした:パウロがここで教会の柱(12使徒)の人にちゃんと示した
あとになっても、パウロが死んでも、示すべき人にパウロは示した
だから、のちになって、パウロのことをペテロは手紙に書いていた
ゆえに、このこと(きちんと伝えておくこと)も、啓示のひとつと言える
自分個人の働きだけで終わるのではなく、神の働きとして残るため、そして、そのことをペテロやヨハネやヤコブは認めた
私たちもそれに倣う
素晴らしい啓示が与えられたときに、内輪だけに終わらせることに御心は無い
そうでないと、個人的なことだけで終わってしまう
Ex:インターネットでメッセージを掲載した、このことは主の御心だった、まさに、2節の御言葉の成就と言える
神からの働きは無駄にしない
神から与えられた啓示は、はっきり語る
Ex:セミナーで語るべきことが示されたので語った
神の恵みが無駄にならないために、本、セミナー、ニュースレターで、そのことを行なっていく
パウロが、このように示されて行動したことは正しい
主からの啓示は語っていかなければいけない
2:3 しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
割礼を行なう:律法を守る
割礼に対してパウロは戦っている
2:4 実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
にせ兄弟:間違えた教理をつかんでいる兄弟
Ex:艱難前携挙説、獣の国がヨーロッパ
本人は純粋、ゆえに正しいと思い込んでいる、しかし、実際には、ややこしかったり、根が深かったりする
ずっと、堅く割礼のことを思い込んでいる
Ex:牧師の前で罪を告白しないとダメ→これは間違い
パウロのように、立つべき立場に立つ
2:5 私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。
間違えた兄弟が来たときにどうするか?
福音の根幹的なことについて、パウロは戦った
譲歩しない→大切なこと、こういう態度が大事
もっとも根本的な事柄、終末の真理に対して戦う、律法についても戦う
折に触れて終末のことを語っていくべき
知るのと知らないのとで、これから結果が大きく変わってくる
真理が保たれるため:きちんと正しいことを示していくときに、真理を見る人がいる
Ex:艱難前携挙説を指摘する、再臨のときにキリストに受け入れられないクリスチャンがいること等
こういったことに関して、譲歩しないことにポイントがある、大事なことに関しては、一時も譲歩しない、そうしていくときに、いつの日か、見るべき人が見る
2:6 そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
おもだった者:12使徒のリーダーであるペテロ、ヨハネ、ヤコブ
彼らがどれほどの人たちであるとしても~神は人を分け隔てなさいません:神の前に私たちは分け隔てが無い
神は分け隔てしない
場合によっては実績のある聖徒であっても、罪を犯すと災いに会ってしまう
Ex:ダビデ→一旦、罪を犯すと神は容赦しない
罪、恵みに関して分け隔ては無い、まったくえこひいきは無い
2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
私が割礼を受けない者への福音をゆだねられている:信頼してその人に仕事を任せた
神がある種の人々に奉仕を任せることがある
パウロは啓示がゆだねられた
神が任せた奉仕は残る、啓示は残る
神がパウロに明らかに奉仕を任せたので書簡が残った
神に任されたことが大事
レムナントに終末の啓示を任せたのなら、忠実に行なっていきたい
必要なことは主が啓示してくださる
誰でも彼でもではなく、パウロだけに任せた、だから一生懸命行なった
神は、律儀なお方、ゆえに、パウロに色々な啓示が来た
任されたら、応えていきたい、そして、任されているということは、できるということ、ゆえに、道を開き、力を与えてくださる
Ex:ニュースレター、インターネット、出版の門を開いてくださっている
こういったことについて、謙虚に考えていきたい
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。
2:10 ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。
ペテロ、ヨハネ、ヤコブはパウロの福音に合意した
12使徒の流れの中でパウロの福音は認められた
神から来たものなら心配することは無い
事実、世の中が、そうなっていくので、何も心配することは無い
Ex:アメリカが獣化
そして、ゆだねられているということは、大宣伝する必要は無い
誰かが任されたら、忠実に行なっていく
2:11 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
ケパ:ペテロ
ペテロ、ヤコブはユダヤ人
ペテロが中途半端な対応を取った→割礼、すなわち行いを優先するのか?それとも、信仰を優先するのか?を、はっきりしなかった
それに対してパウロは非難した
パウロは「真理は信仰によって義とされる」と言っていた、そして、それは神の前には正しい
また、序列に関係なく、神はパウロの言うことを正しいとした
たしかに序列を守ることは大事かも知れない、特に、この世において・・・だからと言って、神の前には、人間の序列は関係無い場合がある
12弟子の筆頭格のペテロがどんなに素晴らしい器だったとしても、場合によっては、間違えてしまうこともあるから
このときは、真理は信仰にあると言ったパウロが正しかった
ちなみに、割礼派、行い派の人は、ヤコブから来た
かと言って、ヤコブが間違えていたのかと言うと、そうとも言えない
たとえば、新約のヤコブ書には、信仰と行いについて語っている
ヤコブ書による信仰と行いの関係について、神は、このことも是認している
ゆえに、信仰と行いの両面について語るのは、聖書的と言える
参照 ヤコブの手紙
2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
クリスチャンは未信者と違って、キリストを信じている、だから信じているだけでも神の前に立派だと言っている、しかし、19節に書かれているように、悪霊も、そう信じている、しかも、悪霊は御心を行なわない
じつは、クリスチャンは、こういった罠に陥りやすい、そして、実際に、クリスチャンでこの手の人は多い、つまり、実行が伴わずに、死んだクリスチャンになってしまう、しかし、これはNG
御言葉はぜひ、実践していきたい
Ex:神から啓示を受けて、メッセージを書いた、そうしていく中で、真理を見る人がおこされた
もし、行なわなかったら、警告の働きは身にならなかった
ゆえに、神に言われた奉仕や歩みは実行に移せるように祈り求めていきたい
その結果、実を結び、魂を救い、意味のある信仰になる
2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
このような言い方は礼儀正しいかどうかは分からない
パウロ皆の前でペテロを叱責したのは事実
序列とか礼儀を考えたら、行き過ぎなのかも知れない
でも、神の前に正しかった
人間的な序列や人前のメンツもあるかも知れない、でも、14節に書かれているように、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいなかったので、パウロはそのこと(ペテロを叱責すること)を実行に移した
この箇所で理解できること:人間的な感情ではなく、福音の真理を優先しなければいけない
こういう面について、パウロの態度は見習うべき例として語られている
こういうことを通して、ベストな解決へと導いてもらえる
パウロのような歩みにポイントがある
福音の真理について、まっすぐ語る、その際、人間的な顔色を伺ったり、人を立てたりする必要は無い、まったく気にしない
きちんと語っていく中で見る人は真理を見る
Ex:艱難前携挙説を指摘した、それによって、理解する人がおこされた
参照 エゼキエル33:3
33:3 剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。
神が語っていることは、はっきりと警告を発さなければいけない
場合によっては、人間関係が壊れてしまっても、混乱を招かないために、はっきり語る
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
行いは果てしない、そんなことで、義と認められた人はひとりもいない
つまり、信仰によって義とされる
2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
律法に関して
キリストの十字架の死について・・・なぜ、キリストは十字架にかかって死んだのか?
本来、我々が死ななければいけないところ、キリストが代わりに死んでくださった
信じる人はキリストによって死を経験することができる
人間は誰でも自分の力でやっていくという面がある
でも、人は行いによって義とされない、にも、かかわらず、自分の力で律法を行なっていこうという要求が一度はあるのでは?
しかし、神様が教えてくださるレッスンを無にしないようにする、すなわち、私たちは、自分の力では何もできないということを学ばなければいけない
キリストは、私たちの生まれつきの力では行なえないということを知っていたので、わざわざ、十字架で死んでくださった
そうまでしないと、生まれつきの力で、やっていくことをとどめられない
自分の力で行なっても、失敗することを学び、正しくとらえておく
自分の力に頼っていると、まともなクリスチャン生活にならない、ろくでもない目に遭ってしまう
キリストが死ななければならないほど、私たちの肉の行いは十字架の死にしか値しない
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
もう、自分の力に頼らず、キリストに頼って生きている
今、生きているのは、キリストによる
キリストが助けてくださることを信じる→クリスチャンの基本的なパターン
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
律法:神のことば、これは、旧約だけでなく、新約も同様
律法によっては義とされない
キリストを信じるときに自分の力ではなく、神の憐れみによって、律法を行なうことができる
レムナントキリスト教会
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