ガラテヤ人への手紙4章 2012.9.30,10.7,10.14
4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
参照 ガラテヤ人への手紙3:29
3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
神の子となる→大変なものを相続する
今の時代、正しく神の子として受け入れられていくときに、今の世とは比較にならないほどの財産を受け継ぐ
私たちの父は天の父
後の世に受ける報いは大きいということについては、聖書の所々に書かれている
参照 マルコ10:29,30
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
参照 ルカ19:12-19
19:12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。
19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。
19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
19:16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
19:18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
19:19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
私たちが、後の世に受ける報いは大変なもの
だから、この世のことで妥協したり違うものをつかまされたりすることのないように気をつける
「奴隷と少しも違わず」の語りかけをみてみたい
奴隷とは「罪の奴隷」のこと、すなわち、御国を受け継がない人のことを言われている
アブラハムを父としていても、罪の奴隷となっていたら、受け継ぐものを受け継がない
罪から自由になるのがポイント→クリスチャン生涯で、このことは達成しなければいけない
神の前に、奴隷と自由の区分がある
自由の子として、受け継いでいかなければいけない
ただし、見た目は、今の世においては、この世の人と変わらなかったり、貧乏だったりする
今の世で、このことばを尊重していかなければいけない
人の評価と神の評価は違う
受けるべき評価をこの世では受けないかもしれない
歩みがおかしいとか、そんなことも言われるかもしれない
しかし、見えるところで判断したり、勘違いしたりしてはダメ!!
後見人:守護天使
神の子に関して、後見人や管理人がつく
神の子でいるときに、特別な天使の守りや助けがある
イエス様が生まれて間もないときに命を狙われた、しかし、御使いによって、助けられた
参照 マタイ2:13
2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
真に神の子であるときに、御使いの助けや不思議な守りが必要に応じて与えられる
Ex:危険なときに天使の助けを受けた
正しく御心の道を歩んでいくときに、守りが与えられる
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
クリスチャンになる前は、この世の教えに従っていた
4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
キリストによって、子としての身分を受ける
ちなみに、KJVでは、「子」の部分は“adoption”(養子)と訳されている
つまり、養子となるということを言われている
私たちは、元は、身分の卑しい者だった、しかし、金持ちの神様が養子として迎えてくださった
神の憐れみによって、身分が低い者であっても、神の財産を受ける者となっていった
ただし、「養子」という立場は微妙、素行が悪いと縁を切られてしまうというニュアンスがある
たとえば、花嫁だったが、神から離縁された女もいる
参照 エレミヤ3:8
3:8 背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。
子としての身分を受けるためにキリストが贖ってくださったので、そうならないように気をつける
4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
神が御霊を下してくださった
聖霊にあるときに、子として、祈るようになれる
聖霊に従うなら、自然に父に求めるようになる
クリスチャンになって良かったという霊を受けている
もし、そうでないなら、別の霊を受けている可能性があるので、きちんと求めていく
4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
私たちは、いったん、神の霊に導かれる
しかし、惑わしの霊により、引っ張られる可能性がある→無価値な幼稚な教え
☆某兄弟の証
ホーリネス系の教会で人間的な教えに入り、救いの喜びや自由がなくなり、行い的な信仰に入ってしまった、幸い、聖霊によって気づかせていただいたので、失ったものを取り戻すことができた
そんな風に、サタンのおかしな教えに入ったり、恵みからズレていってしまったりという罠や偽りがあるので、くれぐれも気をつけていきたい
10節は律法を守ることに通じる
律法を守って義とされる
しかし、行いによって義とされるのは、根本的に違うものになってしまう
行い主義に引っ張られることのないように気をつける
特にカソリックは行い教
信仰と言いながら、実質は行い教
10節に御言葉がそのことを証明している
マリヤの日など、色々な聖人の日があり、それを守らせて、がんじがらめにしていく
4:11 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
4:12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
12節→この言葉を発するのは、なかなか勇気のいること
本当に主の働きに着いていくのなら、模範になれるように主に祈り求めていきたい
そして、パウロは、相手を救うために、その立場になったり、配慮したりした
こういったことに関しても、パウロを見習う→真に御言葉を宣べ伝えていくのに大事なこと
4:13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
KJV:肉体の弱さの中で福音を伝えた
弱い中でも、パウロは福音を伝えた
4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
福音を伝えるとき、肉体(外観)がパーフェクトなベストな状態にあるに、越したことはない
しかし、メッセンジャーや奉仕者は、色々と攻撃される
聞く側が、そういうことに、どう対応すべきか?
神が真に用いられる人は、肉体的、あるいは外観的に、すべてパーフェクトとは限らない、両方は求められない
だからと言って、霊の状態が悪いわけではない
パウロは御心を行っていたゆえに、試練に会っていたのでは?と、考えるのが妥当
神に用いられる人は往々にして、こんな人か?と、いうパターンが多い
弱さの中で伝えるということがある
真理が与えられていても、見た目、そういう風には見えない
そういうことを、とらえておきたい
人間的には弱い、試練がある
KJV:パウロの肉体自身に試練があった
サタンの試練の中で、眼病を患っていたのかもしれない
そういうときに、聞く人は、どういうふうに扱うか?
人間的な標準で働き人が、さばかれることがある
しかし、ガラテヤの人のような対応が、あるべき姿
本質的なことをつかんで、対応する
教会であっても、人間的な味方や判断がある
人間的なことばかりを見ると間違えてしまうので、気をつける
4:15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
4:16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
パウロはここで、信仰による救いを強調した
しかし、律法による行いを信じていた人の敵になってしまった可能性がある
真理を語ったため、他の人と敵対関係になったり、疎遠になってしまったりすることがある
人間関係を優先するのか?真理を取るのか?が、問われることがある
こういうことは、往々にしてあること
4:17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
4:18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
自分たちに熱心にならせようとする→メッセージをするときに、聞いている人から熱心に慕われたいという思いがある、こういうことは、人間的には誰でも持っているもの
しかし、それを優先してしまうと、方向がズレてしまう、福音の恵みから締め出してしまう可能性がある
Ex:艱難前携挙説やエキュメニカルの推進、同性愛は問題ないなどの教え
そういうことに関して、どこかで区分を付けなければいけない
自分に熱心にさせてしまうという誘惑がある
御言葉は、微妙なことを切り分ける
参照 へブル4:12
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
4:20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。
「再び、産みの苦しみをする」という言葉に語りかけがある
一度目:キリストを初めて信じる、いわば、新生
しかし、もう一度、生まれる→キリストの形になるために
新生してクリスチャンになっても、それで、ゴールではなく、それは、単なるスタート地点に過ぎない
キリストが形づくられるよう、目指していかなければいけない
私たちの中に、キリストの影も形も無いというのは問題、非常にマズイ!!
思いや信仰やキリストが私たちの内側に形作られるように、クリスチャンは召されている
(罪の)奴隷からの解放を求め、成就していかなければいけない
クリスチャン生活の中で、このことを実現していくのが真理
求めていくときに変えられていく
キリストによって変えられていくことにポイントがある
4:21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
聖書で言われていることは人間的にはシビア
参照 マタイ13:11
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
シビアな区分に関して語っている
女奴隷:罪の奴隷
自由の女:罪から自由になっている
ここで言われているたとえや奥義について理解する
クリスチャンは2種類いる
罪の奴隷として終わるのか?自由になるのか?それによって御国を受け継ぐか否かが決まる
多くのクリスチャンは、クリスチャンと名が付けば天国だと思っている→NG
同章の30節では決定的なことを言っている
参照 ガラテヤ人への手紙4:30
4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
罪の奴隷としておわるのか?そうでないのか?に関しては、各自の選択、サタンも、それは強要できない、罪を犯すように誘惑はできても、力ずくで罪を犯させることはできない、ゆえに、すべて、自由意志ということになる、どのように歩むかは自己責任!!
もともと、私たちは罪の中に生まれ、ハンディがある、そして、結局、罪に残ってしまうクリスチャンが多い
また、自分が罪の奴隷なのか?それとも自由なのか?は、自分自身で分かること
クリスチャン生活は明らかに罪から自由になっていくという語りかけがある
理屈だけでなく、実行していく!!
そして罪の引力は強いので、脱するのは大変だったり困難だったりする
罪に引っ張られているというのが、結構あるパターン
結構、これで引っかかる人が多い、結局は自己責任
4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
女奴隷の子は肉によって生まれ:罪に入っていく人は肉に従って歩む、そして、これは特別なことではない、この世の人、いわゆる未信者の人が典型的なパターン
自由の女の子は約束によって生まれた:ここで言われている約束とは「約束の御霊」のこと
肉によって歩むか?聖霊によって歩むか?
肉→何の努力も要らない、しかし、罪に入る
ポイントは「約束の御霊」→祈りの中で聖霊に触れた生活
聖霊によって歩むことに力を費やすなら、簡単に罪から脱することができる、具体的には祈りをしていく
そのときに、普通なら、罪に入るところ、聖霊によって守られる、罪から自由にさせてもらえる、神様が示しを与えてくださる、霊的なことが分かるようになる
たとえ、心が狭くても・・・本来、罪を犯すところ、聖霊によって罪から自由になれる
聖霊に触れてなんぼということがクリスチャン生活である
単なる教理ではなく、実践していくことにポイントがある
たとえ、手間隙が、かかったとしても、本当に求めていくなら実現していく
Ex:カナの婚礼の水がめのたとえ話
参照 ヨハネ2:1-11
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
水がめを縁までいっぱいにしたときに、水がぶどう酒に変わった、ちなみに、「ぶどう酒」は聖霊の働きのこと
ゆえに、水がめの縁まで水を満たすことは、祈りを積んでいくことに関連する
そして、御霊に触れていく人は、あらゆる罪から自由になる
4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
シナイ山:とげがある
ハガル:戦う
何とか律法を行って義になる、しかし、このことは、結果として罪の奴隷に終わる
Ex:金持ちの青年
参照 マタイ19:16-24
19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
ここで言われている「金持ち」とは、嫌というほど、行いや努力ができる人、たしかにこういう人は、人の前には賞賛される
しかし、このときイエス様はハッキリと「金持ちが天の御国に入れない」と言われている
すなわち、行いでは、不可能だということを言っている
ゆえに、自分の行いを放棄してキリストに頼り、聖霊の力によって入っていくのが正しい
行いでは義に至らない
行いの信仰を求める人は、結局は罪の奴隷に終わる
4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
4:27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」
4:28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
4:29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
29節に書かれていることは、キリスト教会で往々にして起こること
人によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害することは、色々な形で存在する
肉的なクリスチャンが教会に多い、そのために、御霊によって歩むクリスチャンはひどい目に会うかも知れない
しかし、これは、ゆるされていること
Ex:麦と毒麦のたとえ
参照 マタイ13:25-30
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
「麦」はクリスチャンのたとえ
教会には、良い麦と呼ばれるクリスチャンと毒麦と呼ばれるクリスチャンがいる
しかし、毒麦は、結果として滅びる
そして、艱難時代に、このことは顕著になる
たとえば、変な法律に従ってしまうため、肉的なクリスチャンが御霊のクリスチャンを迫害することは、往々にして起きる
4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
4:31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
奴隷の女とその子ども:相続しない
自由の女の子ども:子として天の御国を受け継ぐ型
30節の御言葉「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」に関して、神の御心に妥協は無い!!
クリスチャン生活の一面→はじめは罪の中に入っていても、そのまま罪に甘んじてはいけない、何がなんでも、罪の奴隷から脱さなければいけない
このことは聖書の1つの基準として言われていることなので、問題があれば自由になれるように、主に祈り求めていくこと!!
神の前に、クリスチャンは2種類の区分(罪の奴隷or罪から自由になっている)があるので、今のうちに自由になるべきことは、自由になっていかなければいけない
レムナントキリスト教会
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