ヤコブ書4:110            2015.1.11

 

4:1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 

4:2あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

 

聖書には二面の意味合いがある。

表面的に読める意味合いと、喩えの意味合い。

どちらも読んでいく時に、受けるべき恵みを受ける。

表面的には、「からだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」とあるので、我々は欲によって歩んでしまい、それによって争う。それをもって「人殺し」をしたり、「うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりする」

このような事にならないように、欲を第一としたクリスチャン生活を歩むべきではない。

これは第一次的な事柄。もちろんこれも真理。

それと共に、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」とある。

必要な事があれば、祈っていけばそれは与えられる。

願って、祈って行くのは聖書的な事。

ただ、もう一つの意味合い、喩えの意味合いというものがある。

ヤコブ書のこのあたりは、ずっと「教師」の事を語っている。

「あなたがたの多くの者は教師にならない方がいい」「舌は不義の世界である」「小さな火が森全体を燃やす」「小さな舵が大きな船を動かす」など、これらはみな教師の事を言っている。

 

4:1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

 

「からだの中で戦う」というのは、キリストのからだである、教会、教団間で、牧師と信徒が争うという事柄に関しても言われている。

両方言っても意味合いがある。

「からだの中で戦う」とは、キリストのからだである教会の中で戦うという事。

主は、「互いに愛し合いなさい」と言っているので、本当は、争いや分裂はあるべきではない。

しかし現実は、分裂している。

この理由ははっきり書いてある。  「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」

それであるから、教団、教会の中で、争いが原因で分裂したとか、結構ある。

その原因は、欲によるもの。

あってはならない事だが、歴史上は、かなりある。

ここの箇所にある通り、欲望によって。

このような事を聖書は赤裸々に言っている。

「自分を認めてほしい」という欲望。争いは結構そういう事が原因だったりする。

その様な事にどの様に対応するかは、教会としては、分裂をもたらす者は、「一、二度注意して除名しなさい」とまで書いてある。

「神のため」と言いながら、結局は、「自分を認めてほしい」とか「高めてほしい」というもので動いてしまう。  それは良くない事。

聖書は、はっきりと指摘している。

「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。」

 

4:3願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

 

それは、良くない事。

祈りだからと全てが聞かれるわけではない。

御心に叶った祈りは聞かれるが、そうでないものは聞かれない。

悪い動機のものはダメ。

 

4:4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

 

世の友と書かれている。

聖書は、この世の事に関して、はっきりとした態度をとっている。

なので、我々も、自分の考えは色々あるかも知れないが、この世に対しては、御言葉に沿って対応していった方が良い。そうでないと、災いをこの身に受けるようになる。

我々が「世を愛する」と神に見なされると、我々は、神の敵になる。

「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」

神の敵になったらロクでもない事が来る。

 

4:5それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

 

この世については、聖書に基づいて対応していくべき。

そうする時に、我々は、この世に対して適切に対応できる。

我々が世にいるのは事実。

聖書の言っているような意味合いでのこの世に対しての対応を見ていきたい。

 

マタイ

18:7つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

 

この世では罪の誘惑があるので忌まわしいものだと書いてある。

我々が、この世に住んでいる時に罪の誘惑がある。

聖霊にある適切な関係をもっていきたい。

 

19:28そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

 

「世が改まって、人の子がその栄光の座に着く時」とあるように、今の世は終わる。

今の世は永遠に続くわけではない。逆にサタンに支配され、神の御心に適わない。

その世が改まる時が来る。

今の世に固執して、それに忠実に歩んでも神からの祝福は無い。

今の世は「滅びる」という認識で歩むのが正しい。

 

24:3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 

 

この世は終わるものであり、また滅ぶものであり、裁きが来るもの。

神は、この世の歩み方に関して喜んではおられない。

 

ヨハネ

7:7世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。 

 

この世は、神、キリストを憎んでいるもの。

いくら我々が一生懸命、新聞やテレビのニュースを見ても、キリストの正しい事は見れない。

福音も出てこない。

 

8:23それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。 

 

「わたしはこの世の者ではありません。」と主は言われたが、我々がキリストについていく時、

我々も世から憎まれる。

 

ローマ

12:2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 

 

この世と妥協してはならないと書いてある。世と合わせてはいけない。

主の事を優先していくのが正しい。

 

第一コリント

7:31世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

 

我々はこの世のものを用いないわけには行かない。パンや米を買う時なども。

それは、程度の問題。  「用いすぎないように」と書いてあるように、あまりにこの世に取り込まれてしまえば、これは間違い。

 

11:32しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 

「私たちが、この世とともに罪に定められることのないため」

この世は、結局、罪に定められる。

世は、神に逆らう罪の世界。  いずれ裁かれる。

我々は、この世と一線を引かなければ、この世と共に滅びに入る可能性がある。

ソドムやエジプトと呼ばれる都とは、終末の堕落した教会。

エジプトは、この世をさす。教会がエジプト化(この世化)するというのは、終末の日にある。

教会はそうなるが、我々がそうなってはいけない。そうでないと、我々も背教の者として裁かれてしまう。

なので、教会に合わせるのではなく、神のみ言葉に合わせて行かなければならない。

 

ヤコブ書

4:6しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

10章でも、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。 」

 

我々は往々にして、クリスチャンでも高ぶってしまう事があるかも知れないが、われわれがへりくだった道を歩む時に、恵みを受ける。

教会であってもこの世の論理は通用する。

クリスチャン同士、また、弟子の歩みをしている人でも、競争があったりすることがある。

しかし、そういう事に関しても、我々が高ぶったりするのではなく、へりくだった所に留まろうとするなら、恵みを受けるようになる。

 

4:7ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

 

悪魔に立ち向かう事。

悪魔という言葉。  悪魔はギリシャ語でダイアボロ。

 

第一テモテ

3:11婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

 

悪魔と悪口は、全く同じ言葉。

悪魔の最も中心的な働き。最も顕著な性格。それは悪口、すなわち「悪口を言う」ということ。

教えられる事は、我々が、クリスチャンであっても尚且つ「悪口」を言ってたりする。しかも多い。どんな理由があったとしても悪口を言う時、クリスチャン、ノンクリスチャン問わず、実は悪魔と同じ事をしている。

だからよくよく注意すべき。

悪口を言うのは良い事ではない。

今の時代、この世は何でも悪い事を言う。新聞を読んでも悪口雑言。

日本の教会の中で、ここ10年くらいトレンドになっていて、よく言われるのが、教会のカルト化。これはアメリカのトレンド。

教会のカルト化と言って、いろいろ批判する。(教会の牧師の権威が強い等)

これは罠。 実際は、「教会のカルト化」などと言っている人はろくでもない人ばかり。

悪口を言うのは悪魔と同じなので、もしそれが正義感からしているものであっても、実は悪魔と同じ事をしており、同じ裁きを受ける可能性がある。

そのような罪に入って行くべきではない。

悪口を言いやすい性質とか気持ちが、強く人に入って来る。

そうであっても我々は、その様な罪、悪魔と同じ裁きに入って行くべきではない。

 

ヤコブ書

4:8神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

4:9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。 

4:10主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。 

 

へりくだる者に恵みがある。