ヨハネの黙示録12章13~18           2016.4.3

 

 

 

黙示録12章は、12つのポイントが分からないと、何が書いてあるかさっぱりわからない。

 

「竜」は黙示録13章に書いてある、獣の国。

 

ダニエル書の中では、4つの世界歴史に起きて来る獣が出て来るが、最初はライオンであり、バビロン。熊はメディアペルシャ。豹はギリシャ。4番目の国は、ローマではない。巷ではその様に言う人は多いが、違う。 正しくは、アメリカ。

 

この4番目の獣は、恐竜の事を言っている。

 

これらはみんな、歴史的に実在している獣。

 

そして共通点がある。   それは、どれもこれも、人食いの獣だという事。

 

ライオンも熊も、豹も、そして恐竜こそ最大の人喰い獣。

 

最強の獣は、どう考えても恐竜。

 

我々は、恐竜と同時代に住んでいる。最悪の時代に生きているという事を知らねばならない。

 

聖書は明らかに語っている。終末というのは、今までキリスト教会で、起きなかったあり得ない事が起き、また、世の中の人から行っても、人類の歴史で、今まで起き得なかったことが起きる。アメリカは、世界支配を行なう。その中で、聖徒が迫害に遭う。ターゲットは、正しい信仰に歩むクリスチャン。

 

この辺りが分からなければ、殆ど的外れ。  実際にずれている。

 

我々に関してはそうであってはならない。

 

的を射、ポイントを突き、どの国が獣の国か、どの国を警戒すべきなのか、こう言うポイントを見て行かないと、「読むには読むが、悟らない」という事になる。

 

黙示録の最初の方に、「この預言の書を朗読する者は幸いだ」とあるが、原文では「読む者が幸い」だと書いてある。

 

また、「聞く者は幸いだ。」と書いてあるが、「読む」事が難しい。

 

封じてあるから。

 

レムナントの取柄は、啓示が開かれている事。啓示が開かれるというポイントが大事ではないか。  残念ながら今は、的外れな時代であり、一生懸命話してはいても、ポイントがずれたような、殆ど警告になっていないようなメッセージがあるかも知れないが、大事な事は、的を射る事であると見て行きたい。

 

もう1つ、黙示録で大事なポイントは、この女のことが分からないと、さっぱり何のことか分からない。

 

はっきりとパウロが言っている様に、「女」を理解するのは、結婚の奥義。

 

結婚は、偉大な奥義。  それは「キリストと教会をさす」とはっきり書いてある。

 

男と女が結婚するのが結婚。

 

女は教会。そう読んでいけば理解して行く。

 

この女の特徴は、同じ教会であっても、天的な教会。地的、この世的ではない。

 

それは、喩えを理解すれば、難しい事ではない。

 

この女を書いてある表現は、みな天に関する事。

 

女は太陽を・・・と書いてあるが、太陽は地の底ではなく天にある。

 

月も天にあるし、12の星も天。   地的な要素は無い。

 

天的な教会。  天的な歩みをするなら、天的なクリスチャンとして歩んでいるなら、終末の日に迫害に遭うというメッセージ。

 

しかし、地的な歩みをしているなら、この世についた歩みをしているなら、迫害に遭う心配をすることは無い。

 

「進化論は正しい」だとか、「同性愛はこの世のトレンドだから受け入れる」これは、地的な、この世についたクリスチャンだが、迫害を心配することは無い。

 

迫害とは無縁。

 

黙示録12章は、明らかにそういう事を語っているので、こういったところを見て行きたい。

 

 

 

12:13自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。

 

 

 

竜は、アメリカがイメージできれば、やっとメッセージの入って行くポイントのスタートラインに立ったという事。  それを見なければ、何も始まらない。

 

女は、天的な教会。それは、御言葉を行ない、主に従おうとする教会。

 

それに対して、竜、アメリカは、女を追いかけた。だから、獣の国が、正しいクリスチャンをターゲットにする時代が来る。

 

アメリカ本国は既にそうなっている。

 

クリスチャンが同性愛に反対すると、「待ってました」とばかりに、捕え、凄い額の罰金と、懲役47年などという判決が出ている。

 

まさに13節が、アメリカで起きつつある。  それを見ないと今の時代を悟れない。

 

全くの他人事と思っている人は、黙示録を読んでいない。聞いてもいない。

 

 

 

12:14しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

 

 

大わしの翼に関しては、聖書に書いてあるので、

 

 

 

出エジプト記

 

19:1エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。

 

19:2彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。

 

19:3モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。

 

19:4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 

 

 

わしの翼に乗せて、イスラエルの民を荒野に連れて来た。

 

イスラエルの民は、100万人ほどいたと書いてあるから、大きなわしが用意された。

 

ここを通して理解することは、黙示録に出て来る女が逃げる荒野というのは、明らかに出エジプトと関係している。 この女を本当に理解するつもりがあるなら、手間を惜しまずに、出エジプト記をちゃんと読んで、そのあたりを繰り返して読む時に、明確に見えて来る。

 

だから、女が荒野に逃れるという時に、特に出てこないが、暗示されている事、隠されている事は、我々が、天的な教会として歩むつもりがあるならば、「エジプト化した教会を出よ」というメッセージがある。

 

黙示録11章には、ソドムやエジプトと呼ばれる都、つまり、背教の教会の事を言っている。

 

だから、教会が、ソドム化、エジプト化するのは、未来に預言された事であり、必ず起きる事。

 

今は既に、その走りみたいなことが起きている。アメリカでは、クリスチャンの半分くらいの人が同性愛を認めている。これはソドム化。また、エジプト化というのは、この世について行くという事ではないか。そこには、御心は無い。

 

逆に荒野に出て行くという事柄に、大きなポイントがあるという事を是非見るべき。

 

出エジプト記でも、神は、「わしの翼に乗せて」と書いてある。

 

これが黙示録でも繰り返し出て来る。「女は大わしの翼に乗って来る」

 

これは何かというと、聖書は繰り返すが、喩えを理解しないと分からない。

 

大わしは聖霊の喩えではないか。

 

聖霊は、鳥とか、羽に喩えられる。

 

主がバプテスマを受けた時に、聖霊が鳩の様に下った。

 

鳩や大わしの翼とか、みな聖霊の喩えだと思う。

 

理解し、読み取らなければならない事は、我々はしかるべき3年半の迫害、艱難時代に入ったならば、荒野に入るべきであり、それがまさに聖書が語っている事であり、教えている事であり、アドバイスしている事。

 

それを理解していないと、正しい用意が出来ていない。

 

荒野は何かというと、エジプトの反対語であって、要するに、「エジプト化した、この世についた教会を出よ。」 もっとはっきり言うなら、「地下教会化せよ」という事。

 

公の教会、公の会堂とか、登録された教会には行かずに、ひっそりと集会を行なう、そういう事ではないだろうか。

 

 

 

黙示録

 

12:14しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

 

 

「自分の場所である荒野に飛んで行って」と書いてあるように、我々は、聖書にあるように心を定めるのがただしい。これから教会は、正しい、天的な教会として歩むつもりがあるならば、

 

自分の居場所というのは、荒野だという事。

 

「そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。」

 

一時と二時と半時は3年半をさす。   3年半は、繰り返し、繰り返し、言われている。

 

何故3年半をいろんな表現で言っているのか、これは間違いなく期限を守るという神様の意思表示ではないか。

 

3年半と1度言えば済むのだが、別の表現で1260日。間違えようがない。

 

3年半という事を、たくさん書いてあるのは、神の愛だと思うべき。

 

「間違いない。」という事を主は言われていると思う。

 

どんな風に表現していても、同じ。

 

42か月も3年半。

 

つまり、一日もたがわずに主は約束を果たすという事。

 

我々がもし、万一、艱難時代に入ったとしても、主は繰り返し繰り返し、同じ表現を持って、その時は、艱難は間違いなく来るけれども、3年半の期限は守る、という主の表現を思い出すべき。

 

「一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。」と書いてある。

 

神は、荒野で養われるという事に関して、我々は、信仰を持たなければならない。

 

 

 

出エジプト記

 

16:2そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

 

16:3イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

 

16:4主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。

 

 

 

16:14その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。

 

16:15イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。 

 

 

 

この荒野に入って行った時に、我々も思うだろうが、イスラエル人も同じような不安をもって

 

モーセに詰め寄った。

 

163節でイスラエル人が言っていることはあながち分からないでもないが、これは我々に対して教訓として書かれている。

 

他の聖書にも書いてあるように、世の終わりにあたっての我々に対する教訓として書かれている。 特にこれから艱難時代に入って、「荒野に女が行く」とあるように、そういう生活をしようとしているクリスチャンの教えとして書かれている。

 

実際は、我々が出エジプト記を読んで知っている様に、驚くべき事に、天からマナが降って来た。天からのマナとはパン。これを拾って食べていく事が出来た。

 

水も、荒野で湧いた。

 

我々はそこから教訓を学ばなければならない。

 

我々が例えば、大きな教団に属していて、立派な牧師も信者もたくさんいる、パイプオルガンもある。ところが、不幸にも、その教会が反キリストを拝むようになってしまったために、荒野に行く様になってしまったとか、そんな事態になった時、神は天からマナを降らして下さるという事。

 

ポイントはやはり主の言われた事に従うかが問題。

 

イスラエル人は、色々不安が出たが、とりあえずエジプトを出て、荒野へ行った。

 

だから彼らは、マナを食べる事が出来た。

 

これからの時代はこういう事を信じなければいけない。

 

出エジプト記は、過去の資料や参考文献として入っているのではなく、これから世の終わりに臨み、艱難時代に入り、荒野でクリスチャン生活を送ろうとする人々への示唆として、アドバイスとして、指針として書かれている。 まさに我々に対して書かれている。

 

ポイントは、マナを与えられたかという事。マナはあったのか。

 

レムナントは、既に長い間地下教会。

 

10年も前から、地下集会室を借りている。それ以来、ずっと地下教会暮らし。

 

しかし、マナは与えられている。最近は自分の所だけではなく、他にも分け与えている。

 

「パンの家」というブログを作った。

 

そして急きょ、マナのニュープロジェクトが始まる予定が出来た。

 

「エレミヤのワンポイントバイブル」未信者向けだが、毎回ワンポイント、聖書から語って行く。どんどん増えている。

 

あらゆる必要なマナは与えられている。 違ったパンではない。

 

「アメリカは獣の国」など、ポイントをついた必要な御言葉を与えられているし、残念だが、公の教会は背教するという、正しいマナも与えられている。

 

我々が10年程、荒野の生活を経て、地下教会を経て、言える事は、証出来る事は、神の言葉は本当。

 

かつてのイスラエル人の不安が分かる。

 

エジプトは賑やかだった。しかし、地下教会へ行き、「ちゃんとしたメッセージはあるか」、「クリスチャンとして成長できるのか」という不安は分かる。

 

でも、御言葉が正しい。

 

荒野で、主が、マナをもって養ったというのが、単に昔話というだけではなく、今に対しての預言。

 

特に黙示録12章に出て来る女。 荒野で、女が養われる事に関しての預言。

 

そういう意味では近未来。

 

今も、徐々に成就しているかも知れないが、本格的な成就はこれから。

 

レムナントは、証する事が出来る。一歩早めに地下に入ったから。

 

確かに主はマナを与えて下さるので心配することは無い。

 

とりあえず、荒野に出る。

 

 

 

黙示録

 

12:15ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。

 

12:16しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。

 

 

 

日本語では川と書いてあるが、KJVでは「洪水」

 

だから、洪水のように、大水で押し流したという事。

 

これも喩え。

 

霊的な事に関しての喩えだと理解する。

 

 

 

マタイ

 

24:37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

24:38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

24:39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

24:40そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

24:41ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 

 

ここで書いてあるのは、洪水が来るという事。

 

ただ、創世記を見て分かるように、神様は、水の洪水は二度と起こさないと誓っておられる。

 

約束のしるしとして虹を起こされた。

 

なのでこれは、H?Oの水ではない。

 

だからこれは、霊的な洪水。

 

「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」

 

これは、クリスチャン生活の喩え。 飲んだり食べたりは、御言葉のパンを食べたり、聖霊の水を飲んだりと、これはクリスチャン生活の喩え。めとったり、とついだりも、やはりクリスチャン生活の喩え。

 

「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」

 

ここでの教訓というのは、霊的な洪水が、キリスト教会にやって来るけれども、分からなかった、という事。

 

獣の国アメリカは、いろんな意味合いで、悪霊のリバイバルという点においても、まさに獣的な事をしている。

 

しかし、多くのクリスチャンは分からない。

 

レムナントは、主の憐れみにより、トロントビデオの警告をしたり、このリバイバルに関して警告もしているが、みんながみんな、分かるわけではない。

 

逆に、ペンテコステ、カリスマ系の人は、怒っていたりする。

 

だから、ここに書いてあるのは事実。

 

「そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」

 

だから、恐ろしい事は、洪水にさらわれていても分からないという事。

 

「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」

 

洪水に、1人は取られ、1人は残されるという事。

 

「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」

 

臼は、クリスチャンに関しての喩え。

 

つまり、クリスチャンの1人は残され、1人は取られるという事。

 

聖書は、明言はしないが、繰り返し、喩えを通し、奥義を通して、洪水がやって来るという事を繰り返し繰り返し、警告している。

 

これを読み、悟り、理解し、警告を受ける人は幸い。

 

まさに、黙示録で言う、この預言の言葉を朗読(読む)し、聞く者は幸い。

 

残念ながら聞く人は少ない。

 

しかし、聞く人は幸い。

 

 

 

黙示録

 

12:15ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。

 

 

 

天的な教会に対しても、悪霊のリバイバル、洪水は来るという事。

 

でも幸い荒野に逃げた女に対しては、「地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。」

 

牧師はかつて、カリスマ派の教会に何年も在籍していた。だからベニーヒンだとか、ロドニーハワードだとか、またいろいろな人の器の集会に行ったことがある。

 

しかし、主の憐れみで、その教会から出て、荒野(地下教会)に入るようになってからは、そのようなリバイバルとは全く無縁になった。

 

なので、黙示録の今の箇所の様に、そういった、悪霊の水が来ない。途中で消えてしまう。

 

具体的には、そういうリバイバル集会に行かなくなったという事。

 

逆に、背教の教会に留まる人は、逆にこういう洪水で溺れてしまう。

 

つまり、取られてしまう。惑わしに入ってしまう。

 

惑わしのリバイバルに入ると、そのクリスチャンの全てに影響を与える。

 

そういう霊に触れる人は、そのクリスチャン生活のあらゆる面に影響を与える。

 

霊にはすごい力がある。

 

そう言った洪水に引っ張られる人は災いに入る。

 

 

 

12:17すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。

 

 

 

竜はしつこい。

 

竜は、獣の国アメリカ。

 

これからアメリカはどんどん正体を現して来る。 近未来に関して言っている。

 

アメリカの政策は、見る目を持って見れば、明らかに歪。

 

同性愛者・・・ホモ、レズに関しては、異様に寛容。

 

それに反対するクリスチャンに対しては憎しみの限り。

 

逮捕し、懲役47年・・・明らかに異常。

 

ポイントは、どんなクリスチャンに対しても竜は怒るわけではない。

 

しかし、「女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして」と、書いてある通り、サタンがターゲットとするのは、「イエスのあかしを保っている者」

 

「イエス・キリストこそ救い主だ」という事をそれこそ周りのクリスチャンが背教したとしても保っている者たち。 そういった人達は狙われる。

 

サタンは、誰が永遠のいのちを得るのかを分かっている。だから的確に来る。

 

しかし、それでも引いてしまってはならない。

 

聖書にあるように、「信仰の良き戦いを戦って、永遠のいのちを獲得」しなければならない。

 

サタンなんかはもう見えている。寿命が近い。  クリスチャンは、永遠のいのちを得る。

 

「神の戒めを守る人達」とあるから、そういった人たちが、これからアメリカのターゲットになる。  だから覚悟をしなければならない。

 

そういう意味で我々は、戦うべき時に戦って、永遠のいのちを得るべき時に引いてしまってはならない。  まさに我々のクリスチャン生活の真骨頂、まさに戦いの時が来ようとしているので、この事は見て行きたい。

 

 

 

12:18そして、彼は海べの砂の上に立った。

 

 

 

この箇所は、KJVでは、13章の1節にこれが書いてある。

 

「ヨハネは、砂の上に立った」とKJVでは書いてある。

 

しかも、次の章の1節目。

 

こちらの方が正しいと思う。

 

だから、黙示録12章の最後の節というのは、本当は、13章のはじめに持って行くものを、新改訳は、いろいろ、ちょこちょこと、インチキな事をやるから、この箇所でもそれをやっている可能性がある。 だからこの箇所は次の章の初めに持って行くべき。もう1つは、「ヨハネが、砂の上に立った」という事。

 

これは何を言っているのかというと、13章は、1節で何故砂の上に立ったと書いてあるか。

 

黙示録13章は、砂に関しての事を書いてある。

 

砂は、群衆の歩み。そして「地」

 

黙示録12章は女、天的な教会に関して書いてある。

 

だから、黙示録12章は、天的な事しか書いていない。

 

太陽を着て、月を足の下とか、頭に12の星とか、天的な事しかない。

 

これは天的なクリスチャンの生涯に関しての説明が、黙示録12章。

 

13章は、対比的に、砂、地の砂に関して書かれている。

 

喩えを理解しないと黙示録は何も分からない。

 

黙示録13章は、あらゆる教会に起きて来る災いとか、反キリストのしるしとか666の印とか、

 

反キリストを拝むとか、拝まないものはみな殺されるとかが書いてある。

 

これは全て砂に関しての事だと聖書は語っている。

 

だから、突然砂が出て来る。

 

砂は地であり、地につく教会。

 

この世についたクリスチャン、この世についた教会に、災いが来るぞと書いてあるのが13章。

 

なので、そのあたりを読まないと、読み取れない。読んでいない。

 

これが、大事なポイント。

 

ちょこっと抜けているが騙されてはいけない。

 

12章と13章は、教会の運命が全く変わる。

 

12章は、女は3年半神によって養われるというのが、メインのメッセージ。

 

しかし13章の教会は、地につく教会、群衆の歩みであり、この世につく教会なので、反キリストを拝んだり、拝まないものは殺されたり、背教してしまったりとか、とんでもない事になる。 元々の聖書にはそういった区分がある。

 

でも改ざんされたり、変な手が加わっている聖書はそこを読み取れないが、主の知恵と方法によって見て行きたいと思う。