ヨハネの黙示録14章11~16 2016.7.3
14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
酷と言えば酷。 しかし、書いてある通りになる。
だから、「獣とその像を拝む事」「獣の名の刻印を受ける」この二つの選択だけは絶対にとってはいけない。
そういう意味で、黙示録は、そんなに複雑な事は書いていない。
獣の印を押されるか、神の印を押されるか。
惑わされない事。
14:12神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
だから、忍耐が必要とされる時が、これから来る。
忍耐は、やがて益になる。
今は、忍耐を訓練すべき時。
ルカ
21:12しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
キリスト教会には、残念ながら、インチキな教えや、人を迷わすような教えが入っている。
その最たるものは「艱難前携挙説」
しかし、永遠のいのちを得るつもりならば、必ず艱難を通る。
他人事ではない。
「あなたがたを捕えて迫害し」・・・これは、アメリカですでに起きつつある。
正しいクリスチャンが、同性愛に反対し、当局に捕まったりしている。
いずれ、アメリカによる世界支配が始まれば、我々にも(日本にも)同じ事が襲って来る。
例外は無い。
「全世界の迫害の時・・・試練の時」と書いてあるから、間違いなく日本にも来る。
その時、どの様にすべきかという考えをもって、用意して行くのが正しい。
「正しく歩むなら」、艱難は来る。
逮捕や投獄に対しても忍耐できるかが問題。 これは聖書に書いてある事なので「想定内」。
21:19あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
これからは、忍耐を要求される時代に入る。
21:13それはあなたがたのあかしをする機会となります。
21:14それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
21:15どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
これは、捕まったり、裁判を受ける事が前提の言葉。
決して「艱難前携挙説」なるものに騙されてはいけない。
アメリカには、正しいクリスチャンを罠にかける法律がある。
クリスチャンの夫婦がやっているケーキ屋に、同性愛のカップルがやって来て、「同性婚をするからウェディングケーキを焼いてくれ」と言われ、夫婦が、「我々はクリスチャンなのでそれは出来ない」と言ったら、罰金刑を科せられた(1000万円くらい)。
他人事と思ってはいけない。
21:16しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、
とある。 これもまた、他人事ではない。
たとえ今想像出来なくても、そういう時が必ず来る。
第一、アメリカの勢いを見ていると、そういう時は来そうだと感じる。
正しいクリスチャンが、色々非難されている。
聖書を学校に持って来るだけでも非難される。
キリストの名の故に逮捕されるという現実がすでにある!
結果、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られ、「あなたのようなカルトはダメ」とか言われる。
また、これには喩えの意味合いがある。
「信仰」の父、母、兄弟から裏切られることが有り得る。クリスチャンが変質して行く。
すでに、変質しつつある。
キリスト教のニュースなどを見ていくと、牧師や神父が、御言葉に反して、次々と同性愛を受け入れている。
我々が聖書に基づいて、「同性愛は受け入れない」と言ったら、そういう人たちに裏切られる可能性がある。 「聖書に頑固に従って、変な事を言っている」また、「変なクリスチャンをおれは知っているぞ。住所も名前も」など。
これからは、未信者ばかりではなく、クリスチャンも信用できなくなる時代に入る。
問題は、そういう目に遭った時に、自分の信仰の両親(牧師夫妻だったり)、からも裏切られたり、カルト扱いされたりする。
実際、「同性愛は聖書的に言って正しい」という牧師、神父が沢山いるのだから。
そういう人たちは、平気で裏切る。そのうち、キリストの名すら否定するようになる。
その様な目に遭った時、どうするのか、という事。
そういう事を前もって、我々は忍耐強く心づもりするのかという事。
「忍耐」とは、そういう事を言っている。
それでも耐えて行くか、という事。
レムナントの牧師は、前に通っていた教会で、そういう目に遭った。
その時はつらかったが、今思うと良かったと。
だから、クールな人生観を持っている。
そこの教会の牧師にもカルト扱いされ、兄弟姉妹からも距離を置かれた。
しかし、「そんなもんだ」とめげずに3年半、その教会に行き続けた。
人間的にはつらい経験だが、この御言葉を経験する意味では良かった。
それでも何とか、主のもとに留まることが出来た。
19節の「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」
こう言う事を経過して、忍耐を持って耐えたら、「永遠のいのち」を獲得できる。
サタンもかなりギリギリな所まで来る。
サタンのそういった攻撃などが許される時代。
残念ながらクリスチャンの間でも、「人間なんだ」と思って歩むしかない。
この程度まで聖書に書かれているならば、「この程度」の事が起きる事が有り得るという事。
だから、「想定内」 どこの国であっても有り得る。
アメリカで起きて来る事は、やがて日本でも起きて来るという、前もって神様が見せてくれている1つの前触れではないかと思う。
今、アメリカで正しいクリスチャンが迫害を受けているというのは、いずれ日本にも起きて来ると思うが、その時に対する備えをして行くのが大事。
黙示録
14:13また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」
このように書いてあるという事は、全員ではないにしろ、艱難や迫害の中で、獣の印、または、
反キリストの支配の中で、殉教も起こり得るという事。
そうとしか理解できない。
その通り、書かれている様に理解する。
マタイ
10:28からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
永遠のいのちを得るという事柄に関しては、やはりその門は狭いし、道も狭い。
それを見出すのも稀。
なので、場合によっては、一般的に聖書の言葉がどう言っているかは、学んで行かなければならないので、知らなければいけない事は、肉体の命をもとに、サタンが脅して来るというのはまさに、終末にあり得る。
その時我々が、どの様に対応するか。
反キリストを拝まず、獣の像を拝まないなら「お前のいのちを奪う」とか言われた場合、各自で決める事柄。
1つは、肉体のいのちの事で、脅かされてしまって、永遠のいのちを失うという事は、むなしい。結論は、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
という事。
確かにサタンが、肉体の死に関して、「恐れ」を持って来るという事は、明らかに事実。
この様な時、自分はどうするか? この事をどこかで考えなければいけない。
そして「霊」になった時、神の御前で本当に、「自分はどうなのか」を問われるので、恐いのはその後。
マタイ
16:24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
もし、極端な選択に直面した場合、選択肢は1つしかない。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
肉体のいのちにいつまでも優先して永遠のいのちを失うというのは、どう見ても「損」。
また悪魔が、持って来る手段であり、我々は、こう言った事は経験したことは無いので、必要な備えの出来るように求めて行きたい。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
これは、永遠のいのち。
だから、永遠のいのちが最も大事なので、我々のクリスチャン人生は、それを目標にしているので、この辺りをサタンが、色々惑わしてくるので、引っかかることの無いように。
クリスチャンを惑わす1つのパターンがある。
「しかりはしかり、否は否」としないと、危ない。
決して誓ってはいけないという言葉もある。
天を指しても誓ってはいけない。地を指しても誓ってはいけない。
どうも、反キリストに関しての誓いに見える。
「決して誓ってはいけない」というのは意味合いがある。
誓った事は「選択」になってしまう。
後で引き返せない可能性があるので、そういう選択肢を持たない。
サタンは色々言って来る。
残念ながら、そういう事を考えなければならない時代に我々は入りつつあるので、こういった事も正しく理解して行かなければならない。
黙示録
14:14また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
14:15すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
14:16そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
ここで理解しなければならないのは、「白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。」
この方は、間違いなくイエス・キリスト。
これは、再臨について書いてある。
黙示録に関しては、黙示録の1つの特徴は、あらゆる謎とか、神の知恵によって、色々複雑な
方法、書き方で書いてあるので、正直、一読してもさっぱりわからない事が掻いてあるが、1つは、理解が正しければ、「同じ事が何度も書いてある。」
キリストの再臨に関しても、この箇所や、他の箇所にも出て来ると思う。
しかし、キリストの再臨は、1度しかない。
それを繰り返し繰り返し表現しているのが、黙示録の特徴。
旧約聖書の中に、そのパターンがある。
ヨセフの夢の時、夢が繰り返されているところ。
最初は越えた牛が出てきたが、その後醜い牛が出て来た事。
最初は太った麦が出て来て、その次に醜い麦の穂が出て来た。
麦と牛の事が出て来たから、2種類ではなく、同じ夢だった。
それは速やかに来るという事。
黙示録の中では、同じ事が何度も語られている。
再臨に関しても同じように語られている。
これは、聖書の1つの特徴。
そしてそれは、速やかに実現するから。
繰り返すが、雲に乗っておられる人の子のような方は、明らかに再臨のキリスト。
再臨に関しては、黙示録の他の箇所で出て来るので、それを見たい。
1:7見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
これは、先ほどの、黙示録14章を理解するのに、この箇所は助けになる。
1つはここ1章7節でも、明らかに、イエス・キリストの再臨の事が書かれている。
同じように14章でも、「その雲に人の子のような方が乗っておられた。」と
書いてあるが、これも再臨の事を書いてある。
キリストの再臨に関して、クリスチャンの表現としては、花婿と花嫁の婚姻の時として素晴らしいのだが、聖書的に言うなら、我々は両面を見なければならない。
何故なら、花嫁に関しても、賢いおとめと愚かなおとめが出て来る。
結婚式というのは、どんな女性にとっても幸せなことであるが、あろうことか、花婿に、「あなた達を知らない」と言われたら、これは悲劇。
聖書的には、クリスチャンの全ての人に悲劇ではないが、賢いおとめにとっては、婚姻、祝福の時。
愚かなおとめにとっては、婚姻の時ではなく、悲劇の時になってしまう。
キリストの再臨には、二面性がある事を知らねばならない。
黙示録1章7節を見ても分かるように、明らかにこれは悲劇になっている。
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 」
こう言う面は、聖書に書かれている通りに見て行かなければならない。
自分の思惑、思い込みだけで読んでいると、全然違うことになる。
間違った教理を見て来たに過ぎない。
だから、耳触りが良くないのは確かだが、「すべての目、ことに彼を突き刺した者たち」とある。 これには喩えが使われている。
突き刺すのは剣。なので御言葉に対して、色々攻撃を加えたりする。
「地獄は無い」、「同性愛は聖書的に正しい」だとか、そういう人達にとっては、キリストの再臨は悲劇となって、裁きの時、罰を受ける時となる。
「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。」
なぜ種族がダメかというと、「地上」つまり、各教団、教派。
地についた、この世の論理を振りかざしているような人々にも再臨の時、悲劇となる。
「こんな風にキリストの再臨が来るなんて、想定外だ」と、悲劇になる。
14:15すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
「地の穀物は実った」と書いてあるけれども、下の方に注釈がある。
「収穫は乾いた」とある。 意味合いは「乾ききった」
ヨハネ
15:6だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
「枯れます」という意味合い。
だから、言っている事は逆。 穀物は実っているのではなく、枯れている。
黙示録での「乾ききった」。 これは明らかに「枯れている」状態。
つまり、水が無くなって「枯れた」と言っている。
新改訳の訳語は、不適切。
この黙示録で言っている、その穀物は、地から刈り取られる。
「地」の穀物。 「地」が問題。
黙示録の1章7節で、「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。」と書いてあるように、「地の作物」なので、この地上の教えとか、この「地」の考え、それで育ったクリスチャンは、枯れてしまい、キリストの再臨が災いになるという事が書かれている。
暗示されている未来は、ヨハネによる福音書15章6節にある、「寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
これが、黙示録に書かれている「地の穀物」が刈り取られた後にたどる暗示された運命。
穀物が刈り取られて火に投げ込まれている。
「枯れる」という意味合いは、「水が無くなる」という意味。
喩えの意味合いは、聖霊が失せるという事。 それが、枯れる事。
聖霊を失ったクリスチャンは、火に投げ込まれて燃えてしまうという事。
これが、ヨハネによる福音書15章で書いてある、「葡萄の枝」に関しての御言葉であり、黙示録の言葉が意味している事を暗示している。
マタイ
13:38畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
教会の中では、良い麦も、毒麦も一緒に育つ。
しかも喩えの前の方では、「毒麦を抜き集めましょうか」と言ったが、「いや、両方とも育つままにしておきなさい。そうでないと良い麦までぬいてしまうかも知れないから」と書いてあるように、教会というのは、世の終わりまで、良い麦と毒麦が共存する。
だから、明確には分けられない。
どの教団が、良い麦か毒麦かを分けられない。
どの教団の中にも良い麦はいる。
世の終わりになったら、刈り入れが来る。
毒麦がまさに、「枯れた枝は、集められて火で焼かれる」という事が起きる。
13:39毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
黙示録の「鋭いかま」で刈り取ったという事が、実現していく。
「毒麦が刈り取られた」という事が、これに相当する。
そして、
13:40ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
この言葉が成就するのが、黙示録の14章。
毒麦は何かというと、「つまずきを与える者や不法を行なう者たち」を神の御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込む。
具体的に言うと、「教会の中から集める」という事。
今は、どのクリスチャンも、毒麦も良い麦も同じように育つかも知れないが、刈り入れの時、徹底した区分が成される。
「つまずきを与える者や不法を行なう者たち」とあるから、色々御言葉で躓かせる者や(最たるものは艱難前携挙説)、「地獄は無い」とか、いろいろ言ってクリスチャンを躓かせ、滅びに行かせるような人達は、毒麦として火で焼かれるようになってしまう。
また、「不法を行なう者」。 御言葉と違うような事、「同性愛は聖書的に正しい」などと言っている人達もそうだと思うが、やはり取り分けられて火で焼かれるようになる。
そういう時が来る。
だから、我々が今、どの様に御言葉に正しく歩んでいるか。
今は、大した区分が無いばかりか、逆に、正しい人は増々アメリカを始めとして、御言葉に正しく立ち、従って行こうとする人たちは、肩身が狭くなるが、キリストの再臨の時に逆転する。その時に毒麦が集められ、かまで刈り取られて、火で焼かれてしまう。すなわち滅びに入る。それを恐れて行かなければならない。
今は、ちょっと人から悪口を言われたり、場合によっては逮捕されたりなどするが、人の事を恐れている場合ではない。
我々は、どこかで度胸を決めなければならない。
艱難時代は、長くても3年半。
火の地獄に永遠に入れられる事に比べれば、何でもない。
目先の事で騙されてはいけない。
レムナントキリスト教会
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