ヨハネの黙示録14章1~3          2016.6.5

 

 

 

14:1また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

 

 

 

ここで、144000人の人々が出て来る。

 

この人々は、どういう人々なのか。

 

1つは、他の研究者もいう事だが、144000人の人々は、ここに出て来るが、もう1か所出て来る。

 

 

 

7:4それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

 

 

 

黙示録7章の144000人と、14章の144000人は、別の人々だと言われている。

 

そう言われている理由は、「12部族」と書いてあるから。

 

14章の方は、結論だけ言うと、新約的なので、違うのではないかと言われている。

 

144000人の人々は、14章を見ていると、殉教、復活する人々だと思われる。

 

同じような人々が、黙示録11章にも出て来る。

 

 

 

11:3それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

 

11:4彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

 

 

 

ふたりの証人は、明らかに殉教をする。

 

 

 

11:7そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。

 

 

 

11:11しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。

 

 

 

この二人は艱難時代の終わりに復活して来る。

 

だから、殉教と復活を経験する。

 

141節の144000人も、殉教と復活を経験すると理解出来る。

 

そうすると、このふたりの証人も、この二つの144000人の事だと思われる。

 

1つは、新約のクリスチャンで、異邦人。

 

もう1つは、イスラエル12部族から。

 

聖書は、世の終わりの時に、明らかに殉教と復活が起きると語っている。

 

この事は、正しく理解しておく。

 

終末に出て来る2つの144000人、また、11章に出て来る、ふたりの預言者というのは、イエス・キリストの歩みとシンクロナイズしている。

 

具体的には、イエス様は、旧約の時代の終わりに、神の民に宣教し、その中で艱難を受け、最終的には、十字架で殉教された。

 

言葉のゆえに殉教するが、しかし3日目には復活をする。

 

ふたりの預言者も同じような歩みをする。

 

新約の終わりに、3年半(42ヶ月)の間、宣教を行ない、その後殉教して、しかしまた復活をする。

 

牧師の理解だと、これは2つの144000人であり、具体的に言うと、イスラエル12部族の144000人であり、一方では、クリスチャンの144000人であると理解出来る。

 

 

 

14:1また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

 

 

 

この人たちは殉教する者と思われるが、この人たちの特徴は、第一の復活に与り、幸いなものとして、この人たちの歩みに大きなポイントがある。

 

世の終わりの時に、模範的な歩みをして行く人達なので、そこから我々はどの様に歩むべきか、

 

ここから学んで行きたい。

 

神の前に最も正しい歩みをして行く人々が、ここにある144000人と思われる。

 

一節が書いてある事は、「その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」という事。

 

はっきりと額に印を押されている。具体的には聖霊を受けている事と思われる。

 

逆に、獣の印を受けるのは、獣の霊を受ける事だと理解出来る。

 

理解に間違いが無ければ、霊的な事柄と大いに関係して来る。

 

世の終わりには、聖霊の働きのように見せかけながら、その実、サタンが惑わしているので、我々がどのような霊を受け、どの様な霊に従って歩むかという事が、大きな区分をもたらすので、正しく聖霊に従い、我々の額に、「小羊の名と、小羊の父の名」、はっきりと聖霊の印が押されるという、そこにポイントがある。

 

要は聖霊を正しく受ける、聖霊に従って歩んで行き、別の霊に従って歩んだりしない。

 

そこが、世の終わりの時に、神の御国に入って行く大きなポイントになる。

 

一節には、「小羊がシオンの山の上に立っていた。」とある。

 

シオンはエルサレムの事。

 

シオンという事に関して旧約聖書の引用を見たい。

 

 

 

ヨエル書

 

2:32しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。

 

 

 

シオンが、ここに出て来る。

 

 

 

2:30わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。

 

2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

 

2:32しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。

 

 

 

この様な時に、この様な災い(月は血に変わる、など)を、逃れるために行く所がシオンの山。

 

なので、災いは、「天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。」という事。

 

これはみな霊的な事柄。だから、惑わしの霊が、明らかに、世の終わりの時に大いに働いて来る。

 

「主の大いなる恐るべき日が来る前に、」と書いてあるように、これは、「主の日」

 

そういう日が世の終わりにやって来るという事が、明らかに聖書が語っている事なので、こういった事は見たい。

 

主の日の一つの型は、西暦70年の時に、イエス・キリストを十字架につけたエルサレムに、

 

ローマによる災いが来て、エルサレムの住民は、最後の1人まで殺されてしまった。

 

文字通り。

 

これが、旧約聖書における、主の日の実現。

 

そしてこれは、再現する。 何故ならこれは、新約の終わり、黙示録の時代に主の日が来ると、明らかに書かれているので、我々は理解しなければならない。

 

シオンの山という事に関連して、「主の日が来る。」

 

シオンの山に逃れる人達というのは、主の日の災いから逃れて行くという事。

 

具体的には、エルサレムが、西暦70年に攻撃された時に関して、主が言われた。

 

「山へ逃げよ」と。

 

際に山へ逃げた人達は、ローマの攻撃から救われた。

 

なので、「シオンの山」という時の意味合いは、明らかに、イエス・キリストの時もそうであったが、多くの神の民に対しての、裁き、滅びがやって来る、それに関連して、例外的にシオンの山へ逃れて行けと言っている。

 

今のキリスト教会の常識に従って行くなら、決して、主の日の裁きを逃れる事は出来ないと思う。

 

多くの教会が、同性愛を受け入れている。 洗脳され、ソドム化が進んでいる。

 

明らかに滅びに向かっている。

 

しかし、例外的にシオンの山に逃れて行くというのが、まさにここで書かれているメッセージ。

 

「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」

 

太陽は星であるクリスチャンの中の大きな星。つまり、すごい器。

 

世界的な器とか、偉人とか、聖徒など。 そういう人も闇に変わり、罪の中に入って行く。

 

同性愛を受け入れて行ったり、「月は血に変わる」 血は霊的な事だから、惑わしの霊でやられて行くという事。 これは、滅びに入る事柄。

 

「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。」

 

これらの人々は、正しく最後までキリストの名を呼び続けて、例外的にシオンの山へ逃れる。

 

他の人々は滅びに入るが、例外的に滅びを免れるという事が、「シオン」という言葉に関連して、語られているメッセージ。

 

 

 

イザヤ書

 

28:14それゆえ、あざける者たち――エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。

 

28:15あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

 

28:16だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

 

28:17わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

 

28:18あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。

 

28:19それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」

 

 

 

1つは、例外的な人々について書いてある。

 

もう1つは、まやかしを避け所とする人たち。

 

2種類の人々がいる。

 

我々は、黙示録14章で、シオンという事をいった時に、こう言う事柄を、前提にして言われているように理解出来る。

 

何故なら聖書は、私的解釈(そのテキストのみからの解釈)ではなく、他の箇所も引用して正しい解釈が出来る。

 

シオンの人々とは、まやかしの人々とは違う。

 

世の終わりの時は、まやかしの人々とか、偽りを頼みにしている人々が、皆滅びる時。

 

イエス様の初降臨の時に、パリサイ人も律法学者も、まやかしとか、聖書はあるのに、聖書を色々改ざんしたり、おかしな教理を掲げながら、「自分たちは大丈夫だ」などと言ったが、それらの教理は、その日(主の日)には何の頼りにもならなかった。

 

西暦70年は、旧約における主の日まさにその日。

 

その日には、何の頼りにもならなかった。

 

一生懸命、安息日には神を礼拝していたし、聖書の教えを聞いていた筈だけれども、その律法学者やパリサイ人を先頭にして、エルサレムにおいては、誰一人滅びを免れる人はいなかった。

 

これは、再現する。

 

まやかしを避け所としている人々は、再度、終末の主の日に「滅びる」という事が前提。

 

しかし、シオンで正しく、隅のかしら石であるイエス・キリストを土台として歩んでいる人は、

 

例外的に助かるという事が、まさにシオンという言葉を通して語られているメッセージの一つ。

 

 

 

28:14それゆえ、あざける者たち――エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。

 

 

 

そういう言葉に基づくなら、神の言葉をリードしたり、監督したり、牧会したりする。

 

昔の律法学者、パリサイ人、祭司など。

 

現代では、牧師、神学者など。

 

 

 

28:15あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

 

 

 

「よみ」とは、地獄の事。   死とか地獄に対して契約を結んでいる。

 

「何が何でも、クリスチャンと名がつけば、どんなに悪い事をしていても、地獄、滅びに入ることは無い。」と言っている。

 

しかし、それはまやかし。  「まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

 

聖書が語っている真理の教えではなく、教理を曲げて、自分にとって都合のいいような方向にもってきている教え。

 

ローマカトリックでは、「地獄は無い」と言っている。それは偽り。

 

「雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。」

 

地獄には絶対に入ることは無いという同盟は成り立たないと言っている。

 

注解書がどう言おうとこう言おうと、その日には決して成り立たないという事が分かる。

 

あらゆるインチキの教えとか同盟は成り立たない。

 

入るべき人はみな入って行く。

 

具体的には、どんなクリスチャンでも、行いが正しくない人々は、地獄、滅びに入って行く。

 

「絶対に入らない」という、都合のよい同盟は成り立たない。

 

神は正しく裁く。

 

「にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」

 

だから、神を恐れなければならない。  これは自己責任。

 

 

 

28:16だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

 

 

 

これから、宮が崩壊し、教会の土台が崩壊する。

 

土台石も、かしら石も、みな取り除かれる。

 

土台石とは、使徒や預言者の教えであり、隅のかしら石であるイエス・キリスト。

 

そういう人たちは、キリストの教えを違うと言ったら、教会は成り立たない。

 

しかし、例外的に我々が、かしら石(礎石)に頼る人は、慌てることは無いという事。

 

「堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」

 

キリストを土台にし、この言葉を基本として正しく歩んでいる人は、たとえ混乱の時代に入ったとしても、慌てることは無い。

 

全ては書かれたようになる。

 

右往左往するのは、ろくに信じていない人。

 

「同性愛は問題ない」などと言っている人達は、まともに御言葉を信じていないし、「隅のかしら石」に、頼っていない。

 

しかし、御言葉を堅く信じて歩むなら、たとえ艱難時代になろうとも、信仰的にグラつくことは無い。

 

グラつく人は、御言葉から離れてしまう人。

 

なので、正しく留まる事にポイントがある。

 

 

 

黙示録

 

14:2私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。

 

 

 

「大水の音のよう」と書いてある。

 

 

 

詩編

 

93:3主よ。川は、声をあげました。川は、叫び声をあげました。川は、とどろく声をあげています。

 

93:4大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます。

 

93:5あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。

 

 

 

ここで書いてある事は、色々、水が人を脅かす。  良い意味では書いていない。

 

水は明らかに霊的な事柄に関しての事柄。

 

黙示録の14章で「大水」という言葉が出て来るように、世の終わりの時は、大水・・・霊的な惑わしが出て来る。しるしや奇跡など。

 

「いと高き所にいます主は、力強くあられます。」とあるので、惑わされて行ってはいけないというのが一つの教え。「留まる」という事。

 

142節で、「激しい雷鳴のようであった。」と書いてある。

 

この事柄を見て行きたい。

 

 

 

出エジプト記

 

19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

 

 

 

なぜ黙示録の中で雷の事が出て来るかというと、まさにシナイ山で、神が、律法、十戒、契約の石とか、律法を与えられるという時。

 

 

 

19:10主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。

 

19:11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

 

 

 

これは型でもある。

 

三日目というのは、イエス・キリストが来られてからの、3回目のミレニアム。

 

今がまさにそう。

 

ここで、主が降りて来られる。 これは再臨の事。

 

再臨という事に関して、我々は自分の思惑や思い込みで物事を見てはいけない。

 

聖書の語っている再臨に関して理解をしなければならない。

 

再臨に関してのメッセージは、ここに書いてあるように、キリストは、正しく御言葉を行なっている人達にとっては恵みだが、そうでない人達にとっては災いとして、裁きとして来られる。

 

このポイントは見ておきたい。

 

三日目は、再臨の型。

 

 

 

19:15モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

 

19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

 

 

 

15節に、「女に近づいてはならない」と書いてあるが、これは象徴的な言葉。

 

黙示録14節にある、144000人も、女に近づいていない。

 

「彼らは童貞である」

 

女は教会の喩え。144000人は、背教の教会に触れてはいないという事。

 

まさに「女に近づいてはならない」というのは、喩えの意味合いがある。

 

背教の教会に近づく者は、神の怒りを引き起こすという事。

 

出エジプト記19章の16節で「山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。」と書かれている。

 

キリストの再臨というのは、こういう事。

 

その様に我々が捉えるなら、正しい。

 

 

 

19:18シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

 

 

 

20:1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。

 

20:2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 

20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 

20:4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

20:5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 

 

ここでは神が降りて来られ、律法が与えられた。

 

イエス・キリストが三日目(3つ目のミレニアム)で、再臨する時に、これらの律法と無関係ではない。

 

律法を守る者は主によって聖別され、守らない者は、キリストが三日目に下ってきた時に、災いに遭う。

 

ここでは、「偶像の神を拝んではいけない」と言うが、ここでも喩えの意味合いを通して語られている。

 

我々が器崇拝になつてしまい、ベニーヒンだとか、人間の器を尊重し、御言葉から離れてしまう時、これは偶像崇拝になってしまう。

 

アメリカがまさにそう。

 

カトリックの70%異常が、同性愛を容認している。

 

それは、神のことばより、偶像、人間の器のいう事を優先してしまっているから。

 

これは、災いに遭う。

 

「雷」という言葉の中に、この事が再現されるという事が暗示されている。

 

イエス・キリストの来臨というのは、裁きの為に来られるので、正しく行なっているなら良し、

 

そうでない場合は、災いに遭ってしまう。

 

この事は覚えておく。

 

 

 

黙示録

 

14:3彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

 

 

 

御座、生き物、長老。

 

 

 

4:2たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、

 

4:3その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。

 

4:4また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

 

 

 

4:6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

 

 

 

この4章の、御座、長老、生き物がまさに14章に出て来る、御座。

 

ここで書かれている「御座」は、明らかに神が座っておられる場所。

 

生きている人は行かない。 殉教や復活した人々は行く。

 

だからこの144000人は、明らかに、殉教、復活した人々だと思う。

 

「彼らは、神に捧げられた初穂」だと書かれている。

 

イエス・キリストが復活して、いのちを捧げ、そしてその後復活したのが、まさに初穂。

 

明らかに聖書は、世の終わりは、キリストの初降臨の時の再現のような形で来ると語っている。

 

イエス・キリストの初降臨の時はやはり、イエス・キリストご自身が、メシヤとして3年半の宣教の後、十字架にかかって命を捧げられたが、甦って、復活して昇天したのと同じ様に、やはり、世の終わりの時にも、その様な小羊の様に、殉教して捧げる人達がいる。

 

しかし、大事なポイントは、三日半の後に甦る。3年半であり、42ヶ月。

 

3日半の艱難時代の終わった後、甦って来るという事。

 

こういった事柄は見て行きたい。