ヨハネの黙示録18章4節~6節 2016.12.18
18:4それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。
「この女」とは何か。 バビロンの事。
啓示と解き明かしがあるように思える。
終末に現れて来る獣の国。我々はそれをアメリカであると理解している。
ヨーロッパ、EUだとは思っていない。
獣の国は、7つの頭と10本の角だと考えているが、国としては1つ。 単数形。
「ヨーロッパ共同体」などと言う人がいるが、あれは1つの国ではない。
これらの理解を押し付けるつもりはないが、1つ1つ提示して行かないと、何も解らない。
バビロンについて。
バビロンに関しては、ぴたりと合っているかは分からないが、我々の理解では、アメリカのキリスト教会こそ、バビロンであろうと思う。
1つは、黙示録に書いてあるバビロンとは、「教会」と関係がある。
「ぶどう酒の杯」と書いてあるが、これは、聖餐式のぶどう酒。 その事を示している。
色々なあらゆる特徴は、教会と関係する。
そういう意味では背教の教会、これに関して言えば、どこかのキリスト教会だが、我々の理解ではこれはアメリカのキリスト教会だと思っている。
その理由の1つは、「女は獣に乗っている」という表現があるから。
獣は、国としてのアメリカだが、国としてのアメリカと、「女」
教会とは不可分の関係にある。
100%これが合っているかは解らないが、提示して行かないと何も解らない。
とりあえず、こういった理解、解釈を進めて行きたい。
今回の箇所で、新改訳では、「わが民よ。この女から離れなさい。」とある。
しかし、KJVでは、「この女から出て来なさい」
意味合いが大分変わって来る。
「この女から出て来なさい」という事を聖書が語っている時に、大事な意味合いがあったりする。何を言っているかと言うと、出て来るという事は、神の民も含めて、バビロンの中に組み込まれてしまっているという事を前提として語っている。
大事な箇所において、新改訳は、ずれていたり、微妙に違う訳だったりする。
なので、新改訳がKJVと訳が違う場合、迷わずKJVを採用している。
どの様なクリスチャンも、この世についたいい加減なクリスチャンも、神に真剣に仕えているクリスチャンも、忠実な民であろうと、不忠実な民であろうと、良くも悪くもみんな、世の終わりの時には、バビロンの中に入ってしまうという、前提がある。
神によって、「我が民よ」と言われるのだから、御心に適った民であろうとも、そうでない民であろうとも、バビロンの中に入っている。
この事を理解しなければならない。
旧約の終わりにも、ユダの民は、皆、王族も、庶民も、貴族も含めて、根こそぎバビロンに捕囚されたが、同じ意味合いで、歴史は繰り返し、今の時代、神の前に王であろうと貴族であろうと、世の終わりになるとバビロン化してしまうという、この事を語っている。
「出て来なさい」というKJVが正しいと思うが、その時すでに、神の民は、良い民も悪い民も皆、バビロン捕囚されているという事が前提であるという事を理解しなければならない。
そうでないと終末は理解できない。
この事は、実際のキリスト教会を反映している。
かつて、レムナントの牧師自身も、ホーリネスの教会に行っていたが、「艱難前携挙説」が語られていた。見事に、バビロンの教理である「艱難前」を信じていた過去がある。
教理と言い、霊と言い、我々、今の時代のクリスチャンは、聖書が前提の様に、言っている事を理解しなければならない。
教会のバビロン化は、今の時代においては特殊な事ではない。
「クリスチャン」と名がつけば、誰でも彼でも皆、バビロンの影響の下にいる。
それを前提に考えなければならない。
教理的にも、アメリカ・バビロンの教理の影響を受けている。
「クリスチャンと名がつけば、何をしても地獄に行くことは無い」とか言って信じているが、それは聖書から来た教えではない。
また、今は、日本のキリスト教会でも、キリスト教関係の主要な雑誌や新聞にも、ベニーヒン、
ピーターワグナーとか、我々から見れば悪霊のリバイバルを扇動する人たちの事が、載っている。
これは何かというと、今のキリスト教会はバビロン化しているという事。
それが普通になってしまっている。
最もメインの教理、最もメインのリバイバル集会の霊がバビロン化しているのが、今のキリスト教会の現状。それを理解しないと解らない。
だから、今の時代の平均的なクリスチャン。どこの派であろうと、前提として、バビロンの中に入っているので、そこから抜け出すというのがポイント。
抜け出した人たちは恵みを受けるが、バビロンと共に何処までも「艱難前」にこだわるとか、
また、聖書からかけ離れたバビロン的な教理が、キリスト教会に伝わっているが、離れない人達は、バビロンと同じ罰や裁きを受けたり、場合によっては永遠のいのちを失うという事を、
理解しなければならない。
なのでこの言葉は非常に大事。 「この女から離れなさい。」とは、インチキな訳。
「この女から出よ」と聖書は語っているが、その事を理解しなければならない。
これからのキリスト教会の動向は、こう言う事になると思う。
ある意味では、これから、キリスト教会に、「覚醒」が起きて来るだろうと、目が覚める人と、目が覚めない人が出て来る。
今まではバビロンの中でうつらうつらして見えなかったが、ある人達は、目覚めて、バビロン的な教理から離れ出て来る。具体的にはアメリカのキリスト教会の影響から出て来る。
教理的にも、霊的にも。
しかしある人達は、「ここのどこが悪い?」と言って、ずっとアメリカ由来のバビロン教理の中に留まり、バビロン的な霊とかリバイバルの中に留まり続け、結果として神の怒りを受け、
神のバビロンに対する怒りを買って、場合によってはそのまま獣の印を受けるような方向に行って、永遠のいのちを失う方向に行く。
今が分かれ目だったりする。
新改訳は、意図してか、大事なところで人を惑わすような役になっている。
残念ながら今の日本のキリスト教会は、御言葉に関連して、大いに惑わしが横行している。
神がそれを許されている。 まともな現代訳は無い。どれもこれも、インチキのオンパレード。
我々は、受けるべき当然の報いを受けている。
我々が真の意味で、神の言葉に忠実であろうとするならば、こういう事態を許される事は無かったかも知れないが、今は、日本語で読んで行くと、どれもこれも怪しい訳しか見ることが出来ない。
このような現状は、情けない事であり、神がそれを許されている。
我々の不真実が、こういう状況を招いている。
やはり、悔い改め、御言葉に関して忠実に歩みを正す事が大事。
偽りを喜んでいるので、偽りに相応しい聖書の訳を受けている。
「艱難前携挙説」など、インチキを喜んで受け入れているから、我々はそれに相応しい訳を受けているので、あらゆる真理が、日本語訳の聖書を読んでいる時に、消え去ってしまったり、見えなくなったりしている。
神がそれを許されているので、この事を真摯に反省をすべきであると思うる
今の時代の大事なポイントは、多くのクリスチャンに対して、選びがあり、選り分けがある。
ある人達は、どこまでもアメリカのキリスト教会すなわちバビロン由来の教理に留まり続ける。
それには御心は無い。 何故なら「バビロンから出よ」と、神は命じておられるから。
ポイントは、たとえアメリカ由来の教理とぶつかっていようといまいと、バビロンから出て、
聖書と違うような教理から出て行く人にポイントがあり、アメリカ・バビロン由来の霊、ベニーヒン、ビルハモン、ロドニーハワードなど、こういった、神以外のおかしなリバイバルから出て来る。 そこに、ポイントがある。
そうでなければ、バビロンに来る災い、滅びが、たとえアメリカにいてもいなくても、ここに留まるクリスチャンにはやって来るだろうと思われる。
「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
罪にあずかるという事は、柔らかな表現だけれど、言わんとしている事は、「共犯者」になるという事。それなりの刑罰を受ける事になる。
アメリカのキリスト教会すなわちバビロンとの関係をどうするかで、我々も「共犯者」になるという事を理解しなければならない。
日本のキリスト教会のクリスチャンで、教会に通い、メッセージをしたり、神の働きに加わって、何と、神から「共犯者」だと告発されたり、非難されるとは思いもよらない事だが、あり得る事。 具体的にはねバビロン由来のあらゆる罪がある。
バビロンはアメリカのキリスト教会。
バビロンのインチキ教理は、数えきれないくらいに有る。
神が、このバビロン、アメリカ由来の教理とか、霊を、「罪だ」と語っているなら、たとえどんな理由があろうとも、受け入れて、広めて行くというのは、共犯者になるという事を理解しなければならない。
注解書に、忠実であるとかないとかの問題ではない。
罪の共犯者となる事。 共犯者になるなら、当然受けるべき、裁き、罰を受けるようになるという事を理解しなければならない。
「艱難前携挙説」もアメリカを起点に大いに広まっている。
ハルリンゼイの本も、1800万部売れているとの事。
罪の教え、聖書からかけ離れた教えがどんどん広がっている。
それを、教会の中で、礼拝のメッセージとか、「再臨待望聖会」とか言いながら、「終末はこうだ」と、誤った教理を語って行くなら、それは、バビロンの罪の共犯者だという事を理解しなければならない。
その事に関して語っているのであって、黙示録を理解しないし、読んでいないから、この言葉の深刻さとかを理解できない。
「その罪にあずからないため」とか、日本語訳では穏やかに書いてある。
アメリカ由来の教理は、明らかに神の怒りを引き起こしている。
我々がそれに、盲目的であろうとなかろうと、くっついて行って同じ事をやっていく時に、それは罪の共犯者という事になる。 そして同じ罰を受けるという事を言っている。
例えば「クリスチャンと名がつけば、絶対に救いにもれることは無い」とか、とんでもない教理。
牧師は最近、アメリカを初めとした、キリスト教会のニュースをチェックするようになったけれども、その中で有名な牧師が、死後のさばきに関して、白い御座での裁きで、「『いのちの書に名が記されていない者はみな火の池に投げ込まれた』と言っているが、これは未信者の事を言っている。クリスチャンとは無関係だ」などと言っている。
無論、そんな訳は無い。
クリスチャンでもいのちの書に名が記されていない者が出る事を、サルデスの教会の手紙にはっきり書いてある。
「白い衣を着て歩いている者が、数人いる。彼らに対しては、いのちの書から名前を消すことは無い」と。 逆に言うなら、その衣を汚しているなら、いのちの書から名前が消される。
「いのちの書から名前が消される」とは、クリスチャンの事。
しかも、裁きの時に、「いのちの書に名が記されていない者は、みな火の池に投げ込まれた」とあるから、クリスチャンでも当然ある。 これが結論。
正しく聖書が言っている事。
我々クリスチャンは、救われて、名が記されるというのは1つの事。
最後までとどまり、いのちの書に名前が消されないまま留まるとは、また別の話。
例えば、マラソンは42.195km、それに参加するのは1つの事。
しかし、スタート地点から、ゴールまで走るのは別の事。
途中で疲れ果て、やめてしまう人もいる。
「火の池に投げ込まれるのは、未信者だけであって、クリスチャンの事では決してない」などと言う人もいるが、それをアメリカの牧師が言っている。これは、バビロンの教理。
こういった、あらゆるインチキの、聖書からかけ離れている教えを、盲目的に語っていく時に、
言いわけはきかない。
聖書的に言うなら、彼女、バビロンの罪にあずかる事になる。
共犯者になってしまう。 だから気を付けなければいけない。
「全てを吟味せよ」と聖書に書いてある。
そういう意味では、アメリカ由来の教理は、あらゆるものを特に吟味しなくてはならない。
あらゆる教理を総点検すべき。 あらゆる所におかしな教理が広がっている。
リックウォレンであろうと、ビリーグラハムであろうと。
色々変な事を言っている。 パーパスドリブンチャーチ(目的主導教会)しかり、「カトリックには何の問題も無い」という事も。 問題は大あり。
「ビリーグラハムが言うから」リックウォレンが言うから」などと盲目的に受ける人達は、まさに罪にあずかっている。
「全てを吟味せよ」とは神の言葉なので、当然、黙示録は、深かったり、大事な事を語っている。 しかし、残念ながら、イザヤ書にあるように、「見るには見るが悟らない」とか、「聞くには聞くが悟らない」とか、「この書を渡されても、私は読めない」とか、まさにそう。
黙示録は学問的なものではない。 「罪にあずかる」という、黙示録の言葉に関しては、そのような意味合いがある。
まさに、アメリカ・バビロンに、我々がそのまま受け継いで盲目的に語るかどうかで、罪にあずかるか否か、大きな違いになって行く。
そういう事を聖書は語っている。しかし、誰もそれを理解しない。盲目になっている。
そういう人達には、封印は開かれていない。
開かれたら語るべきであるが、解らないならやめておいた方いい。
「罪にあずかる」という事に関しての意味合いを理解しておきたい。
アメリカ由来の教理を受け入れるなら、これからどんどん罰や災いを受けるようになる。
場合によっては永遠のいのちを失うような方向に入って行くとだと思う。
今大事な事は、アメリカ由来のキリスト教の教理に関しては、見直しが大事。
今まさにそういう時代。 それがきちんと出来るかどうかで、我々の歩みが変わって来る。
永遠のいのちか、永遠の滅びか、どちらかのものに変わって行く。
18:5なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
「積み重なって天にまで届き」とは、象徴的な表現。
バベルの塔がまさにそう。 バビロンと、バベルは、関係がある。
バベルとは、「混乱」という意味だが、バビロンという言葉もよく似ている。
「混乱」という意味合いで。
バベルの塔は、皆で集まって、「天にも届く塔を造ろう」と言う話。
それと同じように、バビロンの罪も「天にまで達している」とある。
「天にまで罪が達する」という時に、その意味合いを理解したい。
「地に住む者」とか、この世的なクリスチャンとは対照的な人達、要するに「天的なクリスチャン」
だから、バビロンの罪が天にまで達したとあるのは、アメリカのキリスト教会、バビロンの影響力というのは、この世的な知的なクリスチャンだけではなく、「天的なクリスチャン」に至るまで、アメリカ由来のインチキな教理が影響を及ぼすという事を、語っているというように理解出来る。
勿論地的なこの世的なクリスチャンも、同性愛などをかなり受け入れている。
現状を反映していると思う。 なぜなら、アメリカ由来のあらゆるインチキな教理は、この世的なクリスチャンだけではなく、結構、信仰深いクリスチャンも、インチキな教理にやられている。「艱難前」を受け入れている。正直がっかりする。
最近レムナントの牧師は、ある韓国の牧師と知り合い、その中でかなり教えられている部分があるという。その教会では、ホームレスの人達のために、炊き出しをしている。
霊的な事に関しても、「伝道の前に霊的な戦いが必要」とか、神様から、色んな啓示を受けている。しかし、少しがっかりしたのは、「艱難前」を信じているらしいという事。
それ以外のところでは大いに学べるところがあるので、改めて「見習いたい」と正直思っているとの事。
何を言いたいのかというと、「天にまで達する」
だから、天的なクリスチャンも、軒並み、アメリカのおかしな教理を受けていたり、影響を受けていたりしている。 それを指して「天にまで達する」という事。
我々はどうしたら良いのかというと、やはり1つは、めげずにがっかりせずに、レムナントとしては、警告を続けて行きたい。
「角笛」のニュースレターを印刷して、結構多くのクリスチャンや教会に送っているが、やはり全く理解しない人とか、「こんなもん送って来るな」と怒って電話をして来る人もいるが、
逆に解っていただける人からは、お礼の電話をもらったりしている。
時々献金してくださる人もいる。
これを通してわかる事は、正しい天的なクリスチャンも、どっかかしら、アメリカ・バビロンの影響を受けている。
だから「艱難前」という教理を持っているだけで、全てのクリスチャンを切り捨てるのは間違い。他の部分で、正しく天的なところを歩んではいるが、終末の教理に関しては、間違っているところがある。 そういう意味で、諦めずに、がっかりせずに、絶望したりしないで、警告し続けて行くのが良いと思う。
そうすれば、解る人は解る。
クリスチャンになったばかりから、聞きなれている「艱難前」とかいうのは、クリスチャンの常識みたいに入り込んでいるので、我々が、警告の奉仕をなしていく時に、大事な事というのはやはり、粘り強く語っていく事。 そうすれば、徐々にでも、解る人は解って来る。
しかし、「とりこになるべき者はとりこに」され、どこまでも、最後までアメリカ由来のインチキを語ってしまうかもしれないが、「見る」人は、「我が民よ。この女から出て来なさい」というのが御心なので、出て来る。
そういう意味でレムナントの働きというのは、「この女から出て来なさい」というのが、この奉仕と一致している。
神の民をバビロン由来の滅びに入って行く、あらゆる惑わし、インチキ、偽りから引き出すという意味合い。
そういう意味で、出エジプトは、再現される。
モーセという名は「引き出す」という意味合いがある。
神の民を引き出す。
アメリカは、バビロン化、エジプト化して行くが、そこから神の民を引き出すという意味合い。
大事な働きだと思っている。
「神は彼女の不正を覚えておられるからです。」とある。
18:6あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。
これからアメリカ・バビロンに関しては、あらゆる災いが来る。
今、アメリカはそうなりつつある。
獣の国がどんどんキリスト教に対して厳しい事を言っているが、ある意味ではアメリカのキリスト教会の不忠実な歩みに関して、神の怒りが現されているという事が言える。
なので、二面の事を見なければならない。
アメリカでは、忠実なクリスチャンが、艱難に遭っている。艱難時代の前兆という面があると思う。
しかしそれは、不忠実なキリスト教会に対しての神からの罰という面がある。
6節の事を見たい。
混ぜ合わせた杯という事を見る。
どんな言葉にも意味合いがある。
混ぜ合わせた杯。 「混ぜ合わせる」という言葉にも意味がある。
「混ぜ合わせる」という時、「杯に混ぜ合わせる」という時には、例えば、片方から、コーヒーを入れ、もう片方からミルクを入れると、カフェオレになる。 コーヒーの苦味が少し消え、ソフトになる。 混ぜ合わせるとは、そういう意味。
ここでは杯にぶどう酒に他の酒を混ぜ合わせるという事。
「混ぜ合わせた杯」という場合、意味合いがある。
具体的に言うと、「霊」を混ぜ合わせる。
はっきり言うなら、聖霊と悪霊を混ぜ合わせる。
「混ぜ合わせる」という事は、終末の1つのキーワードだと思う。
理解しなければいけない事は、終末における、悪霊的なリバイバルとか、神の忌み嫌うリバイバルという時に、もちろん悪霊が働くが、それだけではない。
神の霊も働いておられる。
だから、余計解らない。
本当に神によって見分けを受けないと、難しい。
しかしバビロンは、混ぜ合わせた酒を用いているが、神の怒りを買う。
やはりこれは良くない事。
たとえ聖霊が一部働いていても、悪霊のリバイバルをもたらすのは良くない。
これに関して、牧師には思いだす事がある。
以前、ペンテコステ系の教会へ通っていた時、そこは、ペンテコステ、カリスマ系の教会なので、霊的なリバイバルとか、そういう事に関して、神の働きに関して、情報であろうとも敏感だった。 まだ西暦2000年になる前に、その頃、最新のニュースとして、トロントのリバイバルの事を聞いた。「神の働きが起こっているらしい、リバイバル現象が起こっているらしい」「トロントブレッシング」と言われていた。
その時に、その働きを見てこようという時に、牧師がいた教会は規模も大きいので、トロントの働きを見て来るチームが結成され、何人かの教会の人々が、視察を兼ねてトロントに行って来た。そしてその報告を聞いた。チームの人が、「トロントのリバイバルの働きは、一部神の働きがある。しかし、一部、悪霊の働きもある」と言っていた。
その中では、ある場所では涙ながらに真摯に悔い改め、告白して祈っていたが、ある場所では別の変な霊によって、笑っている、要するに神の霊も働いているが、別の霊も働いているという事を報告で聞いた。
これがまさに混ぜ合わせた杯。
トロントと言い、ペンサコーラといい、全てが悪霊という事は無いかもしれないが、これが、混ぜ合わせた杯。
聖霊の働きも一部あるが、悪霊の働きもある。
結果として、聖霊に触れるつもりで、悪霊の影響を受けて、おかしくなったりする。
これは、さらに巧妙。 まさに聖書は、そういう日を預言している。
混ぜ合わせた杯をもって、リバイバルに、聖霊の働きもあるが、悪霊の働きもある。
結果としてこれはバビロンの行ないであり、神に憎まれ、裁きを受ける。
良いわけがない。 これは罠。
これは、教理においてもそう。
アメリカ由来の教理が、全て間違っているわけではない。
「イエス・キリストのみに救いがある」
しかし、艱難前携挙説がちらっと見え隠れしている。
全部がインチキで、「イエス・キリストの代わりにマホメッドを拝みなさい」とかだと、クリスチャンはそっぽを向くが、アメリカの教理のインチキっぽいのは、一部、正しい教理、ひょこひょことインチキな教理が入っている。そういう意味では、教理的には混ぜ合わせている。詐欺の典型的なやり口。 95%本物で、5%偽りが入っている。
こういった事を見て行く。
我々はまさに、預言されたバビロンの働きを見ている。
これはまさに、アメリカ由来のキリスト教会が、バビロンだろうと理解している。
御言葉に書いてあるあらゆる事柄が、バビロン、アメリカのキリスト教会に実現しているので、警告をもって、黙示録は無意味に書かれたのではなく、実際に起こって来るリアルな未来を預言して書かれたものなので、それを悟り、理解し、読み取り、そして、備えをして行きたいと思う。
レムナントキリスト教会
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