ヨハネの黙示録19章8節~9節         2017.3.5

 

 

 

19:8花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

 

 

 

黙示録は、神の知恵によって書かれており、聖書は私的解釈(その箇所のみからの解釈)をしてはならないと書いてある。「それ以外の箇所も参照せよ」との意味合い。

 

「きよい麻布」・・・「きよい」と言う言葉を見て見たい。

 

他の箇所を見て行く時に、いろんな言葉の意味合いがさらにはっきり解って来る。

 

 

 

ルカ

 

11:38そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。

 

 

 

「きよめの洗い」・・・「きよい」と同じ言葉。

 

 

 

11:39すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。

 

 

 

「外側はきよめるが」・・・「きよめ」も同じ言葉。

 

 

 

 

 

11:41とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。

 

 

 

この41節の「きよい」が、まさに黙示録に出て来る「きよい」と同じ言葉。

 

なので、我々が真にキリストの花嫁として、主に迎えられたいと思う時に、「きよく」なるべき。「きよく」なければ、キリストの花嫁として迎えられない。

 

聖書的な意味合いは、まさに同じ言葉で「きよい」と書いてあるので、その様な言葉であると思う。

 

(人間・・※聖霊の油をとどめるものとして)の外側は清めなくてよいとは言わないが、パリサイ人、律法学者の問題は、外側の事ばかり。

 

我々が真に、「きよい麻布の衣を着ることを許された。」という時に、内側も清めるという事柄が、大事である。 これは覚えておく。

 

パリサイ人、律法学者の様に、人前で御言葉を教える人達も、そういう事を怠っていた。

 

そしてはっきり指摘されている。

 

 

 

11:40愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。

 

 

 

だからといって、外側はどうでもよいとは言えないが、内側を清めるという言葉に関して、心を用いるべき。  往々にして、パリサイ人、律法学者みたいに、神に仕えたり、それを専門にしている人達でさえ、内側を清めるという事を怠っている。

 

我々もそうなり易い。 だから、内側を清めるという事に関して、心を用いるという事が、聖書的な事柄。   そういう概念を受け取る事。

 

 

 

11:41とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。

 

 

 

「うちのものを施しに用いなさい。」と書いてあるが、KJVでは、「これらのものを施しに用いなさい」と書いてある。

 

「施しに用いる」というのがどういう事かというと、こちらでは、こう理解している。

 

「それを人々に、油を運ぶ器として用いて行け」  そうでないと、内側が泥だらけの瓶に油を入れると、きれいな油でも、泥の汚れでだめになる。

 

だからこれは、深刻な問題。

 

律法学者、パリサイ人は、神の働きを担っており、神の聖霊を運ぶ事になっているが、内側が汚れているので、変な汚れた霊とか、怒りの霊だとかをどんどん運んでしまう事になる。

 

なので、用いようがないという事。

 

「そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」と書いてあるが、

 

そうでないと、あれもこれも、汚れたものになってしまうという事。

 

他の箇所にあるように、「心にあふれているものが口から出る」

 

だから「あなたがた悪い者に、どうしてよいことが語れるか」と書いてあるが、我々の内側が

 

清められていく事が、実は我々の証の言葉を通して、人々がキリストに触れる、良いきっかけになる。

 

しかし、内側が怒りに満ちていると、全然、キリストの愛とか、きよさとか、聖霊の働きとかが伝わらない。

 

逆に自分の怒りなどを強く伝えてしまう。

 

我々は、内側をきよめて行って初めて、聖い聖霊の働きを伝える事が出来る。

 

逆に我々のあらゆる事柄が、聖霊の働きを伝えるつもりでも、人々に影響を及ぼしてしまうという事を覚えておく。

 

我々はね内側を清めて、初めて聖霊の働きを媒介する。

 

なのでこれらを求めて行く時、聖霊の器として、我々も働きの一端を担うという事。

 

こういった事を見て行けば、「そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」

 

だから、内側を清めれば、我々を通して与えられるメッセージも、証も、きよい者となって行くる。

 

聖霊にあって内側も清めていく事に関しても見て行きたい。

 

 

 

黙示録

 

19:8花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

 

 

 

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。」と書いてある。

 

「光輝く」という事を見て行く。

 

この御言葉も他の箇所で使われている。

 

 

 

ルカ

 

23:11ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

 

 

 

ここに、「光輝く」と同じ言葉が出て来る。

 

「はでな衣」・・・この服には、悪意がある。

 

ヘロデはイエス様を侮辱したり、嘲弄したりしたあげく、最後ははでな衣を着せて馬鹿にしたりしている。

 

黙示録の言わんとしている事が、我々の想像とちがう感じがする。

 

光り輝く衣とは、栄光に輝いて、素晴らしい、神から、また人からの称賛のように見えるが、しかし、その箇所のみで解釈をせずに、他の箇所を参照すると解って来る事は、花嫁の衣というのは、イエス様が侮辱したり、嘲弄されたりしたあげく、最後には、はでな衣を着せられて馬鹿にされたのと、同じ言葉が使われている。

 

言わんとしている事は、隠れた暗示、意味合いがあるなら、我々が真のキリストの花嫁となっている時に、キリストが着せられてしまった、不本意なものだが、キリストは甘んじて受けた。

 

神の御心を行っている。

 

キリストの花嫁になる人は、実は、キリストが受けた着物は、そのような1つの象徴だと思う。

 

「はでな服を着せる」とは、侮辱や、物笑いの象徴。

 

我々もそういったところを、キリストの名によって通って行く者が、実は、真の花嫁になって行く。そういう語り掛けを受ける。

 

我々が本当にキリストの花嫁になって行く時、キリストの為にあえて侮辱を甘んじて行くという事。

 

外国のニュースをチェックしている。  「クリスチャンポスト」

 

英語であるので若干ハードルが高いが、そういうニュースを聞いた。

 

それは、イギリスで牧師が逮捕されたというニュース。

 

逮捕理由は、「イエス・キリストこそ、唯一の救い主である。」と、路傍伝道でメッセージをしたため。その牧師は、「イスラムの道に救いがあるわけではない、そこには滅びがある」と。

 

牧師の罪状は、「憎しみ犯罪法。」  要するに他の宗教を悪く言ってはならないという事。

 

そういう時代にどんどん来ている。

 

アメリカでは路傍伝道したり、同性愛に反対して逮捕されたり、「イエス・キリストこそ唯一の救い主」と言ったりしては逮捕されたりしている。

 

どんどん時代は押し迫っているが、そういうニュースを聞く時に、感じる事がある。

 

これらの逮捕された人たちこそ、キリストのゆえに犯罪者にされた。

 

悪い意味で、「はでな衣」を着せられている。

 

こういった事が、「光り輝く」とは書いてあるが、「はでな衣」、軽蔑のはでな衣を着て行くという事。  しかし、黙示録では、花嫁が着る衣とも言われている。

 

言わんとしている事は、我々がキリストのゆえに、辱めとか、悪い評判を受けたりする。

 

それは逆に花嫁の資格になったりする。

 

世の中の常識と、神の前の常識とは、本当に違う。

 

世の中では犯罪。  この世の人も、日本もそうだが、法律を犯したとか、新聞に載ったとか、

 

逮捕されたりすれば、いっぺんに評判が変わる。たとえ教会であっても。

 

「あいつ、悪い奴だったのか」など。

 

それでも、あえて、この様なハードルがあるけれども、キリストの御言葉に従って行くか、花嫁になる大きな条件だったりする。

 

この世の価値観と神の価値観は大いに違う。

 

イエス・キリストの生涯を見ても解る。

 

キリストの生涯は、人間的に言えば、逮捕、投獄され、死刑になるような極悪人に見えたりする。  しかし、神の御前には、御心を行うという意味で、そういったところは見ていきたい。

 

 

 

黙示録

 

19:9御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。

 

 

 

小羊の婚姻に関しては、マタイの22章では、我々の思いがけない事が書いてある。

 

「王が、結婚の披露宴に招いたがね招いた人は、誰も来なかった。」とある。

 

それどころか、「王のしもべを殺してしまった」とか、それで「招いた人たちで、わたしの食事を味わう者は一人もいない」という事。

 

これは物語として読むならあまりピンと来ない。 これは、我々の目が開かれるなら、主イエス・キリストの初降臨の日に、この喩えの話は、明確に成就した。

 

当時のユダヤ人達は、真の意味で、食卓に与らなかった。

 

逆に、バプテスマのヨハネを殺し、キリストまで殺してしまい、神の怒りを受けた。

 

結局、婚姻の席に入ってきた人は誰かというと、その当時「異邦人」だった。

 

だから、結婚関係が成立したのは、ギリシャ人や、他の異邦人だった。

 

そういう逆転が起きた。

 

福音書に書いてある、キリストの初降臨で起きた事は、再臨の時に、多くの事柄が再現される。マタイの24章の「宮の崩壊」に関しても。

 

主は明らかに、聖書に2重の預言として書いてある。

 

西暦70年にエルサレムはローマによって、崩壊させられた。

 

しかしそれは、終末の日をも明らかに預言していて、「終末の日にも、宮の崩壊という事が再現される」という事と、同じ意味合いで、「招かれた人達は、その席に与らない」という事も、再臨の日に再現される事だと思っている。

 

聖書に書いてある、キリストの初降臨の時には、当初招かれた人たちは入れなかったというのが、メインのメッセージ。

 

再臨の時も、当初招かれている人達は、明らかにクリスチャンだが、その背教のゆえに、婚姻が成立しなくなるとか、その日のごちそうにあやかる事が無い可能性が大いにある。

 

この警告は受けるべき。

 

「婚姻」という言葉に関連して、

 

 

 

ルカ

 

12:35腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

 

12:36主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

 

 

 

「婚礼」という言葉が、この「婚姻」という言葉と同じ。

 

 

 

12:37帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

 

12:38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。

 

12:39このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

 

12:40あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

 

 

 

しもべは主人の帰って来るのを待つべきだが、「待つ」のは明らかに再臨のキリスト。

 

問題は、しもべが、主人の帰って来る時を間違えてしまうという事。

 

「思いがけない時に来る。」と書いてある。

 

その時にキリストの再臨に、備えが出来ていなかったり、「こんな時に来るはずがない」という時に来る。 そういう事を聖書は預言している。

 

キリストの再臨の時を間違えてしまう。

 

黙示録の、サルデスの教会の件でも、同じ事が書いてある。

 

「あなたにはわたしがいつ来るか、あなた方には決してわからない」

 

キリストの再臨の時を間違えてしまうという事に関して、聖書は、繰り返し語っている。

 

39節には、泥棒の事が書いてある。

 

「もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」

 

キリストの再臨の時は、「泥棒」の事が書いてある。

 

「泥棒」は、神の言葉を盗むという事に通じると理解出来る。

 

神の言葉を盗むとは、どういう事かというと、教理を換骨奪還してしまって、神の言葉を用いているが、全然違う教理を語っているという事。

 

最たるモノが、「艱難前携挙説」、ディスペンセンション主義。

 

レフトビハインドやら、これらのモノは神の言葉を盗んでいる。

 

勝手に解釈している。

 

自分たちの都合のよい所だけを言っている。

 

レフトビハインドは、どういう意味かというと、「とり残された」という意味がある。

 

キリストの再臨の前に、携挙されるという。

 

御心のある人は携挙され、そうでない者は取り残される、という話。

 

この本は6000万部以上売れた。 あらゆる英語圏の人が読んでいる。

 

その教理が入ってしまうと、間違えてしまう。

 

「泥棒」にやられている。  泥棒のインチキ教理で。

 

だから、「おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」と書いてある。

 

インチキ教理に騙されなければ、キリストの再臨の日を間違えなかったけれども、

 

インチキ教理でやられてしまっている人は危ない。

 

惑わしの教理にやられないようにする事。  気を付けていきたい。

 

 

 

黙示録

 

19:9御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。

 

 

 

KJVでは、若干違った表現。

 

新改訳では、「これは神の真実のことばです。」と書いてあるが、「彼らは、神の真実な言葉です」と書いてある。

 

これは、「神の言葉を真実として歩む者は幸いだ」という事。

 

逆に、神の言葉を曲げたり、盗んでしまったり、全然違う事を言っている人達は、小羊の婚宴に招かれる可能性は低い。

 

先程の艱難前携挙説やレフトビハインドもその類。

 

我々も婚姻に招かれたいが、その場合我々自身が、神の言葉の真理に留まるという事が、1番大事。

 

旧約聖書を読んでも新約聖書を読んでも、よく出て来る表現は、神の言葉に対して、不正とか、曲がった事を言ったりとか、違った事を言ったりする事に、「不正」という言葉が度々出て来る。    「蛇、まむしの末」はまさにそう。

 

アダムとエバに神の言葉と違う事を吹き込んだのはサタンである蛇。

 

律法学者、パリサイ人も、神の言葉を曲げているが故に、イエス・キリストによって、「蛇よ、まむしの末よ」と非難された。

 

だから、神の言葉を曲げて行くと言うのは、キリスト教会における非常に大きな問題点。

 

なので、それは世の終わりの時にも同じであって、神の言葉に、たとえ自分にとって不利な事でも、真実に留まる人こそが、実は、神の小羊の婚姻に招かれる人。

 

こういう事は是非見ておきたい。

 

我々は、偉そうには言えないが、主の憐れみによって、いくつかの言葉に関しては、神の言葉の真実に留まる事ができた。

 

有名な牧師でも、「艱難前携挙説」をとうとうと語っている。

 

神の言葉の真理に留まらず、逆に人を惑わしている。

 

そういう人は小羊の婚姻に呼ばれるかが危ない。

 

我々は、神の憐れみによって、「艱難前」は間違いだという事に気付いたし、喩えの理解に関しても、あらゆる言葉が喩えであると理解出来たので、常識的にはチェーンバイブルが言うように、御言葉に対して「これは誇張的表現」とか言う立場には立たず、「否、神の言葉が真実」であるととって、その様に理解し歩んだなら、あらゆる喩えや謎が解けて来た。

 

これは恵み。

 

また、その流れの一環として、終末の獣の国はアメリカだという事が見えるようになって来た。神の言葉に関して、いろいろ偽りとか、間違えている人達は、危ない。

 

神の言葉を真理として、どこまでも語って行く人達は、小羊の婚姻に大いに招かれて行く。

 

あらゆる終末の言葉に関しても、いろいろインチキを仕掛けて来る人が沢山いる。

 

しかし真実は、例えば背教という言葉に関しても「世の終わりには背教がある」とか、教会が背教するとか、さばきもあるとか、耳に痛い。 耳に心地よくない。

 

だから、色々参照すれば解る。

 

背教には、「離縁される」という意味合いがある。

 

聖書が言っている事は、教会が、キリストの婚姻関係から離れて行って、他のモノに魅かれて行くという事を言っている。

 

我々は、真理に立ち、見て行きたいと思う。

 

そうすれば、あらゆる真理が見えて来る。

 

アメリカが獣の国であるとか、宮の崩壊とか、真理に立つ時に、正しい事が見えて来るので、ここにポイントがある。