ヨハネの黙示録2章18~29 2015.10.25
2:18また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
テアテラの教会。
七つの教会は文学ではない。空想でもない。
聖書に書かれているので、実際に黙示録に書いてある七つの教会というのは、歴史の中で登場する教会を預言している。
なので、七つの教会について学ぶ時に、テアテラがどこの教会かという事が分からないと、あまり意味がない。
テアテラがどこの教会かという事を見て行きたい。
テアテラはおそらくカトリックではないかと思っている。
その理由は、イゼベル(マリア礼拝)とか、またねテアテラという言葉自体が厳しい言葉。
テアテラは、「災いのにおい」 不吉な名前。
先週見た、ペルガモも、カトリックと言ったのだが、カトリックの歴史は長いから、今の理解では、カトリックの歴史の初めではないかと思われる。
ただ、このテアテラに関しては、これは終末まで続く。
何故その様に言えるかというと、25節にキリストの再臨に関して書かれている。
「ただ、あなたがたの持っているものを、私が行くまでしっかり持っていなさい」
なので、このテアテラは、世の終わりまで、キリストの再臨まで存続する、すなわち今もあるという事。
現在ある教会の中にテアテラを探せば、偶像に捧げたものを食べさせるとか。
今時、偶像礼拝をしている教会と言えば、マリアの像とかヨセフの像もあるカトリックだと思える。もし、誰かが別のものが示されても否定はしない。
その様な理解で見て行きたい。
テアテラは、「災いのにおい」という不吉な名前の教会。
だから、一般的で、全般的な歩みとして、主から祝福を期待できる教会というよりは、このテアテラに従い、教理に従い、教えに従って行く時に、災いに入って行くという可能性が大いにある。結論としては、一般的には災いに入って行ってしまうというのが基本形であると見て行きたい。
既に18節から、災いに入って行くというのが暗示されている。
ここで、「燃える炎」という言葉が書かれている。
マタイ
5:22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
この「燃えるゲヘナは」、「燃える炎」という先程のテアテラに出て来る言葉と同じ言葉。
なので、暗示されている事は、テアテラに関して、イエス・キリストはいろんな表現をすることが出来ると思う。
「七つの星の間を歩く、七つの燭台の間を歩く、七つの星を持つ」
しかし、よりによって、テアテラに関しては、「燃える炎」に関してキリストを紹介している。
これは「燃えるゲヘナ」と同じ言葉なので、裁き、罰に関しての面。
だから、この教会に関しては、イエス・キリストが一般的に恵みを与えるというよりは、キリストはその日にこの教会に関して、恐るべき罰を再臨の日に与えられてしまう可能性があるという教会であると暗示されている。
金持ちとラザロの話で、金持ちだった者が、「この炎の中で苦しくてたまりません」と言っている言葉が、まさにテアテラの「炎」の訳。
言わんとしている事は、こういう面も語って行かなければならない。
一般的な教会に関しては、一歩間違えると、「燃えるゲヘナ」だとか、金持ちだった者が、「この炎の中で苦しくてたまりません」と言ったゲヘナの事とか、そういう可能性があるという事は、クリスチャン生活の中で、やはり、理解して行かなければならない。
良い事ばかり語ると、信者が増えるかも知れないが、聖書に書いてある事柄はスキップ出来ない。 どんな事柄に関しても、最悪の事態という事を、我々は理解していかなければならない。
クリスチャン生活は、歩み方次第では、単に天国の名前を消されるだけではなくて、ゲヘナの炎とか、聖書に書いてあるので、想定しなければならない。
決してサタンに惑わされず、得るべきものを得ていく事を求めて行きたい。
黙示録
2:19「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
もしこのテアテラが、カトリックの教会であるものとするならば、我々は、カトリックに関して、人間的な視点ではなく、神の視点、聖書に神が書かれたその視点で、見て行きたいと、心から願う。
ここでは、カトリックの良い所が書いてある。
最近カトリックは行ないが良くなっている。
聖書にその様に書いてあるなら、その様に認識しなければならない。
勿論、ローマ法王は良くない。「キリストの十字架は失敗だ」などと言っている。
以前に比べると、カトリックは、神の御前に「良い」と思われている。
もう一つは、「愛」と訳されている言葉だが、KJVで読むと、ここのところは、「チャリティー」と書いてある。 すなわち「慈善」
カトリックはこういうチャリティー、慈善的な事をよくやる。
孤児院、ボランティアなどを結構している。
これらの事に関しては、主が、「その事を知っている」と褒めているので、我々も、そういう認識をしなければと思った。
聖書には、サマリアに関して、ろくな事が書いていない。
カトリックの慈善事業というのは、大いに主の前に喜ばれている。
そして、サマリヤ人の、唯一の美点は、慈善事業に関しては、主は目を注いでおられる。
イエス様は「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われた。
だから、我々も、主から言われている。
それを見習うのは、全く正しい。
慈善事業、孤児院、ホームレスへの炊き出しなどを出来る様になったらやっていきたい。
これは、主に喜ばれる。 なので、非難してはいけない。
チャリティーには、御心がある。
2:20しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
イゼベルという女。 この名の女性は、旧約聖書の中に出て来るので、その事をも踏まえてここに書いてある。
こういう名前が出た時に、我々は、聖書の読み込みが、功を奏する。
読んでいる人は、「イゼベルなんて知らない」とは少なくとも思わない。
さぼっている人は、「イゼベルってどこかにあった気もするけれども・・・」となる。
イゼベルは、アハブの妻。 アハブは北イスラエルの王。
北イスラエルはカトリックだと思う。
「イゼベル」という言葉に意味がある。 「バアルは私の夫」
「バアル」は、「主」という意味がある。 勿論、キリストの主ではない。
イゼベルという女を通して言っている事は、要するに、キリストを捨て置いて、他の偶像を自分の夫としている。 偶像崇拝、器崇拝と言うべきか、具体的に言えば、カトリックのローマ法王の言う事を聖書よりも優先させてしまう。 また、マリア礼拝に入って行くなど。
これはまさにイゼベルの働き。
イゼベルは名前自体がはっきりしている。
なので、特に黙示録を読んでいる時には、言葉の意味合いが大事。
日本では、原語の意味合いを調べる事は結構難しい。
言葉の意味を調べる事によって、色々大事な事が見えて来るという事は理解しておく。
意味を見た時に、あらゆる事が氷解して来る。
こういったところを見て行く。
そして、「この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、」というように、カトリックの中で、行なわれている預言者的な働き・・・例えば、マリアの霊のお告げだとか、ローマ法王のお告げというのは、みんな間違い。
我々がカトリックに対して示す事、しなければいけない事は、正しい方向を示すという事。
カトリックの教会は、聖書的にどういう立場なのか、どこが問題なのか、どうなすべきなのか、
これからどういう事が起きるか、こういった事を語って行くように、そういった事に召しがあるように思う。
そして、問題は、「しもべたちを教えて誤りに導き、」
カトリックの人々は、それなりに熱心。 しかし、問題は、誤った方向に引っ張られて行くという事。
カトリックの問題は、導く人が違う方向に導く事。しかもそれは、本来キリストに捧げる物を
他の神に捧げ、それを信徒に食べさせている。
具体的に言うと、ローマ法王を崇拝したり、マザーテレサを崇拝させたり、マリア礼拝をさせたりとか、そういう方向。
しかし、これというのは、偶像の神に捧げた物を食べさせているというので、要するに、神の言葉が曲げられているという事。
食べるとか飲むという事は、礼拝と関係して来る。
我々も聖餐式でパンを食べ、葡萄酒を飲んだが、パンは御言葉の象徴だけれど、神・キリストに捧げられるべき物なのに、そういったメッセージが、偶像の神に捧げられている。
カトリックのメッセージでは、「ローマ法王はこんなに素晴らしい」だとか、マリア礼拝はこれだけ立派だとか、そういう話に終始してしまう。
結果として、不品行すなわち姦淫を行なってしまう。 キリストに捧げられる忠節を他の偶像や、ローマ法王など、そういったものに捧げてしまう。熱心さが間違った方向に導かれてしまう。 なので、「不品行を行なわせ」とは要するに、はっきり言えば姦淫。
だから、キリストが真の夫であるのに、毎回礼拝に行くたびに、偶像の神への姦淫という形になってしまう。
そうすると結局、キリストの怒りが下って、ろくでもないパン、ろくでもない葡萄酒を受けるようになってしまう。
そういう災いがあるという事はよく覚えておく。
2:21わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
主は我々の人生の中で、悔い改めの機会という者を時々与えて下さる。
そういう時は、悔い改めなければならない。
この女は、悔い改めの機会はあったが悔い改めなかった。だから、ろくでもない所に入って行く。
我々もその点では同じ。
悔い改めの機会とは、例えば突然会社をくびになる。友人関係がとんでもない事になる。
クリスチャンでも同じ。
明らかに神が起こしているのだけれど、人間的な解決策ばかりを追い求める。
問題が起きた時、実は神様が悔い改めの機会を与えて下さっている場合があるので、その時は悔い改めの行動をした方が良い。そのチャンスを逃してしまうと、ろくでもない事に増々入って行ってしまうので、そこは理解する事。
イザベルは悔い改める機会に悔い改めなかったので、増々災いに入って行く。
2:22見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
病の床・・・たとえばカトリックのマリア礼拝など、全く主の御心と全く違うものを掴んでいく時に、病気と関係して来るということか・・・。
もう一つは、「大きな患難の中に投げ込もう」という事で、色々な災いが自分の人生の中に起きて来るという事。
「神を信じているのにどうして、こんなに熱心にロザリオで祈っているのにどうして・・・」
という事になる。(ロザリオ自体が神の御心ではない)
その災いは神から来ている。
カトリックの人々は、「マリアをこんなに熱心に礼拝しているのになぜ・・」という時には、これは神が起こした災いであり、悔い改めの機会である。だから悔い改める。そうでなければ増々患難が増え広がって行くばかりだから。
なおも悔い改めなければ、もっと大変な事が起きる。
2:23また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。
カトリックに行って、ローマ法王を増々崇め、増々マリア礼拝を続けていく時に、何が起きるかというと、神の怒りを買い、キリストの怒りを買って、最期には怒りが爆発して、子供が死病によって死んでしまう、という事になる。
一生懸命やっていて、そして神の御心に沿っている時に、祝福を受けていくという歩みもある。
しかし、同じように一生懸命やっているけれども、マリアを拝んだり、信じたり、祈ったり、ローマ法王の言う事を受け入れて、「聖書にも間違いはあるから、聖書は簡単には信じませんよ」とか。 それは実は神の怒りを買っている可能性がある。
すると、ろくでも無い事になる。なので、我々は、「熱心であっても知識が無いのは良くない」
何でもかんでも、教会の言う通りにすれば良いというわけではないという事は、言える。
カトリックに関しては、大いに言える。
教会は、そこで熱心にやって行けば良いのだが、教会も吟味しなければならない。
「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」
主は、ここに書いてあるように、人の思いと心を探る方だという事を覚えておく。
これは別にカトリックに関係なく、プロテスタントにおいてもそうである。
そして、その人の本音や行いにおいて主は報いられる方だという事を覚えておく。
その人の本音という部分を、主は見抜かれる。
それは、人間には見えなかったりする。
しかかし主は、的確にその人の本音を見分ける。
本音に応じて、その人に対応される。
艱難前携挙説をどうして受け入れてしまうか、それは、その人の本音が出るからだと思う。
「キリストのために艱難には遭いたくない」そういう本音をサタンが掴み、インチキな教理を入れて来る事があると思う。
「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」
この言葉は良い意味でエレミヤ牧師の上に成就した。
人からどう思われようとも、人間的なものを恐れるには当たらない。
主は、心を探る方なので、個々の思いが、本当にそれが正しいものであるならば、その事を主がご存じであるから、いずれそれが行ないに応じて、正しく報われる。
基本は、どこまで行っても、主は、人の心を探ったという事。
人は認めなくても、主は、人の心を探り極める方なので、御存じであった。
それが、今の働きの基本だというのが大いに分かる。
教訓としては、人の評判を見てはいけないという事。
両方は無い。 人からも良く言われ、神の前にも喜ばれる事は大抵ない。
エレミヤ牧師の経験では皆無。
大抵どちらか一つ。 取りづらかった。
我々の場合も、そんなものだと思うべき。
大抵、人からは誤解される。そう思えば気は楽。
真に正しければ、人の心を探る方がおられるので、本音が正しければ、ちゃんと正しい報いが来る。
2:24しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
なので、テアテラ・・・もしこれがカトリックという事であれば、この教えを受け入れていない・・・マリア礼拝はダメだとか、ローマ法王は正しくない、イエス・キリストが正しいと思っている人にはやはり、祝福がある。
「彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」
彼らの言う変な儀式に触れていなければ大丈夫。
カトリックの中で正しく信仰を保ち続けているならば、それだけで立派。
2:25ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
「私が行く」というのは明らかに再臨なので、再臨までこの教会は存続する。
現状も存続しているので、カトリックだと思っている。
その時に、この教会において大事な事は何かというと、「今持っている者を私が行くまでしっかりと持っていなさい」
だから、最後の最後で、コケてしまわないように。
最後の最後まで、きちんと持ち続けるという事。
こういう言葉がわざわざ書いてあるという事は、途中までよかったけれど、最期でコケる人が
いそうな感じがする。
クリスチャンの歩みはこういう面がある。
サタンが、最後の最後でコケさせようとする。
イエス様の十字架の時もそうだった。
イエス様はコケなかった。
完成が近付くほど、ぐっと敵の攻撃が来そうな感じがする。
サタンはそういう意味では、我々よりもよく知っている。
どうしたら永遠のいのちをゲットするとかを良く知っている。
「この辺りでみんな必ずコケる」とか、この辺滑りやすいからみんなコケるとか、ルートを良く知っている。
なので、この辺に書かれている事は無意味ではない。
「最後まで」というのは、途中で躓く者が多いということ。
2:26勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
ここで、もう一度強調されている。
「また最後までわたしのわざを守る者には」
七つの教会に関して、それぞれの教会に関して、勝利を得る者には、こういう褒美を与えると。
これは、七つの教会に関して毎回繰り返されているフレーズでもある。
それは事実だが、テアテラに関しては、付け加えられている。
「勝利を得る者」と「最後までわたしのわざを守る者」には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
この言葉は他の六つの教会では使われていない。
ここテアテラだけにしか使われていない。
これを見て理解出来る事は、カトリックの人は、最後まで、キリストの再臨まで、「キリストの業を守る」これはかなり困難がありそう。
最後まで守る。 途中良い所まで行って最後のあたりに脱落する人が多そう。
神の言葉には、無意味な言葉は無い。全部意味がある。
わざわざそういう言葉が入っているのは、「最後まで」と書いてある言葉は、今の所留まっていても、結構、カトリックにはシビアな揺れ動かしが来るような感じがする。
何でもそうであるが、「最後まで」守って何ぼ。
2:27彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
2:28また、彼に明けの明星を与えよう。
2:29耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
なので、聖霊のいう事を聞き、なすべき事をなしていきたい。
レムナントキリスト教会
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