ヨハネの黙示録20章4節~6節           2017.4.23

 

 

 

黙示録

 

20:4また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

 

20:5そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

 

20:6この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

 

 

 

「多くの座」と書いてあるが、「王座がいっぱいある」という感じ。

 

「彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。」と書いてあるが、「彼ら」とは何か、KJVを見る限り、この後の人々。「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」

 

この人たちが、王座に座る。

 

「さばきを行なう権威が彼らに与えられた。」という事。

 

この箇所の言わんとしている事は、これから見える世界においては、明らかにわかる事は、「首をはねられた人達」や「イエスの名のゆえに迫害されている人達」というのは、絶対圧迫されたり、非難されたり、この世では評判は悪くなるし、場合によっては罰金を科せられたり、首をはねられたりする。

 

人間的には、「損」

 

常識に見ていれば、「そんな目に遭いたくない」という事。

 

アメリカにおいては、それらしいものが大いに進んでいる。

 

日本にても対岸の火事ではない。

 

日本にもいずれ、起きて来る。

 

アメリカでは、正しいクリスチャンは今の時点で迫害されており、もっと進んで行くと思われる。  ここは、人の目に見える事柄。

 

しかし黙示録では、人の目に見えない事柄を語っている。

 

4節では、「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。」 王座に座ったという事。

 

「そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。」と書いてあるように、いろいろ、罪に定められたり、罰則を定められ、その日には、キリストの来られる日には逆転するという事が、書いてある。 この世で有罪に定められた、正しいクリスチャンが、その日には、神の前のさばきで逆転し、逆に裁きを行なう権威が与えられる。この辺りは見て行かなければならない。そうでないと、これから起きて来る、既に段々、正しいクリスチャンは、何かと非難されている。 これは間違いなく日本にもやって来る。今はまだ来ていないが。

 

その時に非難されたり、抑圧されたりする時を見越して、黙示録は書かれている。

 

神の前の真実を、我々が悟るため。

 

これからの時代、確かに黙示録を学ぶ必要がある。

 

これから見える世界は、我々の信仰をひっくり返すような、疑わせるような事がどんどん起きて来る。  世の中からは、正義が消えるような時代になって行く。

 

正しいさばきも失われて行く。

 

特にクリスチャンはそう。 理不尽な、正しいクリスチャンであればある程、理不尽な目に遭ったり、悪く言われたり、カルト扱いされたり、誰も理解してくれない時に入って行く。

 

その為に神は、唯一正しい事を語っていると理解しなければならない。

 

我々は、ひどい目に遭うかも知れないが、いずれ王座に座って、逆に迫害者をさばく立場になる。 この事は是非見て行きたい。

 

そして、4節で「また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」とある。

 

この人たちは祝福。

 

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」

 

大事なポイントは、「イエスの証」という事。

 

イエスの証をすると、艱難時代になると、迫害にと止まらず、首をはねられたりする。

 

これは喩えではないと思う。そういう時が来る。

 

その時に、首をはねられる事は、

 

 

 

マタイ

 

14:3実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。

 

14:4それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。14:5ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。

 

14:6たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。

 

14:7それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。  

 

14:8ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」

 

14:9王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。

 

14:10彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。

 

 

 

ここで、首をはねる話が出て来る。

 

黙示録に出て来る、首をはねる話と通じると理解している。

 

バプテスマのヨハネというのは、黙示録の11章に出て来る、2人の預言者に通じる。

 

何故かというと、黙示録11章に出て来る2人の預言者というのは、エリヤ、モーセの特徴がある。

 

「雨が降らないようにした」・・これはエリヤの特徴。

 

他の聖書箇所では、「バプテスマのヨハネこそ来るべきエリヤ」と言われている。

 

ヨハネ。 エリヤ。

 

我々が、終末の時代において、バプテスマのヨハネみたいに、正しい道を語って行くなら、最終的には首をはねられる可能性があるという事。

 

バプテスマのヨハネが言っている事は、「主の為に道を備えよ、曲がった道を真っ直ぐにせよ、谷はうずめられる」とか。

 

レムナントは、道を備える奉仕をしているので、この事は、我々と近い。

 

もう1つは、ヨハネが、首を切られた罪状、怒りを買ったのは、ヘロデヤに問題がある。

 

それは、ユダの王である、国主ヘロデが、兄弟の妻をめとったという事。

 

ピリポの妻をめとってしまった。

 

これは、喩えの意味合いがあると理解している。

 

兄弟の妻というのは、プロテスタント、カトリックの内、プロテスタントの兄弟はカトリック。だから、カトリックの教えを受け入れるという事と理解している。

 

だから、今起きて来ている、カトリックとプロテスタントの合同というのは、これに反対して行く人は、バプテスマのヨハネの様に、首を切られるおそれがあると思う。

 

しかし、ヨハネは屈せずに、どこまでも主張して首を切られてしまったように、行って行かなければならないと思う。

 

兄弟の妻というのは、他でもないプロテスタントが、兄弟の妻カトリックの教えを受け入れて行くという事の喩えだと理解出来る。

 

そういう意味で言うと、レムナントの歩むべき方向というのははっきりしていると思う。

 

たとえ、首を切られようと、切られまいと、バプテスマのヨハネがそうであったように、我々は、この結婚に反対して行くという事。

 

結婚は、カトリックとプロテスタントの合同。

 

これには反対して行く。

 

バプテスマのヨハネが、良い見本を見せている。

 

たとえ首を切られても、言うべき事を言って行ったという事。

 

この事は、我々に対して良い模範。

 

エキュメニカルには絶対反対。

 

状況が変わろうと変わるまいと、言って行かなければならないと思う。

 

今のところ、表立って言う人はいないので、レムナントはこれを言っていきたい。

 

黙示録に戻るが、

 

何故、首を切られたのか。

 

1つの理由は、4節に「イエスの証のために」と書かれている。

 

だから、これから、イエスを証したり、「イエスこそに真の救いがある」という事は、言いづらく、そして、危険な事になって、場合によっては命をかけるような時代が来るという事は、理解しておく。

 

今のキリスト教会の常識では考えられない。

 

クリスチャンが、「私はクリスチャン」だと言ったり、「イエス・キリストが救い主である」というのは、全く普通の事であって、多少は恥ずかしいかも知れないが、命をかける程ではない。  しかし、この言葉が暗示している事は、「イエスを証する」という事が、命がけになる日が必ずやって来るという事を暗示している。

 

今だけの事を見ていてはいけない。

 

今は、日本においてはそこまで状況は悪くないが、必ずその日が来るという事を、聖書は暗示している。

 

「わたしの名のゆえに、あなたがたはすべての人に憎まれる」と、イエス様は言われた。

 

今は、祝福であったり、誇りであったり、晴れがましかったりしているが、それらがひっくり返る時が来る。

 

評判も、思いも、常識も、ひっくり返る時が来る。

 

それは福音書の中にも預言されていると思う。

 

イエス・キリストを十字架につけた群衆というのは、突然湧いてきた人たちではなく、かつての、4千人、5千人の給食に与った人達もいる。

 

また、イエス様のエルサレム入城の時に、「ダビデの子にホサナ」と叫んで、熱狂的に歓迎した人々も含まれる。

 

それらの人々が、ほんの短い間にひっくり返っている。

 

聖書が語っているのは、「キリストの評判が逆転する時が来る」という事。

 

ポイントは、そうであっても我々は、状況が変わっても、「イエスの証」を続けるかどうか。

 

どのクリスチャンも口をそろえて、「この方こそ救い主」と言っている時は良いが、多くのクリスチャンがどんどんひっくり返って、イエスがキリストであることを否定しまっている時に、我々は、留まる事が出来るかという時に、大きなポイントがある。

 

ペテロやヨハネはそう。 群衆がひっくり返っても、留まり続けた。その前にペテロは弱くなって、3回イエス様を否認してはいるが。

 

そして今の時代に、どうも、キリストに関してのインチキがどんどん広がって行く気配がある。

 

例を挙げると、近年、「イエスのDNA」という事をまことしやかに色々調べる人達が出て来ている。  トリノの聖骸布というものがあって、「イエス・キリストが死なれた時に取られた布」

 

だと。 「そこについているDNAを調べる」と言って、調べて、子孫にあたる人々がいるかを探ろうとしている。 そして彼らの結論は見えている。 「イエスの子孫がいた。だからイエスは結婚をして子供をもうけている。」

 

そして、「十字架にかかられたイエス様の話は、実際のイエスと違う」という人々が出て来て、それでひっくり返るクリスチャンは多いと見られる。

 

その時に「イエスの証をするかという事」が大きなポイントになる。

 

もう1つ、「神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」

 

イエス個人に対しての非難、そして御言葉に関しての非難が次々と出て来る。

 

「同性愛は神の前に罪である」という言葉に対して、あからさまな攻撃が来ている。

 

御言葉に留まった故に、場合によっては首をはねられるという事。

 

そういう物騒な時代が来る。 その時にどうかという事。

 

あとは、「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」という事だが、獣の像(個人=反キリストの事)を拝まなかった人たち、手や額に獣の刻印を押されなかった人たち。(獣の刻印を受けるとは、獣の霊を受けるという事)

 

「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」という事。

 

この「千年」とは、喩えで書かれているのか、文字通り書かれているのかは、正直分からない。

 

彼らは復活する。

 

「復活」という言葉を見たい。

 

「復活」という言葉の意味合いは、英語でいう、「死者の間から立ち上がる」とか、そんな意味合いがある。

 

そういう意味で言うと、我々はキリストの復活を望む者だが、その時大事な事は、我々が死者として横たわったクリスチャン生活を送っている時に、復活は難しい。

 

しかし、「眠れるものよ、起きよ」という、死人の内から甦って、「そうしたらキリストは、あなたがたを照らす」というように、我々がそういう死んだような歩みから立ち上がっていく時に、復活にどんどん入って行くのだと意味している感じがする。

 

生きた、復活の歩みをして行くのが一番大事。

 

ここではっきりわかる事は、「首をはねられた人達」は、殉教者。

 

殉教者は、特別な恵みを受けるという事は覚えておく。

 

クリスチャンは、ある人は殉教するし、ある人は、キリストの再臨まで残る人がいる。

 

ただ、明らかに聖書は、殉教する人に対して、特別な誉れを与えているという事も事実なので、殉教は、強制ではないが、一応知っておいた方が良い。

 

 

 

黙示録

 

5:12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 

 

 

と、書いてある。

 

聖書に書いてある事は、どんな事も、神の知恵によって書かれているが、「ほふられた」と別の言葉で「殺された」、「殉教した」者は、「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい。」と書かれている。

 

聖書でいう考え方、聖書でいう常識みたいなものというのは、知っておいた方が良い。

 

ここでは明らかに、ほふられた、殉教に誉れがあるというように書いてある。

 

殉教するかしないかは自由だが、上記に書かれている事は事実。

 

「首をはねられた人達が、千年の間王となって」・・・これは第一の復活。

 

それに与る者は光栄であって、」と書いてあるが、やはりこれは殉教に関しての事。

 

 

 

第一テサロニケ

 

4:13眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

 

4:14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

 

4:15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 

4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

 

 

と、書いてある。

 

ここで書いてあるのは、眠った人々とか、死んでいる人々が優先するという事。

 

13節にある、眠った人々。

 

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」

 

ここは、殉教をも意味している。ここでパウロがテサロニケに行っている時に、殉教の事を言っているわけではないかも知れないが、この世の人々の様に悲しむ必要は無いという事。

 

「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」

 

キリストの死も、十字架なので、殉教の死だが、復活したのと同じように、キリストにあって殉教した人々は復活するという事が、ここで言われている。

 

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」

 

「死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」とは、何を言っているかと言うと、殉教者が何はともあれ必ず優先されるという事。

 

再臨まで生き残って、主を信じているのは幸いだが、やはり殉教者が優先する。

 

そういう事と理解出来る。

 

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、」

 

これらの人々は、殉教者の事だと思う。

 

やはり順番がある。

 

どちらも尊いが、やはり神の前には、殉教者が優先されると理解出来る。

 

これは、明らかに奥義。

 

「絶対こうしなければダメだ」という事ではないが、獣の像を拝まないのが重要。

 

ただ、殉教者が明らかに優先するというのが、聖書の語っている事なので、こういった事は覚えておく。

 

 

 

黙示録

 

20:5そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

 

20:6この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

 

 

 

「第二の死」と書いてある。 それを見て行きたい。

 

「第一の死」「第二の死」というものがある。

 

これを見たい。

 

「第二の死」とは何かと言うと、

 

 

 

20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 

20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

 

 

何を言っているのかと言うと、「第一の死」というのは、どんな人も通る「死」

 

殉教者であろうと、クリスチャンであろうとなかろうと、必ず経験するのが「第一の死」

 

その「第一の死」を経て、最後の審判で、死んだ人々は皆裁かれる。

 

 

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 

 

だから、善い人も悪い人も、必ず「第一の死」は経験するが、その後、死後のさばきによって、行くところが変わって行く。

 

ある人は、いのちの書に名が記されているし、または、いのちの書に名が無く、「火の池」に入る。      この二つ。  それしかない。

 

第二の死は、本当に永遠かも知れないが、死後のさばきで火の池に投げ込まれるのが「第二の死」

 

 

 

20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 

20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

 

 

「第二の死」とは「火の池」に投げ込まれる事。

 

これは、今、知っておくべき。 火の池に入ってからでは遅い。

 

しかし、殉教者には、「第二の死」は関係が無い。

 

20章の6節で「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。」

 

だから殉教者は火の池に入る可能性は、絶対に無いという事。

 

だから、獣の像など拝まずに、首をはねられようが、御言葉、キリストをを否定しない方が良い。  すれすれの人がいる。  しかし、やはり余裕を持った方が良い。

 

聖書の記述は、はっきりしている。

 

殉教者は、第二の死とは無関係。

 

第一の死は、皆が経験する。しかしその後、別れていて、「いのちの書」に名が記されている人はいのちに入るし、名前が記されていない人は皆もれなく、火の池に入る。これが「第二の死」

 

「火の池」が「第二の死」

 

生きている間に、永遠が決まる。 死んだ後のばん回は無い。

 

カトリックの言う「煉獄」などというモノは存在しない。

 

生きている時の行いで決まる。

 

だから、今我々は、第一のものを優先して行くのが正しいと思う。

 

主も言われた。「人が、たとえ全世界を得ても、いのち(永遠の)を損じたら何の得があろうか。人は何をもってそれを取り戻す事が出来ようか」と。

 

我々は、この世の色んな事柄に、一喜一憂する。

 

しかし、最も大事な事に集中すべき。 どう考えても永遠のいのちを得るのが大事なので、そういう意味では、あらゆるサタンの惑わしが来るが、結局は、「永遠の火の池」と「永遠のいのち」の比較の問題。 比べ物にならない。

 

ただ、残念ながら、多くのクリスチャンは、本当の意味で聖書を信じていない。

 

御言葉についていないから、ひっくり返されるクリスチャンが大勢出て来ると思う。

 

読んではいるが、実際に行ないになっていない。

 

だから今、我々は、御言葉を行なう事を訓練して行かなければならない。

 

そうでないと、御言葉が身につかず、ひっくり返されてしまう。

 

今我々が御言葉を行なって行くという事は、その日、ひっくり返らない。

 

また、聖書に書いてある、神の言葉を信じ、今、正しく、霊においても、信仰においても確信して行ったら、その日にひっくり返されることは無い。

 

しかし、周りが大変化した時に、信仰がグラつく人が沢山出て来ると思う。

 

たとえば、地震が来てみないと建物の強度は解らない。

 

阪神大震災を見ても解るように、何千という建物が壊れて、何千という人々が亡くなってしまった。

 

霊的な揺るがしが、これから来ようとしているので、我々はどうするかと言うと、御言葉を行なっていく事が1番の備えだと思う。

 

行なっていく時に、聖書の言葉がどれも真実だという事の確信が湧いてくるので、そうそうひっくり返されたりはしないと思う。