ヨハネの黙示録3章14~22 2015.11.15
3:14また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
七つの教会。 ラオデキヤの教会を見て行きたい。
この教会を見て行く時に、今までもそうだったが、「ラオデキヤ」の、言葉の意味が分かれば、かなりはっきり、この教会の運命が分かる。
しかし、カタカナで、意味も調べなければ、何だか漠然としたまま終わってしまう。
「ラオデキヤ」の、ギリシャ語の意味合いは、こういう言葉から出来ている。
「ラオ」とは「神の民」という意味。
「デキヤ」は「刑罰」
名前が怖い。
主の再臨の時は、「諸国の民の刑罰の時」や、マタイ24章では、その日、人の子が来られ、諸国の民が、嘆き悲しむだとか、または、黙示録の1章の7節には、「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」など、厳しい事が書いてある。
結論として感じたままを言うと、どうも七つの教会の内、分かって来る事は、再臨の時、七つ全ての教会が存在するわけではない。
「見よ、わたしはすぐに来る」と、再臨に関して書かれている言葉というのは、七つの教会の内、四つの教会。 テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ。
フィラデルフィヤ以外、どれも厳しい事が書かれている。
我々は、出来ればフィラデルフィヤの歩みをしていきたい。
ラオデキヤに関しては、「民の刑罰」というニュアンスがある。
ユダ
7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。
この「刑罰」・・・これが「デキヤ」
ラオデキヤという教会に関しては、「民の刑罰」という名前自体が、すでに90%くらい語っているのではないか。
明らかにこれは、刑罰を受ける教会。なので、何故そういう事になるかというと、徐々に見て行くが、一つはやはり、歴史は繰り返すという事。
終末の艱難時代の3年半というのは、イエス・キリストの公生涯の3年半の繰り返しではないか。 その時に、群衆、民は、はじめは良いが、4000人、5000人の給食の時、色々話を聞いたり、熱心そうであった。
しかし、残念ながら、やはり、段々、群衆は、結局は御言葉を行なえない為に、惑わされてしまう。最後は、群衆は、ピラトが、「キリストと言われるイエスをどうするか」と聞いた時、皆、熱狂的に、「十字架につけろ」というように、全然言う事が変わってしまう。
そういう意味で、群衆がひっくり返されるのが、ラオデキヤの教会ではないだろうか。
なぜ群衆がひっくり返されるかというと、やはり霊的なものが大きな原因になるのではないかと思う。 それは、「角笛HP」の記事にも書いたように、「エジプトと呼ばれる都」
聖霊の第三の波、ベニーヒンなど、おかしなリバイバルに導かれて行く中で、変な霊に惑わされて、結局は聖霊を追い出してしまうような方向へ行って、裁きに入ってしまう。
イエス・キリストの時代の群衆も、そうだった。
ピラトが、暗示的な事を聞いている。バラバとイエス・キリスト、二人いるわけだが、「あなた方は誰を赦してほしいのか、バラバか、それともキリストと言われるイエスか」と言った時に、群衆は「バラバを赦せ」と言い、ピラトがまた、「イエスはどうするのか」と聞いた時、「十字架につけろ」と叫んだ。
これは象徴的であり、預言的な事。
終末の日、(キリストという言葉自体が、聖霊に関する預言、キリストとは、油注がれたという意味、油は聖霊そのもの。 イエス・キリスト個人の一人の人の歴史が福音書に書いてあるが、それはまた未来に対しての預言でもある。) 聖霊が、どうなるかという、ある意味では預言。
その時、世の終わりにも、群衆は、結局は悪霊のリバイバルの方を選んで、本当の聖霊の働きを追い出してしまったり、十字架につけてしまうような事になってしまうのではないか。
それが正に、黙示録の11章に書いてある、「ソドム、エジプトと呼ばれる都」この都で彼ら(2人の預言者)の主も、十字架につけられたのである」と書いてある通り。
それが原因で、「民の刑罰」
しかし、全ての民が惑わされたわけではない。
主が十字架につけられる時の、異常な群衆の熱気や、感情の興奮とか、これらには霊的なものが感じられる。「十字架につけろ」とねすごい騒ぎになっている。
世の終わりの時に、惑わしの霊にやられた人は、この様になってしまう。
それに関して主は言われた。
マタイ7章で、「主よ、主よ」と惑わされる事に関連して、洪水に関して語っている。
御言葉を行なう者は、岩の上に家を建てる賢い者、これは弟子の歩み。
しかし、御言葉を行なわない者は、砂の上に家を建てた愚かな者。雨が降って洪水が押し寄せる時に、砂の上に建てた家は、倒れ、その倒れ方はひどい。 これは霊の惑わし。
なので、御言葉を行なわずに歩んで行く時に、やられてしまう。
それもまさに来ている。 「聖霊の第三の波」はまさに霊の洪水。
この様なものに引っかかって行くのは、ろくに御言葉を行なっていないから。
皆が引っかかるわけではない。
引っかかるのは、全然御言葉を行なっていない。 言うだけであって、行なわない人はそういう惑わしに引っかかって行く。
「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」
「忠実で、真実な証人」と書いてある。 証人。
第一ヨハネの5章8節に、KJVでは、「地において証言する者が三つある。御霊と水と血である」と言われた聖霊の事と同じ。
我々は必ず、一度死ぬ事と、死んだ後裁判の場に立つという事が、へブル書に書いてある。
裁判の場というのは、構成がある。原告、被告、裁判官、証人が出て来る。
証言するのは、イエス・キリストの御霊。
我々は、我々の歩みが、御霊に適ったものである時に、何もその裁判の日に恐れることは無い。
何故なら、2人または3人の証人と書いてあるが、証する者が3人いると書いてある。
黙示録
3:15「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
冷たくも熱くも無い。これは生ぬるい信仰。
人間的にも生ぬるいのは良くない。
「熱い」とは、使徒行伝の18章25節では、「霊に燃える」と書いてある。
ローマ書の12章11節では、「熱心に主に仕え」 熱心が、「熱い」
熱くもなく冷たくも無い時に、熱心に仕えていないというニュアンスがある。
また、「冷たくもない」と書いてある。
「冷たい」という言葉がどこに出て来るか。同じ原語が、マタイ10章の42節で、羊と山羊が集められた時に、「あなたは、私がいた時に、冷たい水の一杯を飲ませてくれた」とか。
要するに、正しいクリスチャンが迫害に遭った時に、助けてあげる。そんなニュアンスがある。
「熱くもなく、冷たくも無い」ラオデキヤは、冷たい水の一杯も出さないので、羊と山羊の内、山羊になりそう。
正しいクリスチャンが迫害に遭った時にも、逆に、迫害をどんどん進めるような教会になりそう。 イエス・キリストを「十字架につけろ」と言う類。
どうもラオデキヤには暗雲が立ち込めている。 それは良くない。
3:16このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
生ぬるいから吐き出すというのは、ありうる。
ただ、このように、スラッと読み込めるが、旧約聖書をよく読みこんでいる時に、ここでピン!
と来る人がいる。
レビ記
18:28あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。
これは、カナンの地に入るイスラエル人に対して言っている。
ここに書いてある事柄は、イスラエルが、どうしてカナンの地に入ることが出来たかというと、ある意味では、カナンに住んでいた住民たちが悪い事ばかりしているから、その地がそれに耐えられなくなって、ペッと吐き出したという、そういうニュアンスがある。
カナンの地の人々が追い出された代わりに、イスラエルが入って来た。
このイスラエルが、その時は良いとしても、堕落して、罪に入って行った時に、カナンの地は、イスラエルの人々を吐き出す可能性がある。
この事は、イスラエルの歴史を見て行く時に、現実にイスラエルの民は、吐き出された。
その一つが、北イスラエルの、アッシリアへの捕囚。
つまり吐き出された。御言葉の通り、成就している。
そして、ユダも同じ。 バビロンへ捕囚されてしまった。つまりカナンの地から吐き出された。
それが歴史。
「吐き出す」という事は、少なくとも旧約のイスラエルに成就している。
他でもない七つ目の教会である、ラオデキヤに関しては、同じ言葉が使われている。
「吐き出そう」 このたった一つの言葉も、結構重い意味がある。
旧約の事から分かるように、「吐き出す」とは、単に場所の移動ではない。
ここには喩えが使われている。それは旧約におけるカナン、約束の地。
これは、今の時代においては、我々が、天の御国に入るべき約束の地に関しての喩え。
ラオデキヤに対する「吐き出そう」という「吐き出す」という意味は、ラオデキヤの人々は、本来クリスチャンが入るべき、天の御国に入れない可能性が大いにある。そういった教会。
ここは、ぜひ理解する。
そして黙示録は、七つの封印で封じられている。
滅多な事では、分からない、読めないようになっている。
でも封印を解くならば、言わんとしている隠された意味合いが、明らかにこの教会は危ない、おそらく一番危ない教会ではなかろうか。
黙示録
3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
ラオデキヤの非常に大きな特徴は、この節を読んで分かるように、大きな勘違いをしている。
「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」
「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」
なぜここまでギャップがあるか。 ちょっとした事ではない。
これは、霊的な惑わしではないか。
ラオデキヤの人々には、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と思うべき理由がある。
はっきり言うならば、賜物に満ちている教会ではないかと思う。
「聖霊の第三の波」のように、癒しが起きているとか、奇蹟が起きているとか、金粉のリバイバルが起きているとか、「教会も満員だ」とか。
なので、そう思ってしまうのも無理はないのかも知れない。
どんどん自分を通して、色々な奇蹟とか、癒しとかが現われて来るとか。
しかし、世の中、二つ良い事は無い。
聖書にはそういう言葉は書いてないが、そんなに甘いものではない。
逆に、終末の時代の惑わしとか、サタンの惑わしというのは、クリスチャンの非常に微妙なところを突いて来る。
明らかに我々が理解したところは、おかしな賜物だとか、「豊かになった、乏しいものは何もない」と言っている時に、それは、神の霊ではなく、他の霊であるために、最も肝心な「贖い」が失われて行く可能性がある。
エジプトのポイントは、十の災いが下ったというところ。
十の災いは、みな悪霊に関する災い。
例えば雹の災いは、水が雹になって災いを下すわけだから、これは霊的な災い。
また、蠅の災いは、蠅は、ベルゼブルが蠅の王だから、悪霊。
また、カエルが来た(かえるのような汚れた霊)、これも悪霊。
十の災いが、エジプトに下るが、悪霊的な災いが下って、最後には、エジプトの初子がみな打たれる。
そして、イスラエルの家には、その夜、小羊の血が戸口に塗ってあるので、災いから守られた。
これは「贖い。」
なのでイスラエルの家には贖いがあるけれども、エジプトの民からは贖いが取り去られていって、そして災いが入って行く。 これは「贖い」が明らかに失われて行くこと。
しかも、エジプトの民というのは、「しるしと不思議」という事が度々書いてある。
これは「聖霊の第三の波」でピーターワグナーが、「しるしと不思議」を度々いっている。
「不思議と奇蹟のリバイバルが起きて来る」「しるしと不思議のリバイバルが、素晴らしい神の力で起きている。」
まさにエジプトの災いが、しるしと不思議だと、聖書に出て来る。
なので、今のクリスチャンと、聖書のいう事は大違い。
「聖霊の第三の波」やペンテコステ系の人々は、「すごい神の奇蹟が現われている」と言うけれど、聖書は、これはエジプトの災いであり、悪霊が下っていると言っている。
黙示録の11章に「エジプトと呼ばれる都」と書いてあるように、エジプトは終末の日に無縁ではない。
必ずこれは、全世界の教会に関係して来る。
ソドムという事も関係して来るが、エジプトの悪霊のリバイバルも、どこの教会も関係して来る。
その時に一番大きな問題は、贖いが失われるという事。
ラオデキヤの話に戻るが、みな贖いに関係している。
3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
「みじめ」と書いてある。
ローマ
7:24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ここで「みじめ」という言葉が使われている。 何故みじめかというと、「この死のからだ」の中に閉じ込められて、罪とか、そういうものから解放されないと言っている。
ラオデキヤの教会に関して「あなたは実はみじめなんだ」という時に、「あなたには、奇蹟や癒しがあるかも知れないけれども、霊的には、全然罪から、死から解放されていない」と言っている。
これは、先ほどのエジプトの贖いが、取り去られているという事。 イスラエルの家には、戸口に小羊の血が塗ってあって贖い完了で、死の使いは入って来ないけれども、エジプトの家には、戸口に血が塗っていない。だから災いが入って来る。これは、聖霊が取り去られるという事を言っている。
ラオデキヤの大きな問題というのは、明記はされていないが、暗示しているのは、悪霊の奇蹟を選んだために、聖霊が消え去って、それであるが故に、聖霊はまさに、小羊の血。
第一ヨハネの5章に、御霊と水と血の三つが証するけれども、御霊は、キリストの血でもある。
「血によって贖う」我々の贖いの基本は聖霊。
聖霊があるから、我々は初めて、贖われているが、おかしな「聖霊の第三の波」とかベニーヒンの追っかけをしていると、最も肝心な、聖霊が消え失せてしまう。
だからここで「みじめ」と言っている。これは罪と関係して来る。
クリスチャンの基本の基本である贖いが消え失せているという事を「みじめ」という言葉は言っている。
「みじめであわれ」という事を見てみると、
第一コリント
15:19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
ここでの「哀れ」という言葉がラオデキヤの教会に対しても使われているが、何が哀れかというと、復活を経験しないで、キリストの死からの復活、罪からの解放を経験しないで、単なる希望だと、要するに名目だけ。
ラオデキヤはまさにそうだと聖書は言っている。
「あなた達の言っている、贖いとか、罪からの復活。それは名目であって、ラオデキヤからは、
その実態は取り去られている」と言っているように理解出来る。
最も肝心なものを、悪霊のリバイバルを追っかけていく時に失ってしまう。
二つ良いことは無い。
世の中欲張りな人が多すぎる。
奇蹟も求めていき、癒しも求め、教会の名声とか、たくさん信者も来て、献金も来て、億の家に住み、それでもって「天国は楽勝」だとか、そんな事はうまくいかない。
実際ラオデキヤはそう。
欲張り過ぎた教会。
欲に目が眩んで、肝心なものを失っている教会。
黙示録
3:18わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
白い衣というのは、
7:13長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣をきているこの人たちは、いったいだれですか。
どこから来たのですか」と言った。
7:14そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
この白い衣というのは、小羊の血(聖餐式のぶどう酒に象徴されている聖霊そのもの)、贖いの血(エジプトで過ぎ越しの時に鴨居に塗られた血)で洗って白くした衣。
聖霊を失うという事は、小羊の血を失うという事。
ラオデキヤは、この白い衣を持っていない。
だから、言われている。
「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」
これは、衣を持っていないという事。
小羊の血で洗って聖くされていない、聖霊による贖いを失っているという事。
主は、ラオデキヤの、今の結論は、まさにペンテコステ系で現われている、しるしや不思議のリバイバルだとか、そういうものにぐっと傾倒して行って、悪霊を受け入れるようになって、結果として聖霊を追い出してしまって、その為に、自分の贖いを失った人々。
無いから「買いなさい」とイエス様は言っている。
白い衣を持っていないから。
だから、刑罰をもろに受けてしまう。恐ろしい事になってしまう。
「また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
これも象徴的。 悪霊の惑わしで、全く見えなくなってしまっているという事。
3:19わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
この部分も普通に読めば、すらっと読めてしまうが、よく考えると大変な状況。
神の家である教会に、キリストはおられない(聖霊となって来られたキリストは、外に閉め出されている)。
色んな話が、ラオデキヤには符合する。
悪霊を聖霊と間違えて、ぐっとそれを掴んでしまい、肝心の贖いを失ってしまう。
聖霊こそ、贖いの基本。
ラオデキヤの教会の、最も大きな問題点というのは、悪霊のリバイバルを掴んでしまい、それであるが故に、最も肝心な聖霊を追い出してしまう。しかもそれが分からない。見えない。
だから、「目薬を買って塗れ」という事。
非常に深刻な問題がここに書かれている。
この事は、覚えておく。
世の終わりの、最も大きなポイントは、愚かなクリスチャンが出て来る。
それは、奇蹟や、しるしや、不思議、癒し、預言、賜物に魅かれて、悪霊を掴んでしまう。
それは愚かなおとめ達にも通じる。
彼女たちは油を持っていなかったというけれど、本人たちは、油を持っていない事を自覚していなかった。しかし、何かを持っていた。それは、神の前に油ではなかった。
なので、悪霊のしるしも、悪霊のリバイバルも、癒しも、聖霊に似ている。
色んな人が選り分けられ、聖霊と悪霊の見極めが難しい。
しかし、聖霊にあって見分けて行かないと、永遠のいのちにかかわる問題なので、是非見て行きたい。そうでないと行き着くところは、愚かなおとめ。
キリストの再臨の日に、キリストが「私はあなたを知らない」と言われてしまう。
聖霊を持っていないと言われてしまう。
だから、霊の問題。
賢いおとめと、愚かなおとめの違いは、油だけ。これは聖霊。
霊が違うという、かなり単純な教え。
霊が問題だという事。
世の終わりに関して明らかに、霊的な事柄の区分ができてしまう。
なのでこの事は、明確に見分けて行っていきたい。
どんな詐欺でも引っかかる理由がある。
欲が鍵になる。惑わされないようにしたい。
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
食事はパンに通じ、水、葡萄酒に通じる。
外で、戸を叩いている聖霊(キリスト)を受け入れるなら、真の食事をすることが出来る。
真の御言葉のパンを受け、真の聖霊の水を受ける。
逆に、ラオデキヤは、戸を閉じて、キリストをシャットアウトしている。
なので、他のものを食べている。
悪霊のわけの分からない教えとか、悪霊の水を受けて、「すごい神の霊を受けた」とか言うが、それは違うもの。
ここで食事の事を書いているという事は、「あなたが食べているパンは違うもの」だと暗示している。「あなたが飲んでいる水も、本来の水とは違うもの」だと暗示している。
なので、真の聖霊のパンを食べ、聖霊の霊を受けるのが正しい。
しかしエジプト化した教会では、この事は、殆ど重要視されない。
見た目、すごければ騙されて、贖いを失ったら何の意味も無い。
金粉などの現象に騙されないように。
3:21勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
なので、御霊がこういった事を教えて下さる。
御霊の声をちゃんと聞けば、何の心配もない。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と七回繰り返されている。
ちゃんと聞ける耳になるようにしていきたい。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著