ヨハネの黙示録6章12~17          2015.12.27

 

 

 

6:12私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

 

 

 

地震とは何か。

 

地震は家を揺るがしたり崩したりする。

 

家は「教会」の喩え。  なので、迫害とか、揺るがしが起きるという事。

 

アメリカは地震が起きつつある。   正しいクリスチャンが、子供たちに聖書を教えて、子供が学校に聖書を持って行ったら、教師が怒って、「こんな物ゴミだ」と言って、ゴミ箱に放り投げたうえ、子供の親に、「児童虐待という事になるから、児童相談所に報告する」などと言っている。

 

どんどん、クリスチャンも教会も揺らいでくる。

 

さらに、オーストラリアの教会でも、カナダの教会でも、ヨーロッパの教会でも、牧師がメッセージの中で、「同性愛は、聖書的に許されていない」といったら、前の方で未信者らしい人が、ノートをとって、「動かぬ証拠だ。性的マイノリティーの権利を侵した、憎しみを抱かせるような言動があった」などと言って、実際に牧師が逮捕されている。

 

それでは少し教会は揺らいでしまう。

 

そういう意味での地震が来る。

 

 

 

6:13そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

 

 

 

黙示録は喩えによって書かれている。

 

なので、「天の星」は、アブラハムの子孫が「天の星のよう」

 

アブラハムは、旧約のイスラエルの先祖であるが、新約のイスラエルであるクリスチャンの先祖でもある。 我々クリスチャンは「天の星」 「天」とは、天的な存在。

 

「地に落ちた」というのは、世的な者になるという事。

 

これからクリスチャンが次々と世的な者になる。

 

「キリストが唯一の救い」だと言えなくなってしまう場合など。

 

「地に落ちた」と書いてあるので、実際にこれから起きて来る事の預言。

 

なので我々は、これを見て、書いてある事を悟り、用意して行かなければならない。

 

ここに書いてある事は、これから天にいたクリスチャンが、地に落ちる、つまり、天的なクリスチャンもどんどん世的になるという事。

 

なので我々は、それに備える。

 

「それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。」

 

ここに、「いちじく」がのっているが、福音書にて、イエス様が、実がなっていないいちじくの木をのろった。これも喩えであり、象徴。

 

実がなっていないというところが問題。

 

「いちじく」はクリスチャンの喩え。

 

「ぶどう」、「オリーブ」もクリスチャンの喩え。

 

「御霊の実」がなっていないというところが問題。

 

主の時なのに、実がなっていない。

 

「青い実」と書いてあるけれども、ギリシャ語の訳を調べると、まだ実がなっていない、実が熟していないというニュアンス。

 

御霊の実がなるべきだけれども、ちゃんと熟していないという事。

 

なので先ほどのイエス様の話につながる。

 

そういう意味では明らかに、御霊の実に関しての言葉だと思う。

 

御霊の実がなってない人は、落ちる。

 

御霊の実がなってない人は、振り落とされる。

 

青い実はまだ熟していない状態。  そういう人は落ちる。

 

今の時代、真に御霊を、御霊の実を求めていく人は、今の時代を見分ける。

 

しかし、全く御霊に触れず、この世的な観点でクリスチャン生活を送っていく時、今の時代を

 

見分ける事が出来ない。 だから、なめらかに惑わされて行く。

 

例えば悪霊のリバイバルを神の御業だと思ってしまう。

 

だから、真の意味で、御霊に触れ、御霊の実を結んでいく事が、これからの時代に、おかしな惑わしに入らず、また、天にある歩みをしていたのに地に落とされたりしないという、一つの鍵になっていく。

 

実がなっていない者が、「落ちる」とここでは語っている。

 

実を結んでいれば、そういう地震だとか、揺れ動かしの中でもとどまるという事。

 

御霊の実を結び、賜物を与えられている人が、これからの時代に守られて行く人のポイント。

 

「大風に揺られて」と書いてあるが、聖書の他の箇所を見て行きたい。

 

 

 

エペソ書

 

4:14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、

 

 

 

と書いてある。

 

ここに書いてあるように、「教えの風」というものが、問題になって行く。

 

黙示録613節での「大風」とは「教えの風」の喩えであるという事。

 

黙示録で預言されている事は、たくさんの人が、教えの風に吹きまわされ、御霊の実も落とされたり、天的なクリスチャンであっても惑わされ、「地に落ちる」すなわち世的な者になってしまう時が来るという事の予告であり、預言であり、警告であると理解出来る。

 

これから起きる事は、一つは「地震」つまり迫害とか、クリスチャンに対して色々な揺るがしが来るが、もう一つは、「教えの風」が、キリスト教会に吹き荒れるという事は、よくよく覚えておく。

 

教えの風はいろんな風があるが、「艱難前携挙説」や「レフトビハインド」もまさに「教えの風」

 

キリスト教会に広まっている教えは、すべて吟味なく受け入れよとは、聖書には書いていない。

 

エペソ書の414節でも、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風・・・」と

 

書いてある。

 

なので、教えの風の裏には、悪巧みや、欺く策略とか、そういう事がキリスト教会に起きて来るという事が預言されている。

 

こう言う事を見ずに、何でも、「キリスト教書店に売っているから」とか、「最近有名だから」とか、そんな理由だけで、「レフトビハインド」とか、そういったものをシリーズで買ってしまったり、ビデオを見て学んだりとかは、あまりにも浅薄。

 

それは、「吹き回されている」。

 

また、パーパスドリブンチャーチなど、リックウォレンなどの本を愛読して、イスラム教とキリスト教を合一するとかの教えを受け入れる人は、教えの風に吹きまわされている。

 

その結果は、地に落ちて、世的な者になってしまったり、また、御霊の実が次々と落ちて行き、

 

実を結ばなくなってしまうという結果になるので、そういった事は見て行きたい。

 

「教えの風」という事が黙示録に書いてあるという事は、これからキリスト教会は、増々教理が極端で、非聖書的な方向にクリスチャンを引っ張って行く。

 

そういう教理がどんどん幅をきかせるようになって来る。

 

そして、子供のような人、「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、」

 

と書いてあるように、子供クリスチャンが、残念ながら多くなっていく。

 

殆ど思慮が無い。悪巧みに気づかない。  なのでこの事に関しては、子供であってはいけない。

 

エペソ書で書いてあるように、そういう時代は来る。

 

悪巧み、策略で、教えの風を持って来て、「クリスチャンをこういう風に引っ張ってやろう」とか、「世的な者にしてやろう」と、聖書には、そういう事が警告してある。

 

それなのに引っ張られて行く、というのは、警告を無視しているようなものなので、悪く言えば自業自得だが、我々にあってはそうであってはいけない。

 

そういう時代に、これから増々なって行く。

 

聖書自体に攻撃が来るようにもなる。

 

「キリストは復活していない」とか、「福音書は歴史的におかしい」とか、次々に来るが、何でもかんでも鵜呑みにしてしまうのは子供の歩みなので、そういう所に入らないように気を付けて行きたい。

 

 

 

黙示録

 

6:14天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

 

 

 

天は、消える。

 

我々クリスチャンは、アブラハムの子孫であり、「天的」な存在である筈。

 

「天の星、地の砂」というように。

 

だがその天が無くなるという事は、これから、そういう歩みに関して、攻撃が来る。

 

天的なクリスチャンに対する攻撃。

 

結果、もう教会の中では、天的な歩みというのが、背教の教会の中では、無くなって行く。

 

しかし、荒野へ逃げたり、仮庵の祭をしている人に関しては、天は存在する。

 

しかし背教の教会の中では、天は無くなって行く。

 

みんな世的な、この世についたメッセージや、教理しかなくなってしまう。

 

「キリストは復活しておらず、ただの人間に過ぎない」など、人間的な教えしか、教会で語られなくなる。

 

それらを通して「天」は消えてなくなる。

 

教会もこの世も変わらなくなる。  この世の常識が言われるようになって来る。

 

「同性愛は、性的マイノリティーなので、否定してはいけない」など。

 

その大きな基本として、「巻き物が巻かれる」という事が書かれている。

 

「巻き物」は、聖書の喩えだと思う。

 

御言葉に攻撃が来る。巻き物が巻かれて、見えなくなって行く様に、聖書の御言葉に対して攻撃が来て、そして「あれが違う、これが違う、福音書のここが間違っている」とかが来る。

 

聖書の原典の翻訳でも、すごい攻撃が来ていると我々は理解する。

 

間違いだらけのシナイ写本とか、バチカン写本など、「これが正しい原典だ」とか言って、変なものを掴まされているが、同じようにもっと酷い事が起きて来る事と思う。

 

聖書そのものに対しての攻撃。

 

「あれは間違い、これも間違い、パウロの書簡のこの教えも間違い、旧約の預言者のこの教えも間違い」であるとか、「そもそもイエス・キリストは十字架にかかっていない。生き延びて結婚して子供までもうけている」などが言われて行く。

 

聖書そのものが「巻き上げられる」。

 

なので、我々としては、そういう時代に関して、どうするのか。

 

アメリカにおいて、成績の優秀な学生が、イエス・キリストの事を証して、「キリストによって学びも守られた」とか、これは素晴らしいと思うのだが、それに対してアメリカは躍起となって反対し、裁判所の判断によると、「卒業式の時に、一言でもジーザスと言ったら、その生徒は逮捕される」・・・このような異常な状態である。

 

そのように、アメリカは明らかに獣の様相を呈しているので、聖書に対する憎しみがあり得る。

 

我々はどうなのかというと、一つはそういう時代が来るという事を思って歩むべき。

 

全く知らないと、ビックリしてしまう。  前もって預言されている事と思えば、想定内。

 

弟子たちも、イエス様が、敵に逮捕され、十字架にかかられたが、それは前もって言われた事なので、ある意味、神様の働きの一環だと思って、留まる事が出来た。

 

我々も想定内だと思うべき。

 

聖書への攻撃は来るが、しかし、御言葉の一点一画も揺るぐことは無い。

 

黙示録に書かれた事も全て成就するので、敵の勝利は一時的(三年半)なものであって、獣も、背教者も共に滅びてしまうので、そういった事も見て行きたい。

 

14節の後半で「すべての山や島がその場所から移された。」

 

「山」「島」、これもやはり、教会の喩えではないかと思われる。

 

クリスチャンは「木」に喩えられるが、木が生えているのは山だったりする。

 

なので、「山」とは、クリスチャンがたくさんいる教会ではないだろうか。

 

「島」も教会の喩えではないか。  島は水の上に存在している。

 

「水」は聖霊の喩えだが、聖霊の中を歩む者として教会の喩えではないだろうか。

 

教会が、「動かされる」。

 

「その場所から移された」とは、教会があるべき位置から移されたという事。

 

教会は、キリストの花嫁。神の栄光が現われたりする所。

 

終末の時に、殆ど強制的に、教会は場所から移される。

 

世の終わりの時に、バビロン捕囚があるが、これも「移される」という事。

 

旧約の時代、イスラエルの民はバビロンに捕囚され、「移され」、異邦の地にまで引いて行かれた。これは、物理的な事を通して我々に信仰的な事を語っている。

 

終末の日にも、バビロン捕囚がある。 黙示録に書いてある。

 

一つの意味合いとして、クリスチャンが、あるべき場所から移される。

 

先祖から受け継いだ地より、異邦の地に捕え移される。

 

アブラハムに約束された、約束の地というのは、へブル書によれば、大事な意味合いがある。

 

アブラハムは、もといた地に帰ろうと思えば帰れたが、天の都を望んでいた。

 

我々がバビロン捕囚とか、移されるという事の意味合いは、入るべき天の御国から移されてしまうという意味合いがある。

 

山や島、すなわち教会が移されるという時に、移された教会のクリスチャンは、入るべき所に入れない。 つまり、教会が、教会にならない事を言う。 根本的な教理が変わるという意味。

 

きのうまで「イエス・キリストの名前以外に救いは無い」と言っていたが、移されてしまい、

 

「モハメッドでも、釈迦でも、これもどれも問題ない」などと言うようになる。

 

その様な場所に移される。だから、これから教会の教理とか、立ってる位置とかを、強制的に変えられる日が来る。

 

我々は、好むと好まざると、世界的な規模で、教会が大変動して、全く違うものになってしまうところを見ることになる。

 

今のアメリカの変質を見て行くと、十分あり得そう。

 

日本も同様。

 

それは、残念ながら、自業自得。

 

旧約の時代のバビロン捕囚は、ユダが移されたという事に関して、自業自得の感じがする。

 

彼らは、預言者の声に聞き従わず、御言葉を行なおうとせず、祭司もレビ人もみな背教に入って行った。  その結果、神の怒りが積み上がって、バビロンに捕囚されたと書いてある。

 

そしてそれは終末の時代に再現する。

 

残念ながら、我々ではなく、神がどのように見られるか、どのように怒りを持って今の教会に対するか。  我々は神様に対し、反論は出来ない。

 

これからは、教会が「移される」時代が来る。  根本教理が変えられたする時代が来る。

 

一つは、我々は、そんなにビックリしない事。

 

公の教会は変えられていってしまう。

 

黙示録では、我々が躓かないように、前もって書かれている。

 

なので躓いてはいけない。

 

残念ながら教会は、背教のゆえに移されてしまう。

 

 

 

6:15地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、

 

6:16山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

 

6:17御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

 

 

 

ここで言っている事は、「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人」と書いてあるので、あまりクリスチャンと関係ないと思うかもしれないが、これもみんな喩え。「地上」というのは、先ほど言われた、天とか地という事との兼ね合い。

 

天にいるクリスチャンとは、対称的な人々。なので、「地上の王」とは地につくクリスチャンの総称。 地に住む者。世的になって、この世的な価値観、この世的な歩みについてしまっているクリスチャン。

 

我々が理解しなければならないのは、黙示録の中には度々出て来る、「地に住む者」。

 

殉教者たちは、「地に住む者」達に対する復讐を神に訴えている。

 

なので黙示録の時代に、一つのトレンドとか、キーワードというのは、「地に住む者」すなわちこの世について行くという事。

 

黙示録の時代の、敵の一つの方法というのは、天的なクリスチャンであろうとなかろうと、あらゆる方法で、強制的とか、この世の法律とか、脅かしとか、仲間外れとか、悪評とかを立てて、何が何でも天的なクリスチャンをこの世的なものにしようという、すごいサタンの執念が、起きて来る時代。

 

その時に留まれるかどうか、サタンがそう言ってくるなら意味がある。

 

それでもとどまれる人は、永遠のいのち、狭い門に入って来れる。

 

地に落とされればそれっきり。

 

ここで「地上の王、高官、」とは、全くこの世的な歩みをしているクリスチャンの表現。

 

「奴隷、自由人」は、罪の奴隷が「奴隷」。 罪から自由になったのが「自由人」。

 

全てクリスチャンに対する表現。

 

彼らは、災いに遭う。  小羊の怒りの時が来る。

 

「御怒りの大いなる日」とは、世の終わりに来る、主の日のこと。

 

 

 

ヨエル書

 

1:15ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。

 

 

 

主の日の事であると理解出来る。

 

主の日のことに関しては、理解しておかなければならない。

 

主の日は、どういう日なのかというと、世の終わりの時に、主の日が来る。

 

 

 

マラキ書

 

4:5見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

 

4:6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 

 

 

この箇所を見てわかる事は、一つは、主の日の来る前に、エリヤが来るという事。

 

エリヤが来たら主の日が近いとも言える。

 

「バプテスマのヨハネはエリヤ」だと、主は言われた。

 

「あなたがたが受け入れるなら、この人こそエリヤだ」と。

 

バプテスマのヨハネが来たという事は、ヨハネが来たあの日は、主の日が近かったという事。主の日が具体的にいつかと言うと、イエス・キリストが殺された後の、西暦70年の、エルサレムの崩壊の日が、まさに主の日。

 

それが、終末の主の日の型。

 

それはよくよく覚えておかなければならない。

 

何故なら、確かにエリヤは来たから。  そしてエリヤは、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせたのだけれど、悔い改める人が多少出たのだけれど、結局神の民に対して、怒りが臨んだ。  イエス・キリストを十字架につけて殺した神の民に。

 

この事のパターンが、世の終わりにも繰り返される。

 

かつての主の日には、イエス・キリストを十字架につけて殺した神の民は、エルサレムにて皆殺しにされた。

 

それは終末の主の日の一つの型。

 

本番の主の日は、やはり教会時代の終わりに来る。

 

そうであるがゆえに、黙示録11章には二人の預言者が出て来るが、預言者の特徴は、エリヤの特徴がある。「天を閉ざして雨を降らせないようにする」など。

 

エリヤはまた来る。

 

世の終わりには、主の日が再現する。

 

その時に、主の日というのは、こけ脅しではなく、文字通り、多くのクリスチャンが、命を失う。肉体のいのちも失うだろうし、永遠のいのちも失うようになるという事。

 

そう言う日が来る。 なので我々は、恐ろしい艱難時代を通らねばならないが、獣に従って行くと、もっと恐ろしい事になる。永遠の滅びに入って行ってしまう。

 

この事は覚えておく。

 

 

 

黙示録

 

6:17御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

 

 

 

「御怒りの大いなる日」とは、まさに主の日。

 

「だれがそれに耐えられよう。」という事。

 

この人たちはなぜ、そのような裁きに入るかというと、そのヒントと思われるのが、

 

 

 

6:16山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

 

 

 

「小羊の怒り」と書いてある。  これは、キーワードでありヒント。

 

小羊は、屠られたまいし小羊。  十字架で命を落とされたイエス・キリストは、屠られたまいし小羊。  別の言い方で言うと、その当時のユダヤ人が、キリストを異端扱いし、「罪人だ」と追いつめて、裁判で有罪にして、命を奪った。

 

それが、過ぎ越しの小羊の屠られた時の有様。

 

この事が世の終わりにも再現する。

 

教会時代の終わりにも、新約の教会時代の終わりにも、やはり、キリストが再度、肉体をもって十字架につけられるという事は無いが、小羊の様に正しい歩みをしているクリスチャンが、屠られてしまう。命を失う。

 

小羊の怒りとは、殉教者の血に対しての怒り。

 

正しい人たちを殉教に追い込んだ人たちに対する神の怒り。

 

地上の王、高官、千人隊長とか、世的になったクリスチャンたちはみんな、「原理主義的なクリスチャンはダメだ」とか、「性的マイノリティーの権利を受け入れないからダメだ」とか、「あいつらはカルトだ」とか、そう言う論調に同意して、しかも正しい人達が、罰せられる事に同意して、それこそキリストを「十字架につけろ」と言ったのと同じ意味合いで、正しいクリスチャンが裁かれたり、いのちを失う事に同意して、それに関して神の裁きが来る。

 

我々は、理解しなければならない。

 

それは、殉教とか、正しいクリスチャンが、この世についたクリスチャンから、訴えられたり非難されたりする時が来る。

 

それは見て行かなければならない。

 

イエス様も、「兄弟が兄弟を訴える」と言っておられる。

 

しかし結果は、明白な区分が出来ている。

 

どちらかに、我々は入って行く。

 

人間的には、非難された人の方が、この世においては惨めであったり、評判を失ったり、牢屋に入れられたり、良い事がない。マスコミにも悪く言われたりする。

 

迫害者は狂ったように、洗脳されて行く。

 

しかし、いずれ逆転する。

 

イエス・キリストは十字架につけられたけれども、それで終わるのではなく、40年後には逆転した。

 

やはり、キリストを十字架に追いやった人達は、主の日に、一人残らず、肉体のいのちも含め、死んだ後にも、天国へ入ったとは思えない。

 

あらゆる命を失っている。

 

我々は、行なった事に関して、すべて良い意味でも悪い意味でも、報いを得る。

 

苦難を経た十二弟子たちは、良い報いを受けた。

 

これからもそう。

 

だから、ちょっとした見た目の事で惑わされてはいけない。

 

結局、世についたクリスチャンはろくな事にならない。

 

主の火によって、肉体のいのちも、永遠のいのちも失ってしまう。

 

その様な日が必ず来るので、この辺りは是非見て行かなければならない。

 

黙示録は、正しいクリスチャンが一方的にひどい目に遭うのではなくて、背教のクリスチャンも大変な災いに入るという事も明らかに書かれている。

 

そういったところも見て行きたい。