ヨハネの黙示録6章1~5                 2015.12.13

 

 

 

6:1また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。

 

6:2私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

 

 

 

封印が開かれた。

 

それをもって、世の終わりの事柄が開かれて行く。

 

この章には「馬」に関しての事柄が出て来る。

 

「馬」が何かという事が分からないと、ここに書いてある事が分からない。

 

黙示録で、「馬」が何頭も出て来る箇所は、旧約聖書にも出て来る。

 

 

 

ゼカリヤ書

 

6:1私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。

 

6:2第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、

 

6:3第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。

 

6:4私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。「主よ。これらは何ですか。」

 

 

 

5節に答えがある。

 

 

 

6:5御使いは答えて言った。「これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。

 

 

 

新改訳では、答えが出ていない。

 

KJVでは、「これらは、天の四つの霊」という答えが出ている。

 

黙示録は、ペテロの手紙が言っているように、預言の解釈は、そのテキストのみからでは分からない。  「他をよく引用せよ」という事。

 

明らかにこの箇所(ゼカリヤ書6)が、黙示録に引用されている。

 

しかし、肝心な答えが、日本語の聖書だと出てこない。

 

黙示録で四つの馬が出て来る。 白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬。

 

これは、霊の働き。

 

白い馬は、明らかに、聖霊にあっての勝利、福音の勝利、リバイバルなど。

 

しかし、霊は、善い霊だけではない。

 

赤い霊は殺し合う。  悪い霊もある。

 

第二テサロニケを見て行く時に、主は、「惑わしの霊を送り込む」と書いてある。

 

四つの馬は、聖霊の働きもあるが、惑わし、飢饉、殺し合い、争いなど、悪い霊の働きも多いにある。

 

キリスト教会の働きというのは、我々が思っている以上に、霊の働きは非常に強いということを理解しなければならない。

 

我々人間は、知性とか知識とかが優先だと思うかもしれないが、そうではない。

 

どういう霊を掴んでいるかが、かなりその人の歩み、行動に影響を及ぼす。

 

知的な学びも大事であるし、聖書を読んで知識を得るというのも大事だけれども、何といっても我々が、祈りの中で聖霊に触れていく事が、最も基本的な事柄。

 

黙示録の四つの馬に関しては、これからキリスト教会に働く霊が変わって来るという事。

 

その中で、ある時には、神の働きが現われるが、その後には、争い、惑わし、災いの霊などの働きも許される時が来る。

 

そういう事が語られているのが、黙示録の64節。  これは「霊」

 

霊の働きが、刻々と変わって来る。 天気のように、キリスト教会に起きて来る、霊の働きが変わって来る。

 

この事は是非見ておく。

 

 

 

黙示録

 

6:2私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

 

 

 

「白」という色で、大事な事を表している。

 

「白」は、例えば、「義の衣」

 

 

 

マタイ

 

12:2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

 

 

 

白は正しい義を表しているという意味合い。

 

なので白は、福音、正しさ、義、罪は無いという事。

 

「それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」

 

これを説明するならば、これから神の働きが、大きく広がるという事。

 

別の聖書の言葉で言えば、「大豊作」が始まるという事。

 

 

 

創世記

 

41:28これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。

 

41:29今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。

 

41:30それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、

 

41:31この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。

 

 

 

書いてある通り、ヨセフが見た夢というのは、七年の豊作と、七年の飢饉の事だが、順番がある。

 

まず、七年の豊作があって、その後、七年の飢饉がある。

 

人間的な考えをするなら、飢饉の後に、豊作があって欲しいところだが、聖書はそういう順番では語っていない。

 

先に豊作があるが、後の飢饉で消えて行く。

 

これは、今我々が読んでいる、黙示録6章の順番でもある。

 

先に白い馬が来て、大豊作。

 

これからキリスト教の、大リバイバルとか、福音の宣教が進む、聖霊の傾注があるというのは、

 

これから起きようとしている。

 

聖書の中で、預言されている。

 

イスラエルには、二回雨が降る。

 

「初めの雨」「後の雨」という。

 

初めの雨は、最初のペンテコステとして、初穂の祭りをもたらすが、後の雨で、大豊作をもたらす。

 

これから後の雨が来ようとしている。

 

聖霊の大傾注があると思われる。 また、福音宣教が、大いに実を結ぶ。

 

我々が理解するなら、聖書の所々でこの事が語られている。

 

例えば、カナの婚姻でも、二回ぶどう酒が出て来る。

 

初めのぶどう酒が無くなった時、イエス様が六つの瓶に水を満たさせた時、水がぶどう酒に変わる。 ふつうは初めに良いぶどう酒が出され、後に悪いぶどう酒が出されるものだが、この時の場合、後にも良いぶどう酒が出されている。

 

二回ぶどう酒が出されている。

 

「初めの雨」と「後の雨」

 

しかも、後の方が量が多い。そういう時が来る。

 

これから豊作が来る。

 

しかし、それでハッピーエンドではなく、さらに後で大飢饉が来る。

 

四つの馬でも、最初に白い馬が来るが、後で黒い馬が来たり、青白い馬が来たり、赤い馬が来たりなど、次第に不吉になって行く。

 

黒は、飢饉が来る。

 

初めに豊作が来て、後に飢饉が来る。

 

ヨセフの夢の解き明かしは、終わりの時代の預言。

 

七は七つ目のミレニアム。

 

まさに今がこの時代。

 

今我々はこの時代にいる。

 

まさに預言が成就する時代に、我々はいる。

 

「それに乗っている者は弓を持っていた。」とある。

 

詩編の45編の5節で、「あなたの矢は鋭く、主の敵の心臓を射抜く」とか、その様に敵を倒す

 

方が来ることが示されている。

 

「彼は冠を与えられた」と書いてあるが、引用箇所では、第一コリントの924節で、「朽ちない冠、勝利の冠」

 

「冠」とは、「ステファノ」という発音をする。

 

ステファノという人がいたが、彼は勝利の冠を得た。

 

我々は、そういった勝利を得るようになる。

 

「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」

 

勝利という言葉も良い言葉。

 

ヨハネの1633節で主は言われた。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

 

「世に勝つ者は誰か」そういう意味の勝利。

 

なのでこれから、良いことずくめの七年間の「大豊作」が来るという事は、ヨセフの時以来予表されている事が来る。

 

それに関連して、我々がどうしなければならないかというと、具体的には、ヨセフの所に書いてある通りの事。  ヨセフは夢を解き明かし、「知恵のある人に、これからの豊作を任せて、管理しなさい。そうしたら、飢饉のときにも対応できます。」と言ったら、パロは、「これ以上知恵のある人は、他には探せない」と言って、ヨセフはその係になった。

 

ヨセフは一番偉い大臣になった。ヨセフは賢かった。

 

実際、彼の夢の通り、七年間の豊作が来て、たくさんの倉を作り、そこに食物を入れておいた。

 

飢饉が来た時、賢く対応できた。

 

これには語り掛けがある。

 

我々もそういう事を前もって知っているので、タイムリーに、月刊バイブルを配ったり、未信者向けのブログを開いたり、これから、働きが広がる。

 

レムナントも、場所を用意できればいいかと思い、今は、物質的には何もないが、牧師は個人的に祈っている。

 

定期で借りられる場所を借りられるように。

 

そうすればその日に間に合うかもしれない。

 

用意をして行かなければならない。

 

 

 

黙示録

 

6:3小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

 

6:4すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

 

 

 

この箇所も他の箇所を参照したい。

 

火のように赤い馬。火に関係している。

 

 

 

ルカ

 

12:49わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っている事でしょう。

 

12:50しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。

 

12:51あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。

 

12:52今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。

 

12:53父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」

 

 

 

ここでまさに、ルカの方で書いてある事は、黙示録で書いてある赤い馬と同じ事が書いてある。

 

黙示録の赤い馬では、「火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。」

 

だから、地上から平和を奪い取るという事は、分裂とか争い。

 

ルカの方にも書いてある。

 

火が投げ込まれた後は、分裂が起きる。

 

「一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。」

 

これは何かというと「霊」

 

バプテスマと言うと、「聖霊」と書いてあるので、聖霊が下る。

 

「地に火を投げ込むため」と言っているように、主は、霊の火を下すため、聖霊の火を下すために来られた。

 

この事は、ペンテコステの日に成就した。

 

ペンテコステの日に下った聖霊は、火のようなものが各自の上にとどまったと書いてあるように、これこそまさに、主が願っておられた聖霊の火。

 

でも、ペンテコステの日の事を見ても分かるように、火が下ったから、ユダヤ人たちは、みんな平和かというと、そうではない。

 

ペンテコステの後の事は、使徒行伝を見ても分かるように、その後は分裂が起こった。

 

ユダヤ教徒の中でも分裂があったり、三人がふたりに、ふたりが三人に。

 

その後、特にパウロがそうであったように、ユダヤ教の会堂に行って、聖霊の働きをもっていこうとすると、大分裂が起き、大騒ぎになった。

 

「あいつは生かしておけない」

 

聖霊が来ても何でそうなるのか。

 

これは、はっきり言うなら、霊が違う、火が違うという事。

 

他の聖書箇所にも書いてある。

 

「古い革袋に、新しいぶどう酒を入れてはいけない。そんな事をしたら、古い革袋は裂けてしまって、両方ともだめになってしまう」

 

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない。 まさにこの事を言っている。

 

革袋とは、教会の事。

 

ユダヤ教の会堂は、古い革袋だから、そこに新しい聖霊の働きを持って行っても無理。

 

新しく教会が出来上がって、そこに新しい聖霊の働きが始まった。新しい革袋に、新しいぶどう酒が入った。

 

古いぶどう酒と、新しいぶどう酒というように、霊が違う。

 

古いぶどう酒と言われる類の「霊」がある。

 

また、新しいぶどう酒と言われる類の「霊」がある。

 

レムナントは、新しいぶどう酒を目指しており、それを受けようとしている。

 

「新しい革袋」を作ろうとしている。

 

だから、仮庵の祭を細々とやっている。

 

レムナントは地下教会。

 

そういう意味で、これから起きて来るのは、「地上から平和が奪い取られる」というように、霊が違うために、どんどんキリスト教会の中で、互いを訴え合うような、そういった事になって行く。  パウロは、聖霊の働きを持って各ユダヤ教の会堂へ行ったけれども、ユダヤ教徒はみんな怒ってしまい、「パウロを殺すまでは、決して食事をしない」とか言う者も出て来たので、パウロは逃げた。

 

これもまた、霊の働き。

 

これから我々は、聖霊の働きを担ったり、新しいぶどう酒、新しい革袋に関連して行っていく時に、避けられないのは、やはり、古いぶどう酒とか、そういった人たちとぶつかって来るという事。

 

はっきり言うが、「聖霊の第三の波」「ベニーヒン」とかは、明らかに、古いぶどう酒。

 

霊に触れると、意見が変わって来る。

 

霊が、その人の思想、考え、教理とか、思いにずっと影響する。

 

受けている霊が違うという事は、大きな違いとなり、「互いに殺し合う」と書いてあるし、最後は、訴え合うようになる。

 

しかしこれらの全ての基本は、霊的な事柄であるということは理解しておく。

 

もう一つの例は、イエス・キリストを十字架につけて、群衆はヒステリックに、「十字架につけろ」と叫んだ。 これは「霊」

 

群衆はやはり、岩の上に家を建てた歩みではなく、砂の上に家を建てた歩みであったために、カルバリの丘で、主が十字架につけられる時、つまり雨が降って洪水が押し寄せて来た時、すなわち惑わしの霊の洪水がぐっと押し寄せた時、その時にひとたまりも無く、群衆はみんないっぺんに変わってしまった。 ほんの一週間くらいの間だった。「ダビデの子にホサナ」と言っていた人たちである。

 

雨が降って洪水が押し寄せて来た時、その倒れ方はひどい。

 

こういうのが、これから来る。

 

その時に、岩の上に家を建てた人は、とどまる。

 

しかし、何も行わないで、話半分の人は危ない。

 

行なって行かないと、洪水の日に倒されてしまう。

 

 

 

黙示録

 

6:4すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。                 

 

 

 

「人々が、互いに殺し合うようになるためであった。」というのは本当。

 

兄弟が、兄弟を訴えるという意味合い。兄弟が兄弟を死に至らしめるという意味合い。

 

また、「また、彼に大きな剣が与えられた。」とあるが、これも喩え。

 

 

 

エゼキエル書

 

21:9「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。

 

21:10虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。

 

21:11その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。

 

21:12叫べ。泣きわめけ。人の子よ。それはわたしの民の上に下り、イスラエルのすべての君主たちの上に下るからだ。剣への恐れがわたしの民に起こる。それゆえ、あなたはももを打って嘆け。

 

 

 

21:14人の子よ。預言して手を打ち鳴らせ。剣を二倍にし、三倍にして、人を刺し殺す剣とし、大いに人を刺し殺す剣として、彼らを取り囲め。

 

 

 

二倍、三倍なので大きな剣。 先ほどの黙示録で「大きな剣が与えられた」とあるのはこの箇所からの引用。

 

これは、御言葉、教理に関する事柄。

 

巧妙な教理が、キリスト教会に入って来るという事。

 

それをもって、大いに惑わされてしまう。

 

アメリカのキリスト教会も、すでに惑わされている。

 

惑わされて、大統領が獣のようになって「イラクを攻撃しろ」とか言った時に、熱狂的に賛成したりする。これは、剣。

 

聖書には「殺すな」と書いてある。しかし殺すことに加担している。

 

インチキがアメリカのキリスト教会で横行している。

 

これはまさに、剣に関連している。

 

どんどん教理が惑わされている。

 

 

 

黙示録

 

6:5小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。

 

6:6すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

 

第三の生き物は、黒い馬。

 

黒は、白の反対の色。

 

白が福音、御言葉の勝利であり、正しい事を表すならば、黒は、明らかに罪。罪が、蔓延して行く。そういう意味では、ヨセフの夢は、成就している。

 

先に七年の豊作が来るが、その後、七年の飢饉が来る。そうなって来る。

 

白は義、正しさを表すなら、黒は、反対に「罪」を表す。

 

「これに乗っている者は量りを手に持っていた。」という事だが、日本語では分かりにくい。

 

他でも思いがけないところで引用されている。

 

 

 

ガラテヤ書

 

5:1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 

 

 

この中で、「量り」と同じ原語がギリシャ語で書かれているが、「くびき」という言葉が、「量り」と同じ意味。

 

要は、「重り」という事。

 

黙示録に戻って、「量り」 黒は罪であって、罪の重り。罪の重りをクリスチャンに負わせるような霊の働きが来る。

 

なので、罪がどんどん蔓延して行くという事。

 

黒い馬は、一般的な事柄で言っているのは、「罪」の事。

 

白は「義」であるから。

 

聖書の中では、テサロニケの手紙の中で、反キリストの事が預言されている。

 

彼の名を「不法の子」と日本語で書いてあるが、KJVでは、「罪の子」

 

その名の通り、反キリストがキリスト教会をリードし、キリストの代わりに、教会の主となる時に、罪が、大いに奨励されて行く。

 

教会は、最初は白い馬でリバイバルがあるが、次第に悪い方向へ行って、罪がぐっと蔓延している時に来るという事を覚えておく。 反キリストはまさに罪の子。

 

なので、これから起きて来る悪いトレンドは、正しい事を変えて、白を黒とする。

 

そうして罪を行なわせようとするトレンドが、これからキリスト教会に来るという、この事を理解する。  罪が蔓延する時代になって来る。

 

今すでに、兆しは見えている。

 

例えば同性愛。旧約聖書にも度々、同性愛に関しては忌むべき罪だと書いてあるし、しかもソドムは、同性愛のゆえに滅ぼされた。

 

神の態度は、はっきりしている。

 

新約聖書においても、ローマ書にて、「彼らは、神を知ろうとしないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、男と男、女と女でしてはならない事をするようになった。」

 

同性愛とは、罪、神から離れた結果であって、「当然の報いをその身に受けている」 エイズになったりしている。

 

しかし、それが、公然と今、崩れつつある。

 

同性同士の結婚を祝っている牧師もいる。

 

日本でもそんな雰囲気が来ている。 渋谷区で同性婚が認められている。

 

「同性婚を認めない企業を公表する」など。

 

これが教会にもいずれ来る可能性がある。

 

罪が蔓延している。 法律、また、キリスト教会の中でも。

 

新聞、テレビ、インターネット。 いずれも同性愛を、認めて当然という空気がある。

 

「性的マイノリティーを認めろ。非難するなどとんでもない」という風潮がある。

 

黒い馬とは、そういう霊が働いている。  罪を蔓延させる霊が来ている。