ヨハネの黙示録6章7~12          2015.12.20

 

 

 

6:7小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

 

6:8私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

 

 

 

四匹の馬が出て来る。

 

順番としては、白、赤、黒、青白。

 

馬は、霊。

 

これからキリスト教会を、霊的な事が席巻して行くという事。

 

最初は白。 リバイバルが席巻し、予てから預言されていた、終末の日の、聖霊の大傾注。

 

ヨセフの時に預言されていた、七年の大豊作が起きて来る。

 

この事に備えて行くのが正しいので、レムナントは、徐々に我々の出来る範囲内で備えをして行こうと思う。

 

今は、未信者が、福音にあまり耳に傾けなくても、その時のために、証とメッセージを徐々に増やして行こうと思う。

 

その後の「赤」は、争いが起きる。リバイバルの後の、キリスト教会内の争い。

 

霊による火。

 

黒は白()の反対、すなわち「罪」

 

ヨセフの夢が暗示的、初めに七年の豊作がある。

 

しかし、ハッピーエンドでは終わらず、その後には七年の飢饉が来る。

 

まさに、黒とか赤、飢饉に向かっている。

 

そして、「青ざめた馬」

 

「青ざめた」という事を見て行きたい。

 

日本語だけでは、追及するに忍び難い。

 

どこで使われているか。

 

一つは、マルコ639節の中で、五千人の給食の時に、「みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。」と書いてある。

 

その、「青草」という言葉が、まさに、「青ざめた」と同じ言葉。

 

なので「青」は何かというと、「草」の色。

 

 

 

黙示録

 

8:7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

 

これは、災いが下った箇所。 火は霊的な事柄。    この時に、大変な事が起きた。

 

地上の三分の一が焼け、木も焼けた。さらに、青草が全部焼けた。

 

青草が全部焼けたら、羊、牛の食べ物、すなわちクリスチャン(羊とか牛はクリスチャンを喩えている)の食べ物、御言葉、教えがみんな焼けてしまったという事。

 

黙示録の6章の災いは何か。

 

「青ざめた馬」この訳は日本語では分からない。

 

実は「草の色」    もっとはっきり言えば、「食べ物」の色。「御言葉、教理」に関しての色。

 

「青ざめた馬」に関しての災いというのは、クリスチャンが食べる御言葉や教理に関しての災いが来るという事。  ここで言われている事は、御言葉に関しての攻撃、災いが来る。

 

その結果、「これに乗っている者の名は死」と言うので、これから御言葉が改ざんされて、いのちのみ言葉が、どんどん教理が変えられて、死とか罪に入って行く様になる。

 

例えば、「同性愛が正しいと聖書は言っている」など、とんでもない事になって行く。

 

「その後にハデスがつき従った。」とある。  ハデスがどういう場所か。火の地獄である。

 

御言葉が改ざんされ、インチキな教理が蔓延し、「死」そして、クリスチャンが次々に滅びに入って行く、そういうとんでもない時が来る。

 

「彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」

 

剣は、御言葉、教理。  飢饉も、御言葉の飢饉。

 

明らかに、「青草」は、御言葉に関して言われており、御言葉に関しての災いが来るという事。

 

今、その兆しが、アメリカを始めとしたキリスト教会に来ているというように理解出来る。

 

アメリカでは、国をあげて、御言葉に対しての戦いが来ている。

 

その中で、残念ながら、獣が勝利する。何故なら、「獣は聖徒に打ち勝った」と書いてある。

 

何故、神の聖徒であるクリスチャンが負けるかというと、背信であり、罪に入っていたりするから。 旧約聖書のユダ、イスラエルを見ればわかる。

 

ユダ、イスラエルは、神の民なのだから、他の異邦人に負けるはずがないのだが、負けている。

 

ユダはバビロンに負けて捕囚されている。それは、彼らが神に対して背信であり、言葉をあざけったりしていたから。  結果としてそうなった。

 

これからキリスト教会は、教理も含め、ひっくり返されてしまう。

 

宮の崩壊で、主が言われたように、宮の礎石である使徒、預言者の教えがひっくり返され、隅のかしら石であるイエス・キリストの救い、贖いの教えもひっくり返されてしまう。

 

それがまさに「青ざめた」青い草とか、御言葉に関して言っている。

 

これから御言葉に対して攻撃が来る。

 

そういう意味では、ヨセフの見た預言は、正しい。

 

最初に、大豊作の七年が来るが、その後に七年の飢饉が来る。災いが来る。

 

しかも、豊作が全く消え失せるような飢饉が来る。

 

表現は違うが、黙示録の四つの馬でも表現されている。

 

そういう時が、これから来るとしたら、我々はどうしたら良いのか。

 

レムナントはすでに準備をしている。

 

公の教会は、災いに入って行く。

 

主が言われているのは、「屋上にいる人」仮庵の祭でせっかく屋上に行った人は、間違えても家の中に、物を取り出そうとして戻るな、(牧師の招へい?)仮庵の祭にいる牧師は、公の教会に行くな、という事。  これは、自己責任。

 

教会は、根本的な教理まで変えられてしまうので、知らないふりをしている訳にはいかないので、地下教会に集うべき。

 

レムナントは、非公認の地下教会であり、宗教法人にもならない。

 

たとえ税金優遇処置が来ても、拒否する。公認の教会にはならない。

 

これからも、地下教会として留まる。

 

 

 

6:9小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

 

 

 

キリスト教会は、残念ながら、増々背教に入って行く。

 

正しい人々の殉教さえもある。

 

 

 

6:10彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

 

 

殉教者が言っているのは、「地に住む者」が問題になる。

 

「地に住む者」とは、英語で読むと「定住する」というニュアンスがある。

 

これは、聖書的には良くない事。

 

聖書にはっきり書いてある。

 

アブラハム、イサク、ヤコブ。  信仰の先祖たちというのは、旅人、寄留者だった。

 

これは意味がある。

 

それは、クリスチャンのあるべき姿を、喩えを通して語っている。

 

それは、へブル書に書いてあるように、彼らが帰る故郷の事を思うなら、帰ろうとすれば帰れない事もなかったけれども、彼らは、さらにすぐれた故郷、天における都を求めていた。

 

これは地上においては、旅人、寄留者であるという事と、この地に住む者、定住する者というのは、明らかに対称的。

 

聖書的に正しいのは、地においては、旅人、寄留者であるという事。

 

我々もそう。

 

だから、この地に住んではいるが、心構えとして、地に定住はしない。

 

つまり、「世をも、世にあるものをも、愛してはいけない」---ヨハネの手紙。

 

しかし、地に住む者というのは、明らかにこの世に定住している。

 

地に住む者は、明らかにクリスチャン。

 

なので、我々はいくつかのトレンドを、キリスト教会に関して見て行かなければならない。

 

一つは、クリスチャンが地に住み、定住し、この世の価値観とか、この世の方法、意見などを

 

次々に取り入れていって、そういう人たちが仇になって、正しいクリスチャンを迫害して行く。

 

アメリカに関して見て行ってもそんな感じ。

 

一方では、御言葉に基づいて、「同性愛は聖書が禁じているのでやめよう」と語って逮捕された人たちが、たくさんいる。

 

反面、ニコニコしながら、同性婚の司式をしている牧師もいる。

 

地に住む者とはこういう者。

 

この世の価値観を受け入れている。 そういう人たちが、結局は、正しい人たちを迫害するようになって行く。

 

イエス様の時もそうだった。

 

キリストを最も迫害したのは、明らかにピラトや異邦人ではない。

 

律法学者、パリサイ人らユダヤ人だった。 みな「聖書を信じている」と言い、神の民だと言い、「安息日を守っている」とか、そういう人たちが、キリストを迫害したり、「十字架につけろ」と言っている。

 

これは終末の時代に再現する。

 

我々は、ビックリしてはいけない。

 

今はそこまで顕著ではないにしても、これからアメリカを始めとして、クリスチャンの間で、

 

他のクリスチャンを非難したり、この世についたクリスチャンが、正しいクリスチャンを法律で訴えたりなどが頻繁に起きて来る。そういう時代が来る。

 

その時に、躓いてしまってはいけない。

 

ある意味、神の御手の中にある事だから。

 

黙示録は、その様な事の為に書かれている。我々が躓かないため。

 

弟子たちもそう。

 

弟子たちが、キリストが十字架にかけられて亡くなってしまっても、がっかりして去って行ったりしないのは、前もってその事を言われていたから。

 

すべて想定内なので、躓いて倒れてしまわない。

 

「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された」と書いてあるように、黙示録の時代になって来ると、どうしても殉教を避けて通れない人々もいる。

 

これからサタンが狙って来る、また、クリスチャンが問われるのは、逮捕、投獄、場合によっては有罪、さらに死刑。 それでも御言葉につくかどうかの試しがこれから来る。

 

これは、避けて通れない。  全員というわけではないが。

 

今は、御言葉を語ったり、御言葉についているけれども、今だけの事ばかり考えてはいられない。 こういう時が来たらどうするか。

 

そういう意味で、アメリカのクリスチャンが、いち早く、「どうするか」という選択が来ている。  ある人達は、「同性愛はダメだという事を御言葉が語っている」と、果敢に同性愛者たちの集会まで赴いて警告をしている。結果、逮捕された。

 

彼らは犠牲を払っている。  また、同性婚を望むカップルが、市職員に「受け付けろ」と迫ったが、その職員は、「私はクリスチャンとして、同性婚を受け付ける事は出来ない」と言い、逮捕された。 「どうするか」  アメリカのクリスチャンはやはり、自分で選択し、犠牲を払う。 その逮捕された市役所の職員は、ある意味、犠牲を払った。

 

そういう「選択」が、いずれ日本にも来る事と思う。

 

今すぐとは言わないが。

 

しかし、「その時どうするか」という事を我々日本のクリスチャンも、どこかで決めなければならない時が来る。

 

これは、教会で強制する事ではない。  メッセージにてお勧めはするが。

 

最終的な決断は、一人一人にある。

 

ただ、間違った指針を教会でするわけにはいかないので、これから来る時代に関して、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのため」と書いてあるから、我々が御言葉に留まって行ったら、どちらかを選び、決断しなければならない時が、来る可能性があるという事を覚えておきたい。

 

 

 

6:11すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

 

 

 

「ひとりひとりに白い衣」・・・これは「義の衣」であり、それは、永遠のいのちに通じるので、殉教者は、どんなに間違えても、永遠のいのちを得るので、そういう意味では全く心配はない。

 

ここで書かれているのは、「人々の数が満ちる」ということが書いてある。

 

 

 

マタイ

 

23:32あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

23:33おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

23:34だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。23:35それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。 

 

23:36まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。

 

 

 

ここは、先ほどの黙示録で言っている、「数が満ちる」という言葉と似ており、同じ事を言っていると思える。

 

何が書いてあるかというと、律法学者、パリサイ人達が、実は、「罪の目盛りの不足分を満たし」・・・要するに、「殺される人達の数を満たしていけ」という事。

 

実際にそうである。「そのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。」と書いてあるように、また、「義人アベルの血から」・・・これは殉教者の意味合い。

 

この箇所と似ているというのは、黙示録6章で、「殺されるはずの人々の数が満ちる」というのは、ここでいう律法学者、パリサイ人と同じように、これは、新約においても、教会の人々、背教した教会の人々が、正しい人を殉教に追い込むという事が、想像できる。

 

この世の人が全く関係しないとは言わないが、メインは、マタイ23章で書いてある律法学者、パリサイ人とはっきり書いてある。宗教の専門家である彼らが、正しい人たちを殉教に追い込んだ。それをもって、「先祖の罪の目盛り」を殉教者の血で満たそうとしている。

 

同じように、黙示録6章においても、明らかに、教会における背教したクリスチャンたちが、

 

正しい人々を殉教に追い込むと考えられる。

 

その結果、マタイ236節の「まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」

 

その通り、西暦70年、イエス・キリストが殺されて40(一時代)後、その報いが来た。

 

エルサレムにて、律法学者、パリサイ人はもとい、最後の一人まで神の裁き、罰によって殺されてしまった。

 

これは何を言っているのかというと、殉教者の血は、黙示録においても再現して、必ず、正しい人たちを迫害した者たちに裁きをもたらす。

 

迫害した人達は、一時的には良さそうだけれども、神が書かれた事は必ず成就するので、最後にはろくな事にならない。

 

殉教も大変だが、火と硫黄の池の裁きの方がよほど恐ろしい。

 

なので、御言葉に固く立って、命を失った方がよほど良い。

 

必ず報いは来る。

 

万一、神の御言葉のゆえに、迫害を受けたり、非難されたり、訴えられたり、また死刑にされた時でも、惑わされたクリスチャンが訴えるかも知れないが、個人的に仕返しをしない方が良い。  神が報復を行なわれる。   かつての日もそうだった。

 

西暦70年にエルサレムに起きた事が、終わりの時代にも再現する。 復讐は神のなさる事なので、万一神の言葉のゆえに迫害に遭ったとしても、自分で復讐しようとしてはいけない。

 

遠からず、迫害者たちは、神の凄まじい裁きに入るので、そういう意味では心配をする必要は無い。

 

 

 

黙示録

 

6:12私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

 

 

 

太陽が黒くなり、月が血のようになった。

 

この箇所と似ている個所がある。

 

 

 

ヨエル書

 

2:10その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

 

 

 

2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし主の名を呼ぶ者はみな救われる。

 

 

 

なので、黙示録のその箇所は、ヨエル書の引用であると考える。

 

何を言っているかというと、黙示録6章では明言はしていないが、ヨエル書2章に起きた事柄が、黙示録の日に再現すると理解出来る。

 

ヨエル書2章では、終末の日に起きて来る災いに関して書いてある。

 

 

 

2:1シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。

 

 

 

主の日は一つの日と言われている。主の日は、終末の日なので、まさにヨエル書が、終末の日、災いの日に関して言われている。

 

 

 

2:2やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。

 

 

 

「数多く強い民」というように、災いは、自然に起こるのではなくて、ある意図的な民と書いてあるように、人々を通してキリスト教会に災いがもたらされるという事が、ここで暗示されていると思う。

 

 

 

2:3彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。

 

 

 

火は霊的な事柄。

 

「聖霊の第三の波」「トロントビデオ」「ペンサコーラ」で書いてあるように、なめ尽くされて、惑わしの霊の火によって、キリスト教会は荒廃する。

 

「彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。」

 

エデンの園のようであるのは教会の事。

 

エデンの園が荒野となって、荒れ果てるという事。

 

今のキリスト教会を席巻している「聖霊の第三の波」以来、アメリカにはおかしなリバイバルがずっと席巻している。

 

日本でもそういった集会が、度々来ているが、これは、災いがどんどん広がっているという事。祝福ではない。文句では「祝福」などと言っているが、違う。

 

しかもこれはね意図的な人達が、こういうリバイバルをもたらしている。

 

「民」と書いてあるが、ベニーヒン、ビルハモンなど色々いる。

 

 

 

2:4その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。

 

2:5さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。

 

 

 

祝福の為に、こういったリバイバルとか器は動いているのではない。

 

戦車の軋るように、戦いと思っている。

 

キリスト教会を滅ぼそうと思っている。

 

「トロントビデオ」でまさに分かる。  皆は「神の祝福」だと思っても、裏の方でベニーヒンが、「デーモン、デーモン、デーモン」と叫んで悪霊を呼び出している。

 

これは戦い。

 

 

 

2:6その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。

 

 

 

「青ざめる」・・「どうしてこんな悪霊のリバイバルが広がっているんだ?どうしてこんな教理が」と言った具合に、やられて行く。

 

 

 

2:7それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。

 

 

 

「城壁をよじ登る」・・敵の町を攻略する。 彼らにとってキリスト教は「敵の地」

 

よじ登って、おかしな教理やおかしな霊を下している。

 

 

 

2:8互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。

 

 

 

霊にもそれぞれ役割がある。

 

ビリーグラハムは、福音派に入り込んでいる。

 

彼は、福音派的なメッセージに関連しておかしなことを言う。

 

「カトリックは正しい」とか。

 

ベニーヒンは、ペンテコステ派。

 

悪霊のリバイバルなど。

 

結果として、教会が崩壊する。

 

 

 

2:9それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓からはいり込む。

 

 

 

家は教会の喩え。

 

それぞれの教会におかしな教理などが次々に入る。

 

リックウォレンの、「キリスト教もイスラム教も、みんな一つにする」とか言いながら、尊敬されている。

 

とんでもない人物だが、惑わされている人が多い。 日本の神学校でも、リックウォレンは人気者。 彼の本は日本のキリスト教書店でも結構売れている。

 

「盗人のように窓からはいり込む。」

 

つまり、御言葉を盗む。 次々と教理も盗まれて行く。

 

 

 

2:10その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

 

 

 

こういった、インチキな人々が次々とキリスト教会へ入って来て、その結果どの器も、暗くなる、ようは、罪に入って行くという事。 そのような日が来るという事。

 

これは、黙示録に書いてあるが、今、現時点でのキリスト教会においても一部成就している。これからどんどん進んでいく。

 

地震で、教会の土台が揺らいでいってしまう。