ヨハネの黙示録7章9~17       2016.1.10

 

 

 

7:9その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

 

7:10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

 

7:11御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、

 

7:12言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

 

 

 

ここで、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」

 

神の御座、長老たちの前に立つ時に、生身の人間の体を持ってはいない。

 

一つは、あらゆる国民、部族、民族、国語。

 

今で言えば、あらゆる国のクリスチャンが、神の御座に立つ時が、世の終わりの時に来る。

 

生身の肉体を持って、神を見る事は出来ないし、その前に立つという事も、基本的にはあり得ない。なので、この人たちは肉体を持っていない。  肉体的には死んだ人。

 

この場合、二種類の可能性がある。

 

一つは、殉教者。 首を斬られた人たちなど。

 

もう一つは、生きたままで変えられた人達。要するに、栄化。

 

生きたままで、栄光の体に変えられる。だから必ずしも殉教者ではない。

 

終末の時代におけるクリスチャンに関しての、運命に関しての学びだが、この二つである事は覚えておく。

 

すなわち二択。  一つは殉教。もう一つは最後まで生き延びて栄化される。

 

栄化のことについて学んでいきたい。

 

 

 

第一コリント

 

15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

 

15:51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

 

15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

15:53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 

15:54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

 

15:55「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

 

 

 

「私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」とある。

 

これは何を言っているのかというと、今持っている我々の体は朽ちる。

 

「朽ちるものは、朽ちないものを相続できない」

 

だから、このままの身体では、天の御国に入れない。

 

天の御座に集まっている人達は、「栄化」している筈。

 

我々の今の身体では、天の御国に入れない。  その事は確か。

 

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。」と、ある通り、これは奥義。

 

終末の日の奥義でもある。

 

世の終わりの時に、この事をはっきりしておかないと理解できない。

 

私たちはみな眠る事になるのではない。(眠る=死)

 

終末の日に、確かに殉教はあるのだが、皆が殉教するのではない。

 

「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、」とある通り。

 

眠るのではなく変えられる。しかも、突然変わる。

 

今まで人類が経験したことの無いような事が起きる。

 

殉教するか、変えられるか。

 

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。」とある。

 

「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 

ラッパと共に、たちまち一瞬のうちの出来事。

 

「死者は朽ちないものによみがえり、」 だから、殉教した人も、栄光の朽ちない体に変えられる。

 

主に忠実に歩む人は、生きている人も変えられるし、殉教した人も、栄光の体になる。

 

「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」

 

朽ちるものは、今持っている我々の体。

 

これは、神の前には正常な姿ではない。 朽ちるものは、永遠に使う事は出来ない。

 

なので、「体が変わる」という概念を持たなければならない。

 

今の身体は、車、自転車みたいなもの。

 

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。」

 

この事は、御言葉で預言されている。

 

永遠に朽ちない体に変えられる。  その時、「死は勝利にのまれた」という御言葉が実現する。

 

そのように預言されているので、これは真実。

 

艱難を通る時代に生まれて大変だと思うかも知れないが、逆に考えれば、「栄化」に近付いているという事。

 

二種類の将来が、クリスチャンを待っている。

 

この事は、奥義なので、あまり明確には聖書に書かれていない。

 

例えば、旧約聖書のエノクは、死を経験していない。つまり「栄化」された。

 

エリヤもしかり。

 

これらの事は、型。

 

栄化され、天に上る人の型。

 

終末の艱難時代に関しての預言というのは、ダニエル書がまさにそう。

 

獣の国など、色々な事が書かれている。

 

この書の中で、神の言葉ゆえに、困難にあっている人がいる。

 

ダニエル自身もそうであり、友達の、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴもしかり。

 

彼らは、獣の像を拝まないために、火の炉に投げ込まれてしまう。

 

これは、艱難時代を経る事の型だと思う。

 

反キリストを拝まないために、艱難に入って行く。

 

結論を見るならば、艱難を経たけれども、火は全く効き目がなく、生きて戻って来た。

 

ダニエル自身も、確かに王に祈らないために、ライオンの穴に投げ込まれたが、ライオンの口が塞がれて、ダニエルは生きて戻って来た。

 

そういう意味で、我々は艱難時代を経るという事実。

 

ダニエルも、艱難を経ている。

 

しかし、生きて、守られたというのも事実。

 

艱難時代という事に関連して、聖書が基本的に語っている事は、艱難を通るが守られる、という事が、メイン。 殉教もしかり。

 

艱難時代の型というと、ダビデ王とサウル王がそう。

 

ダビデは、サウル王に追いかけられて、イスラエルの国中を逃げ回った。

 

これは艱難時代の型だと思う。  艱難を通ったが、主が守られたというのが、聖書の結論。

 

艱難を経るけれども、主の不思議な助けで守られる、ヨハネ型のクリスチャンが多いのではないか。断定的な事は言えないが。

 

 

 

黙示録

 

7:9その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

 

 

 

「しゅろの枝を手に持って」と書いてある。

 

しゅろの枝について注釈を見ると、レビ記の2340節が出て来る。

 

 

 

レビ記

 

23:40最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。

 

 

 

この節は、新改訳では「しゅろの枝」という言葉は出てこない。

 

しかし、KJVではちゃんと出て来る。

 

 

 

23:41年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。

 

23:42あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。

 

 

 

しゅろの枝という言葉で意味している事は、仮庵の祭だという事。

 

黙示録の79節で、しゅろの枝が出て来るが、これは仮庵をさしている事だと思う。

 

終末の日には、仮庵の祭に大きなポイントがあるという事は、再度思い出すべき。

 

仮庵の祭というのは、はっきり言えば地下教会のこと。 公認の教会ではない。

 

主も言われた。 「屋上にいる者は、家の中に入ってはいけない」

 

屋上と、家が対比的に言われている。

 

仮庵の祭を思い出せば分かるが、普通の家の屋上に仮庵を作るように言われているので、公の教会()に、「入ってはいけない」つまり、地下教会に留まれという事。

 

アメリカには、ブレアンパプリシャという所では、もうすでに仮庵らしきことが言われている。

 

「公でない、プライベートな家に集まろう。集まるときは、毎週何曜日だと決めてしまうと、狙われてしまうから、週ごとに集まる場所や曜日を変えよう」との事。

 

まさにそれは仮庵。  仮庵は、現実になって来ている。

 

聖書にある通り、仮庵に入って行くのが正しい。

 

 

 

黙示録

 

7:13長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。

 

7:14そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

 

 

 

白い衣という事を、見て行きたい。

 

我々は、「白い衣 」を着なければ、神の前に出る事は出来ない。

 

 

 

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

衣を汚してしまっていると、その日、神の御前に出られない。

 

白い衣を着ている者が、主と共に歩む。

 

我々は、歩みにおいて気を付けなければならない事は、白い衣を着た歩みをして行かなければいけないという事。

 

白の反対は黒。   黒は、罪の象徴だと思う。

 

サルデスの問題というのは、サルデスの31節の中で、「わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているとされているが、実は死んでいる。」

 

名目ではダメ。行ないが実際に生きているものでなければならない。

 

「目を覚ましなさい。他の死にかけている他の人達を力づけなさい。わたしはあなたの行ないが神の前に全うされたとは見ていない」

 

だから、行ないが大事。

 

確かにキリストを信じる事は大事だが、我々は、行いによって義とされる。

 

3節で「あなた方がどの様に受け、聞いたのかを思い出しなさい。それをかたく守り、また悔い改めなさい。」と書いてあるように、聞いた言葉を堅く守っていく事が大事。

 

それが、義の衣、白い衣に通じる。

 

これは、気を付けるべきポイント。

 

レムナントで、一緒に歩みを共にする人々には言う。

 

我々がキリストを信じた事は一つの事だが、行ないを、主の前に正しいものにして行く。

 

するとそれはどんどん「義」になって行く。それは、永遠のいのちに通じている。

 

義の奴隷になるべき。 罪の奴隷ではいけない。

 

 

 

7:14そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

 

 

 

ここで、大きな患難から抜け出ると書かれている。

 

この患難というのは、マタイ2421節で、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。

 

これはまさに艱難時代の大患難のことが語られている。

 

この節を通して学ぶ事は、聖書は明らかに、「艱難前携挙説」が言っているように、艱難を経ないで、しかも、神の御前に出るという選択は無い。単純な嘘に惑わされてはいけない。

 

なぜ、そんなウソに簡単に騙されてしまうのか。

 

大きな艱難を抜け出るという事は、我々は、心を定めなければならない。

 

はっきりしないというのは、戦いにならない。

 

艱難は通る。

 

その様にクリスチャン生活をシフトして、御言葉に基づいて、歩みを正し、これからの時代に関しての、計画を立てて行かなければならない。

 

そうでなければ、あらゆるこの世の事をエンジョイしても、主の言われた、最も大事な、「全世界を手に入れても、自分の永遠の命を損じたら何の得があろうか」というように、最も大事なものを失う可能性がある。

 

なので我々は、艱難に入った時、どうするのかというという事を今定めて行かなければならない。  アメリカのクリスチャンの動向は注目して行った方が良い。

 

右往左往しないために。

 

どんなにしても、そういう時代は来る。

 

ただ、期間は定まっている。

 

永遠に比べれば、三年半は短い。

 

御言葉に書かれているように、艱難に耐えて行くのが正しい。

 

「最後まで耐え忍ぶ者は幸い」なので、途中で投げたりしない事。

 

 

 

7:15だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

 

7:16彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

 

7:17なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

 

 

 

「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」という事は、艱難、困難における悲しみの涙を経るという事は、明らかに御言葉は語っている。

 

インチキな教理を掴んではいけない。

 

艱難は永遠ではない。

 

時は定まっており、どんなに長くても三年半。

 

艱難時代の始まりは、喩えで言うなら、「荒らす憎むべき者が、聖なるところに立つのを見た」時。

 

勘違いしている人が多くいる。

 

「エルサレムに第三神殿が出来上がって、そこで反キリストが王座に立つ」などと、あり得ない事を掴んでいる。

 

「聖なるところ」というのは、教会において、イエス・キリストの立つ場所のこと。

 

しかし、イエス・キリストがそこから追い出され、反キリストが立つその時。

 

「昨日まで教会の主はイエス・キリストとされていたが、これはインチキだ。これからはアメリカ出身の反キリストになりました」などと、教会で言われるようになった時。

 

3年半の始めは分かる。   あとは、終わりの日までカレンダーをつけていれば良い。

 

ただ、「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」とあるように、良い事ばかりの期間ではない。

 

「最後まで耐え忍ぶ者は幸い」とあるので、忍耐を求めて行きたい。

 

とどまっていきたい。

 

御言葉で言うなら、「今の時の軽い艱難は、後には比べることの出来ない思い栄光をもたらす」と書いてあるので、それを忍んでいきたい。

 

なので我々は、今までのクリスチャン時代のクリスチャンが、経験したことのないような、大きな変換の時をもしかすると、生きている間に見るかという時代。

 

その差は、「栄化」・・・朽ちないものに身体が変わる。

 

今までの肉体は、いいところ百年くらいしか使えない。これは朽ちるものであって、神の御前には正常なものではない。

 

それが変わる時代に来ているので、我々はそれを得なければ意味が無い。

 

反キリストを拝んではいけない。

 

幸か不幸か、歴史で今まで経験したことの無い時代に入ろうとしている。

 

今までの常識は通じない。

 

しかし、御言葉はその事を前もって全て語っているので、なすべき事ははっきりしている。

 

やはり「栄化」を得た方が良い。

 

神は真実な方なので、我々が艱難にある間もご存じであるし、またその後の栄光の事も用意しておられる。一方的に大変な事を用意しておられるわけではない。

 

クリスチャン生活が、非常に大事な時に入ろうとしている。

 

アメリカのクリスチャンの動向は、我々の道しるべであって、すべて、御言葉の通りになっている。  何一つ違っている所は無い。

 

アメリカが獣の国だという事もその通り。

 

獣がまさに本性を出している。

 

これから来る艱難時代も、まさに聖書に言われている通り。

 

そして、これから迎えようとしている一瞬の「栄化」もしかり。

 

反キリストによる、迫害の中で、絶体絶命という時に、それは来ると思う。

 

クリスチャンの危機一髪という時に、再臨があるのではないか。

 

不信仰にならない事。

 

こういったところを見て行きたい。