ヨハネの黙示録8章7~13 2016.1.24
8:7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
血の混じった雹と火。 全て霊的なものの喩え。
同じ霊でも、神の聖霊と、悪霊とがある。
血の混じった雹と火は、悪い感じがする。 災い。
ここにはみな、霊的な災いについて語られていると感じる。
8:8第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
基本的には、霊的な災いに関して書いてあると理解出来る。
聖霊が働いている筈の教会で、悪霊が働くようになったという災い。
火の燃えている大きな山。 山は、木が生えるという事に関して教会を喩えていると考えられる。 クリスチャンは木に喩えられると考えられる。
山は、そういう木がクリスチャンである木がいっぱい生えている所として、教会の喩え。
なので「大きな山」は、大きな教会。
「火の燃えている」とは、この火も悪霊の火。
リバイバルが燃え盛っている素晴らしい教会。 しかし神の前には悪霊の火が燃え盛っている教会。
「海に投げ込まれた。」とは何だろうか。
クリスチャンは魚に喩えられている。
ペテロも、主から「人間を取る漁師にしてあげよう」と言われた。
クリスチャンは魚に喩えられる。
聖霊の水の中に生きるものとしての魚は、クリスチャンの喩え。
魚は水の中でしか生きられない。
ペテロとヨハネが弟子としてやって来た事には意味がある。
「魚」をとる者として。 ところが、その海の中で聖霊の働きがある筈の海に、「火の燃える山」悪霊のリバイバルの事を言っている。
「そして海の三分の一が血となった。」とは、三分の一の教会が、悪霊のリバイバルに影響されるようになったという事。
喩えを理解するなら、今のキリスト教会に起きている事。
「聖霊の第三の波」は、ピーターワグナー。
そこから始まった。
日本のペンテコステ派、カリスマ派は喜んでそれを受け入れた。
しかし、あれは悪霊のリバイバルであった。
次々に影響されている教会が出て来た。
韓国のチョーヨンギの教会もしかり。
あのような教会を始めとして、ペンテコステ、カリスマ派の教会が、火の燃える山のようになった。 次々とキリスト教会に入って来る。
海はどんどん血に変わる。霊が変わって行く。
喩えの理解として、この預言は成就して行く。
ピーターワグナー以来、キリスト教会の状況が変わって来たと、確かに感じる。
あの教会へ行っても、この教会へ行っても、何か、変なリバイバル。
その様な教会が、どんどん増えてしまっている。
それゆえに、安心して行ける教会が、少なくなっている。
8:9すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
これも、喩えの理解。
「海の中にいた、いのちのあるもの」というのは、これは、聖霊の海であるから命がある。
我々の命のもとは聖霊。
しかし、他のものを掴んだら死ぬ。
「舟の三分の一も打ちこわされた」
舟は教会の喩え。魚をいっぱい取る所の喩えとして、教会の喩え。
つまり、悪霊のリバイバルで、教会が(霊的な意味で)壊されてしまった。
神の見る目と、人の見る目とは違う。
神の見る目では、「海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた」けれども、人の目には、「すごいリバイバルだ、あの教会は大活性している。」
「すごいしるしと不思議で、神の業が現われている。金粉、金歯現象も起きる」などというように見える。
神の語っている現実と、人の見える所とは大いに違う。
今の時代に関して思う事は、やはり人間は、クリスチャンであっても、何のご利益も無い所には行かない。
この世もそうだが、作業するには、利益になると言う。
サタンは、悪霊のリバイバルに、御利無しに引っ張ろうとはしていない。
「癒しがある」「預言の賜物がある」「特別な幻を見る」・・・そういうもので引っ張られて行ってしまう。
今は、このような事は、部分的にではあるが、成就している。
燃える山によって、海の中の命ある者が、その霊によって死んでいく。
我々が気を付けなければならない事は、「賜物がある」とか、「わざがある」とか「凄い預言の霊がある」とか、「癒しがある」とか、「すごい教えがある」など、良い事を聞いて、霊だからといって何でも信じてしまってはいけない。
今は、世の中でもそうだが、キリスト教会でも、そういうおかしな、引っ張るリバイバルが大いに許されている時代。
異端だけではなく、普通のキリスト教会でも、こういうおかしな霊が働いている時代。
それは理解しなければならない。
それは、聖書の中で預言されている事。
まさにラオデキヤがそう。
「自分は富んでいる」「豊かになった」「乏しいものは何もない」
何故その様に言うかというと、賜物が来ているから。
確かに預言があったり、癒しがあったりする。
しかし、神の目には違う。 「自分がみじめで、貧しく、裸である事を知らない。」
「海の中の三分の一が死ぬ」という事。
死ぬという事は、永遠のいのちを失うという事。
なので、賜物に魅かれて行く人は、問題がある。
聖霊よりも悪霊の方が、色々派手な業を起こしたりする。
悪霊の方が大判振る舞いをする。 ベニーヒンなど。
「命ある者の三分の一が死ぬ」と書いてあるが、これは永遠のいのちを失うという事。
我々の永遠のいのちは聖霊にかかっているので、様々な悪霊による現象によって、全然違う者を掴まされてしまい、聖霊を追い出してしまうと、我々の最も肝心な永遠のいのちを失ってしまう。二つ良いことは無い。
そう言う現象にとらえられ、本当の永遠のいのちを失ってしまうという事がある。
そう言う時代に我々は来ている。 ラオデキヤはまさにそう。
また、主の再臨の日、「私たちはあなたの名によって悪霊を追い出し・・力ある技を行なったではありませんか」しかし、イエス様に「お前たちを知らない」と言われている。
これでは永遠の命を得られない。「不法を行なう者ども」と言われてしまう。
賜物に魅かれて行った人の末路。
なので、クリスチャンだけれども、悪霊にかかって、永遠の命を失うという事はある。
この事は理解しておく。
聖書に書いてある事は、成就する。
8:10第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
8:11この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
ここも、似たような事が書かれている。
たいまつのように燃えている大きな星。 これは、喩え。
星は、明らかに器の喩え。
主がアブラハムに対して言われた。
「あなたの子孫は、天の星の様になる」
アブラハムの子孫で、星は、クリスチャンをさしている。
大きな星だから、有名な器、ベニーヒン、ビリーグラハムなど、有名な器。
有名な器が、幸いをもたらすなら良いが、ここでは災いをもたらしている。
「たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた」けれども、「この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
この星の為に、人が死んでしまう。
これも喩え。 水源は聖霊の喩え。
聖霊の働きが、苦くなってしまう。
なので、世の終わりの時代、キリスト教会の問題というのは、我々が、良い水であり、良い水、
うまい水、しかし、苦い水となって多くの人達が死ぬ。
これは、キリスト教会に起きる事。
また、もう一つの問題は、悪霊と聖霊の境目が無くなって来るという事。
少し前までのキリスト教会の常識というものは、「異端に気をつけよ」という事。
しかし今は、そういう常識のみ頼ってはいけない時代に来ている。
同じ、キリスト教会、福音派、ペンテコステ派の中で、こういうおかしな器が出て来る。
「大きな星が天から落ちて来て」というのは、これは、明らかに公認された教会の中に、このような器が出て来る。
そして、その器にみんな引っかかってしまう。
しかも、キリスト教の新聞や雑誌に公表する。
ベニーヒン、ロドニーハワードなど。
我々が気を付けなければならない事は、一つは、そう言う時代に来たという事、やはり神様がそういう事を許されているという事。 教会に対する裁きとして。
怪しい器がキリスト教会のど真ん中で悪霊を下す。そんな時代が来ている。
「デーモン、デーモン」「テイク ザ マーク オブ ザ ビースト(獣の印をつけろ)」とか言っている。
この事は成就しているので、この事は見て行かなければならない。
器を通して悪霊は下されて行く。
11節で、「この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
クリスチャンをさす色々な表現がある。
羊とか牛の様に、呼ばれる事もある。
羊、牛は、きよい動物としてクリスチャンの喩え。
ひずめが分かれ、反芻をする。
オリーブとか、ぶどうの木というように、御霊の実という感じで葡萄と呼ばれる表現があるが、
もう一つ、魚というのも、クリスチャンの表現。
魚は、水があって初めて生きていける存在。
終末の問題というのは、水が苦い毒に変わってしまう。
そう言う恐るべき問題がある。
なので、我々は、霊的な事柄に関しては、よくよく気を付けなければならない。
我々は、この世の水も気を付けなければならないかも知れないが、さらに気を付けなければいけないのは、霊的な事柄。
聖書の中に書いてある。 「生かすものは霊である」
我々がどういう霊を受けていくかが、その人自身の歩みに、大いに関係して来るので、この事はよくよく気を付けて行きたい。
ヤコブ書
3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
3:11泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
甘い水は聖霊。 苦い水は、別の霊の水。
器を通して、霊が下される。
一つは我々奉仕者として、我々を通して、罪に関わったりして、その人を通して、変な、悪い霊が下るなど、あってはならない。
メッセージの準備は、単に文字の並びだけではない。
その人の生き方が清められていなければ、災いになってしまう。
この事は十分気を付けなければならない。
黙示録の時代の問題は、その霊を受ければ死んでしまうような、そういった水が下されていく、
そう言った問題がある事という事を覚えて行きたい。
黙示録
8:12第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
ここでは、太陽、月の光が失われる。
太陽は、キリスト教界での大きな器。有名な器。 ビリーグラハム、ベニーヒン、リックウォレンなどの器。 光を失って行く。
第二コリント
4:4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
太陽は光を下す。それは、聖書の光、真理の光、福音の光、そういった事をさす。
黙示録に戻ると、太陽の三分の一の光が消えて行ってしまう。
なので、まともな福音の光が100%語られるのではなく、福音の光が、どんどん器から消えて行く日が来るという事。
もっと具体的に言うならば、「イエス・キリストは我々の罪のために死なれ、葬られ、三日目に甦られた」とか、まさに福音の光。
それに対して、どんどん攻撃が仕掛けられていき、語られなくなってしまう時代が来る。
「キリストの復活などおとぎ話だ」「カルトだ」などと言われる時代が来る。
それをビビってしまい、器が語れなくなってしまう。
今もそう。
分かって来た事は、アメリカと言わず、カナダとか、オーストラリアもそうだが、牧師の所に見知らぬ男が入って来て、牧師が、同性愛を否定すること、また、キリストの復活の事を言わないか見張っており、もし語れば、それを動かぬ証拠として逮捕する。こういう事が、複数起きている。
欧米ではそういう時代に来ている。
それで、メッセンジャーは話せなくなる。 そう言う教会が出て来る。
話したくても、話せなくなる、つまり、聖書の光、真理の光、福音の光を、語れなくなってしまう。 それが、黙示録8章12節で語られている、「光が消えて行ってしまう」という事。
なぜそのような事が許されるのか、やはりそれは、テサロニケの手紙に書いてあるように、真理を受け入れようとしないで、偽りを言う人たちが多いから、そういった事が、主によって許されるのではないかと思う。
第二テサロニケ
2:12それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。
やはり今のキリスト教会、「艱難前携挙」とか、「クリスチャンと名がつけば、何が何でも滅びる事が無い」だとか、そういう事を言っているがために、神が、「その様な教会は、もうよい」と言われ、「そんなに偽りの教理が好きなら、偽りばかりの教会になれ」と、怒りを発しておられる。
「真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
これは、神の裁きであり、故なくして下すのではなく、教会の不信、本音の部分を見られる故に。
我々の都合のよいように、真理を曲げるのではなく、たとえ都合が悪くても、真理に沿って歩む。そうすると、色々な事が見えてきたりする。
黙示録
8:13また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
「地に住む者」とは、黙示録に何度も繰り返して出て来る、一つのキーワードだと覚えておく。 英語では、「地に定住する人々」という意味合いがある。
これは、クリスチャンのあるべき姿とは違う。
アブラハム、イサク、ヤコブがそうだったように、この地においては、寄留者、旅人として歩んで行く、定住していないという事。
地に住む人々は、この世に定住してしまっているから、クリスチャンであると言いながら、この世の考え方とか、常識とか、すっかり受け入れてしまっている。 そういうクリスチャンを、「地に住む者」というように理解出来る。
そう言う人たちから、正しいクリスチャンは迫害を受ける。
「終末の風」のブログで、アメリカのクリスチャンで、同性愛を受け入れている人は結構多い。
ようは、地に住む人が多い。
聖書を基準として生きて行くなら、同性愛は問題。
アメリカのクリスチャンは半数以上が、同性愛を受け入れてしまっている。
そう言った人々は、迫害者になってしまう可能性がある。
しかし、そういった人達に災いが来る。
あらゆる災い、「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」とかは、この世についたクリスチャンが、そういう災いに遭う。
しかし、我々が天的な歩みをしていく時に、そういった事から守られる。
結局、災いに遭うのは、今の教会にとどまり、おかしなリバイバルを「良し」としており、ベニーヒンなどのわけの分からない器を追いかけていったり、そう言うこの世的な、地に住むクリスチャンが、災いを受ける。
無差別に、すべてのクリスチャンが災いに入るわけではない。
黙示録の中にも暗示されているように、「女は荒野へ逃げた」と書いてあるように、荒野とか、地下教会、仮庵の祭、そういった人達は災いに遭わない。
そう言う時代が来る。
簡単に方向性を示すならば、明らかに我々は、いずれ、公の教会は反キリストを拝むようになるので、時を見計らって、仮庵の祭に入るべき。
主ご自身も言われておられる。
「屋上にいる者は、家の中のものを取り戻そうと思って、下に入るな」
屋上がまさに、仮庵の祭。 折角入った仮庵から出るなという事。
これから災いが来るのは、この世についた教会、クリスチャン。
どんどん変わって来る。
人間的に見れば、すごい器がどんどん出て来る。
しるしと不思議、奇蹟 、すごい聖書理解、預言が出て来る。
人間的にはすごいリバイバルに見える。
しかし、神の前には命が無かったり、聖霊が無くなるような時代が来る。
レムナントキリスト教会
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