ローマ人への手紙8章 2010.11.21,11.28,12.5,12.12
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
罪の問題について6-8章に書かれている
罪に関しては神様の方法で対処していく 参照 黙示録19:7,8
キリストの花嫁にならなければならない
正しい行いを身に付けてキリストに迎えられる花嫁になる
神様の前にどうか?
主にあって正しい行いを成せるように祈り求めていく
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
原理:律法(ギリシャ語)
命の御霊の律法が記されている
それに従っていくなら罪と死の原理から解放されている
御霊の律法が心に律法が書き記される→信じて受け入れるなら実現する
キリストが御霊の教えを心に刻んで下さっている
歩みに関して大事なことを教えて下さる
私たちが歩む基本に関して心に御霊の律法が刻まれている→ただし信じることが条件→御心に沿った歩みが可能になる、書かれたもの(文字によるもの)から解放されて歩むことができる
8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
肉(霊でないもの)の概念を正しくとらえる
生まれつきのもの、よいものも悪いものもすべて
生まれつき持っているものは罪深いもの、そのことを認識する
普通にしていれば罪に入る→肉は罪深いもの→このことに聖書は何も期待していない→死に至る
イエス様は肉に関するものを解決するために来られ死んで下さった→幼子のようになって素直に信じて受け入れる
この世の認識と聖書のことは全く異なる
この世のことは肉のことばかり
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
クリスチャン人生は神様の目から見て2種類
ある人は御霊に従って歩む
御霊によって歩むか肉に従って歩むか、決断次第で行き先が変わる
ある人は肉の欲求を満たそうとする
クリスチャンでも肉に従って歩んでいる人がいる→御心は無い
御霊に従って歩むにはとにかく祈る
御霊に聞いていくなら教えて下さる
何とか御霊によって歩んでいかれるように祈り求める→御霊に従っていく歩みを選択するならば律法の要求が十分に満たされていく
生まれつきの肉の欲求によって歩んでいくと、どの律法も難しくなってしまう
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
心、思いの居場所がどこに向けられていくか?
この世のことばかりになっていないか?
肉に属することばかりを考えているなら肉に従う歩み
祈り、御言葉に時間を割く→御霊に属する歩み
霊的なことを生活に取り入れようとしないのは肉の歩み
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
御霊に導かれて歩むことがポイント
8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
生まれつきのもので歩んでいるならイエス様の律法は実行できない
御霊による歩みができるように祈り求めていく
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
肉or霊にあるかを常に吟味する
霊的に歩めるように祈り求めていく
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
神の御霊が本当に住んでいるなら御霊の中に歩んでいる
Ex:賢い花嫁、愚かな花嫁(油を持っていない9
キリストの御霊が本当に内住しているかどうかを、よくよく吟味する
愚かな花嫁:肉の歩みに真最中のクリスチャン
キリストの声に従っていくなら罪から解放されていく→それが天国への鍵、歩むべきところへ入っていく
本当にキリストのものであるかどうかがポイント
8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
肉体は死んでいても霊は生きている
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
キリストの復活はたとえ
よみがえり、立ち上がる
罪の状態から立ち上がる
罪のある肉体をまとっていても霊が立ち上がっていく
聖霊によって生かされていく
生まれつきよいものを持っている人は危ない Ex:金持ちのたとえ
聖霊に従っていくときに弱くても罪があっても死ぬべき体も生かされていく
8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
生まれつきの能力で生きていくようには召されていない
聖霊に頼って生きる
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
肉の歩み:自分の力に頼って歩む
自分の考えに頼り生まれつきのものに頼るのはNG
すべて聖霊に頼って歩む
生まれつきのものはすべて肉
肉により頼む奉仕と霊により頼む奉仕がある
聖霊により頼んだ歩みでないとトラブル続きになる
肉による判断や肉による決心は空しい、しかしそのことを通して神様は教えてくださる
すべて意味がある
自分に自信を持たないこと!!→神様に頼り聞く
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
神の御霊に導かれるなら神の子
養子というニュアンスがある
生まれつきの子と養子は違う
養子は追い出される可能性がある
Ex 賢い花嫁:結婚が成立する(御霊に導かれるなら神の子)
愚かな花嫁:結婚は成立しない(御霊に導かれないならサタンの子)
この世に浸かっているクリスチャン
御霊に導かれるなら神の子らしく決断し、導かれる
神の御霊は導く、そのように歩んでいく
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
内側が聖霊に導かれるなら確信がある
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
子どもは相続するもの
神の子と言った時に相続する
ただし神の子としての歩みをきちんと全うした場合のみ→条件があることを理解する
条件:苦難を共にしているなら Ex:ペテロ、ヨハネ等の12弟子
どんな困難の時にもキリストにずっとついていった
今の時代もキリストと共に苦難がある Ex:ニュースレターの苦情
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
キリストと共に苦しむのは大変、しかし後に受ける栄光に比べて大したことではない
ゆえに物事に一喜一憂して不信仰になる必要は無い
今(2010年の今でも通じる)の時の苦しみに会うのは当然 Ex:陰謀を企てられたり法廷に連れて行かれたりすること
それでも取るに足らないと言っている
本当に狭い道、正しい道を選ぶなら苦しむのは当然
賞賛されたら要注意(もし人から賞賛ばかりされていたら危ないと考えるのが正しい)
正しく御言葉を語り実践して苦しむなら喜んでよい
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
今の地球の色々な被造物は呪い(滅びの束縛)に入っている
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
子にされることを待ち望んでいる
子にされる:ギリシャ語、英語では「養子になる」の意味合い
正確には「神の養子になる」
クリスチャンの大きな勘違い:「実子」になると思い込んでいる
養子は追い出される可能性がある
その程度であることを認識する
きちんと神様の言うことを聞かないなら養子の身分を解消される
アブラハムに神はこのように言っている→「契約を結ぼう」と。
つまり、神様との関係は条件付であることを正しく理解する
正しく歩んでいくときに恵みを受ける
罪に入っていた体も主によって用いられる
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
目の前で実現するのは望みではない
まだ実現していないことを祈り求め与えられていく
祈り求めていく時に形づくられていく
忍耐をもって祈っていくことが信仰
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
罪に陥ったり問題の中にいても御霊がうめきをもってとりなしてくださる→神様の憐れみによって滅びずに生かされている
参照 出エジプト32:9-12,14
とんでもない罪を犯している民すべてを滅ぼすと神は言われた
しかしそこでもモーセがとりなしをした→神の怒りがとどまった
滅びにいたる罪を犯していても聖霊がとりなしてくださる
聖霊からくるとりなしの霊がある
参照 出エジプト32:31-34
この時のとりなしも聞かれている
命がけのとりなしに主が答えてくださった
その都度その都度聖霊が私たちをとりなしに導いてくださる
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
私たちが神の御計画(働き)のラインに沿って歩んでいくならすべてがあい働いて益となっていく(たとえ、失敗も罪を犯しても人と仲たがいしてしまっても)
ただし今の時代の神の御計画に沿って歩んでいくことが条件
神の働きに反発してはダメ
◎警告の召しに従っていくことがポイント
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
キリストと同じ形になっていくことがポイント
健全な信仰生活を送っていくならキリストと似た姿に変えられていく
8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
人々に関して召しがある
義になっていく
召しに応答していかない時に義とされるかどうか分からない
召しに従っていく時に義とされる
正しくされると栄光を見るようになる
召しに応答しないと成就しない、約束は絵に描いた餅のよう
召しに応答しないと実現しない
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
神の召しに従っていくなら敵が来て恐れる必要は無い
たとえ困難の中に入っても・・・
神が味方になってくださる
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
必要な事柄は与えられる
小さなことも大きなことも祈る
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
罪があってもとりなしてくださる
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
ほふられる羊
神の前に捧げる:祭壇の犠牲
羊を捧げる(たとえ) 羊はクリスチャンのたとえ
① 全焼のいけにえ クリスチャンが聖霊の火で焼かれていくこと
祈りをもって働きをしていく
② 羊は捧げられていくときに切り裂かれて命を失う
自分を捨て自分の十字架を背負ってキリストに従う→神の前に喜ばれる捧げもの、神の前に尊い歩み、羊は命を失う
ぶつかり合い、非難がある
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
これらすべての困難は来る
もし困難が起きないなら要注意
御言葉を行えば圧倒的な勝利者になる
レムナントキリスト教会
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