詩篇114篇 2015.6.7

 

114:1 イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき、

114:2 ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。

 

出エジプトのこと。

 

イスラエルの民は、エジプトの中で、苦難に会った。

 

しかし、そこから出るのが、神の御心だったので、そこから出て来た。

 

そして、出エジプトは再現される。

 

黙示録では、そのことが暗示されている。

 

Ex:水が血に変わった。ふたりの預言者。ソドム・エジプトと呼ばれる都。

 

そして、終末に起きてくる出エジプトが本番。

 

旧約に起きたことは、型であり、規模も小さい。

 

旧約は、100万人くらい。しかし、終末は、およそ2億。

 

その日、教会がエジプト化する。

 

全世界の教会がエジプト化し、ソドム化する。いずれ同性愛を受け入れる。

 

同性愛のことは、罠になる。

 

神のことばは、いずれ成就する。

 

エジプト:世的

 

そこからクリスチャンが出て行く、ということにポイントがある。

 

パロは、「あまり遠くへ行くな!」と言った。これは預言的なことば。

 

しかし、パロの言うことを聞いてはダメ。

 

出エジプト=仮庵の祭り

 

ポイント:エジプトを離れる。完全に分離する。

 

背教の教会と距離を置くことを聖書ではくりかえし語っている。

 

どんなに遅くても、艱難時代の7年前、早いほうが良い。

 

聖所(神の臨在)となるのが尊い。

 

ひとつの条件:エジプトから出て行く。そうでないと、聖所とならない。そうなると、神の臨在が無い可能性がある。

 

聖所になることにポイントがある。→神の恵み&祝福を見る。

 

この世とくっついていると、神が来てくれず、聖となれない。

 

分離するときに、神の聖所となり、用いてくださる。

 

クリスチャン生活は、一様ではない。

 

たとえかつては世に着いていても、ある時から、分離して用いていただける。

 

エレミヤ牧師の証:歩みが定まらなかった。その時は、神のわざを見なかった。焦燥感を覚えた。でも、ある時、献身者としての道を選ぶようになった。そういう歩み、つまりきよい歩み、分離の歩みをするようになってから、本来の召しに入り、終末の大事な示しや語りかけを受けるようになった。

 

エジプトから出て、この世と分離し、神の臨在に入り、恵みや祝福に入る。

 

この世に着く、というときに、聖所となることは、あきらめなければいけない。

 

まず、この世のことからきよめられる。

 

114:3 海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。

 

このことは、出エジプト後に起きた。

 

海=紅海の水のこと、それが逃げた。

 

参照 出エジプト記14:21,22

14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。

14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 

22節にあるように、海は逃げた。

 

イスラエルに対して、海の水が逃げて、乾いた地となり、渡ることができた。

 

でも、エジプトに対しては、そうではない。

 

参照 出エジプト記14:2628

14:26 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」

14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。

14:28 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。

 

皆死んでしまった。

 

これは紅海のこと。「紅」とは、「血」の色を指す。つまり霊的なたとえである。

 

世の終わり、出エジプト&紅海のことが再現する。

 

世の終わりは、霊的な災いが起きる時。

 

しかし、イスラエルの歩みを正しく続けるなら、奇跡的に紅海を避けられる。しかし、この世的なら、紅海に入ってしまう。霊的な洪水に入ってしまう。

 

しかも霊的な惑わしは、オーダーメイド。

 

かなり、巧妙な惑わしが来る。

 

しかし、イスラエルの歩みなら、そこから逃げ去り、免れる。

 

災いが来るか?来ないか?は、エジプトorイスラエルの民か?ということ。そして、イスラエルなら、神から守りが来る。

 

その人の歩みと洪水は、大いに関係する。

 

今は、惑わしの霊が許されている。

 

114:4 山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた。

114:5 海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。

114:6 山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。

 

「雄羊のように、丘は子羊のように、はねた」について。

 

「はねる」ということばについて→歴代誌:契約の箱が戻ってきて、ダビデがはねたことに通じる。

 

つまり、「はねる」とは、神の前の喜びや恵みのこと。

 

神の聖所として歩んでいくときに、喜びの中に入っていく。

 

さらに見ていきたい。

 

参照 使徒の働き3:110

3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

3:2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

 

生まれつき足のきかなかった人が、神の恵みではねている。

 

自分の足で歩けなかった。でも、癒された。

 

この人は、ある種のクリスチャンのこと。自分の足で歩けない。→自力で歩けないクリスチャンの型。

 

:教会

 

教会に来る人に施しを求める。Ex:牧師、器

 

6:ペテロのすごい信仰で直すわけではない。自分の足で歩くことが大事。

 

7:祈ったら、くるぶしが強くなり、おどり上がって、歩みだした。

 

自分の足で歩む→これがあるべき姿。

 

こういう歩みに入ったので、喜んで、踊って、はねた。

 

施しを求めるクリスチャン生活は、ズレていた。

 

自立した歩みでなんぼのもの。こういう歩みを目指していきたい。

 

自分で祈り、主の声を聞き、必要な啓示が与えられる。

 

詩篇のことばに通じる。こういう恵みにもあずかっていきたい。

 

114:7 地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。

 

 

114:8 神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。

 

「岩」と「水」は関係ある。

 

出エジプトの民において、「岩」を叩いたら、「水」が出た。

 

「石」とか「岩」が、泉や水と関係がある。

 

これに関して、たとえがある。

 

水、泉:聖霊

 

イエスさまが、「私を信じる者は、生ける水が流れるようになる」と言われている通り。

 

私たちも「水」を欲している。

 

「水」と関連して、「岩」と「石」が出てくる。

 

「岩」の歩みをしているなら、それを通して「水」が出て、祝福に入る。

 

しかし、砂の歩み、みことばをおこなわない歩みなら、人に恵みを与えることはできない。聖霊の働きが出てこない。

 

岩=弟子の歩み、かたい石、簡単には崩れない。

 

Ex:三勇士

 

ぜひ、水が出る、岩のような奉仕をする。

 

Ex:妬みや怒りの水は、NG

 

水、すなわち聖霊は、みことばを行う歩みをしないなら、流れない。

 

人々が聖霊に触れて欲しいと思ったら、自分が変わらないとダメ。

 

エレミヤ牧師の証:岩の歩みをしていくなかで、状態が変わり、周囲の人々でも、恵みを見るようになった。

 

このことに何の区分もない。男女、人種、年齢は一切関係ない。

 

しかし、岩とか砂の区分がある。

 

私たちのほうで、みことばに合わせていかないとダメ。

 

今、キリスト教会で、クリスチャンはお客さま扱い。

 

しかし、神の前ではそうではない。

 

私たちのほうで、みことばに合わせるしかない。合わせる人は、わざを見る。

 

でも、行わない人は、いつまでたっても見ない。