詩篇115篇 2015.6.14

 

115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

 

みことばの中に、「へりくだる者にめぐみがある」ということが書かれている。

 

主の言われた歩みをしていくことにポイントがある。

 

そしてイエスさまは、神の誉れをおこなっていった。

 

しかも自分のための奉仕はしていない。

 

自分の都合や名声は考えなかった。

 

神の栄光のため、宮から人を追い出し、神の御心をとらえ、おこなっていった。

 

ゆえに私たちにとっても、これが正しい。

 

そんなふうにしていくときに、損してしまうようで、じつはめぐみがあたえられ、もどってくるので、みことばやイエスさまがなした歩みが正しい、といえる。

 

ちなみに、みことばをかたる奉仕において・・・自分の栄光を求める、神の栄光を求める、という二種類の奉仕がある。

 

参照 ヨハネの福音書7:1618

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

 

おなじみことばを使っても、神の栄光、自分の栄光の二種類がある。

 

そして、神が語らせてくださる類いのメッセージがある。

 

17節に書かれているように、聞く人自身の態度によって変わる。

 

聞く人が御心をおこなっているなら、神からのものか?そうでないか?がわかる。

 

ほんとうに御心をおこなっているなら、それがわかる。

 

そして、神からのメッセージをしても、評価は二分する。

 

Ex:イエスさまのメッセージも二分した。弟子たちは理解した。しかし、パリサイ人や律法学者は理解しなかった。

 

こんな風に評価は二分するのですが・・・しかしすべての人が理解してくれなくても、めげてはダメ。神からのメッセージということが大事だから。

 

18節では、「自分で考え出したメッセージ」についていわれている。

 

このことは、つまり、自分の栄光を求めるメッセージもある、ということをいっている。

 

しかし、イエスさまは神から遣わされたので、神の栄光を求めて語った。

 

Ex:両替人を宮から追い出した。そして、「強盗の巣にするな!」と言った。人の見る目はどうであれ、このことは、神の御心を求めたがゆえに起こした行動であり、言動である。

 

もし、私たちが自分の栄光を求めてしまうなら、聖書に書かれていることとは違うことを語ってしまう。

 

そして、真実を語ってきらわれたとしても、それは仕方がない。

 

115:2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。

 

ここで、二種類の神がいる、ということをかたっている。

 

4節に、「銀や金」とあるように、バアル、アシェラ像をつくった。これは、器崇拝、偶像崇拝につうじることである。

 

そういう人たちからみると、そんな風に柱とする器が教会にいないのは、ある意味、ふしぎにみえる。

 

でも、人の器は、結局のところ、間違える。

 

けれども、「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」とあるように、「誰が教会のリーダーなのか、わからない」といっている。

 

115:3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。

 

目にみえない神がリードしている。神がいわれることが正しい。

 

「その望むところをことごとく行なわれる」とあるように、結局、神の御心がなっていく。

 

神ご自身がなされることが、みな実現していく。

 

Ex: いずれ、ユダ族の獅子(日本人)が、全世界のキリスト教会をリードするという預言が聖書にある。そして、これも、神の時に成就する。

 

115:4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

115:5 口があっても語れず、目があっても見えない。

115:6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。

115:7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。

 

人間の器の偶像を、神は批判している。

 

「金や銀」とあるように、これは器に信仰があることをいっている。

 

「口があっても語れず」とは、みことばから正しいメッセージを語れないことをいわれている。たとえば、聖書では、クリスチャンが艱難時代を通ることについて語っているのだが、しかし、「艱難は通らずに携挙されます」というものが、まさにそうだといえる。

 

「目があっても見えない」とは、霊的に正しく見えないことをいっている。

 

「耳があっても聞こえず」とは、霊的に正しく聞こえないことをいっている。

つまりここで・・・人間の器には限界がある、ということをのべている。そのことは正しくおぼえておく。万一、神のいわれていることと、人のいうことが入れ替わると大変なことになってしまうから。

 

115:8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

 

器を信頼し、器に従うときに、器を越えることができない。

 

人を教師とし、主とするときに、超えられない。それ以上の真理がみえない。

 

たとえば、ホーリネス系の教会では、「きよめ」を追い求めている。けれども、これはわなとなっている。完全なきよめはないから。

 

でも、神を信頼していくときに、人間の限界を越え、真理をみる。

 

器崇拝は、ひとつの大きな誤り。

 

また、「これを造る者」とあるように、偶像は、人が勝手に造るもの。「私は偶像ですよ!」なんていうことを、あえていう人はいない。

 

そして、「器崇拝」とは、具体的には、聖書のことばよりも、器のいうことを優先すること。

 

115:9 イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。

115:10 アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。

 

これがベスト。主に信頼する。

 

115:11 主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。

115:12 主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、

115:13 主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。

115:14 主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。

115:15 あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。

 

偶像にたよっていくことと、イエスさまだけに、たよっていくことはちがう。

 

このあたりは徹底する。

 

そして、主に信頼する、というときに、中途半端ではダメ。

 

115:16 天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。

115:17 死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。

115:18 しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。

 

「天」と「地」の区分について。

 

教会は、一様ではなく、「天」といわれるものと、「地」といわれるものがある。

 

ちなみに創世記で、神さまはアブラハムに「あなたの子孫を天の星や地の砂のようにする」と語った。

 

そして、「天の星」「地の砂」は、両者共にアブラハムの子孫、すなわちクリスチャンである。

 

しかし、神の御心は、「天的な教会」においてなされる。

 

地的な、この世に着いた教会は、神の御心がなっていない。

 

黙示録に書かれているように、地に着く教会は、災いになる。

 

参照 ヨハネの黙示録6:9,19

6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですかとあるように、「地の教会」は、さいごは災いになる。

 

そして、「地の教会」とは、この世の論理を語っている教会では?とおもわれる。

 

Ex:進化論は正しい。

また、今の教会は、どんどん地的になっていく。

 

Ex:同性愛を迎合する。

 

しかし、天的な教会にとどまることに御心がある。

 

ゆえに、タイミングをはかって、公の教会を出る。

 

仮庵の祭り、地下教会にポイントがある。