詩篇121篇 2015.8.9
都上りの歌
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121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
私たちはクリスチャンとして、助けを必要とする。
「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイの福音書18:3)ということが言われている。
幼子(子ども)のひとつの特徴:独立独歩ではない。親に頼る。
助けを求めるのは、聖書的に正しい。
他にも、クリスチャンは羊になぞらえられている。羊はか弱い動物なので、羊飼いが必要。助けを必要とする。
神に助けを求め、願いを求めて祈るなら、正常なクリスチャンと言える。
何かと神に頼り、祈っていくのがあるべき姿。
きちんと神に頼る人は益を受けたり、助けを受けたりする。
そうでないなら変なものを掴み、滅びに入っていく。
私たちは狼(サタン)と戦って、永遠の命を得る。ゆえに頼る。祈る。
朝、祈る習慣を身に付ける。
助けを求めるのは、クリスチャンのあるべき姿。
「天地」は教会のたとえ。
助けは、教会を造った主から来る。
主を頼るときに助けがくる。この方を頼ることに大きなポイントがある。
エレミヤ牧師の証:教会を追い出された。その時に、次の週からどうしよう?と思った。でも主を頼っていく中で、ベストな方向へ導いていただけた。主の憐れみ&任命の中で働きを続けていくことができた。終末の啓示が示され、奥義が開かれた。たとえば、Ⅰヨハネに書かれている「三人の証人」のこととかについて教えてもらえた。こんな風に天地を造られた神から助けがくる。ゆえにこの方に頼るのがベストだと思った。
ポイント:真の助けは神から来る。これがベスト。教会を造られた神から来るので、必要な啓示が与えられる。ゆえに恥を見ることが無い。自分が不可能だと思う働きにも入る。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
よろける(KJV):足が動く。→足が動くと、命に至る門に達さない可能性がある。命に至る道は狭いから。そしてよろけると、別の所へ行く。でも、主が導いてくださるなら、よろけそうになっても守られる。
エレミヤ牧師の証:ブラザレン系の教会に行った。しかしズレたことを言っている。牧師を嫌っていて、兄弟姉妹は平等だと言っていた。でも、今思うとそれはおかしい。そこでズレそうになった。けれども戻ることができた。しかし、ズレたままの人がいる。
よろけそうになっても、主は教えてくださる。
主がお一人一人に介入しているかは、大きな違い。
主に頼る習慣は大事。
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主はまどろむともない。(居眠りしない)
「眠る」ことについて、他の箇所にも出てくる。
参照 イザヤ書56:9‐12
56:9 野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。
56:10 見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている。
56:11 この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。
56:12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」
9節:主はまどろむことも眠ることもない。しかし見張り人はまどろんだり、眠ったりする。ゆえに全面的に人に頼るのはNG。
獣:終末に大いに関係する。世の終わり、クリスチャンが食べられ、永遠の命を失う。
10節:「見張り人」は、敵が来たらそれを知らせる人。でも、それが分からない。
Ex:トロントのビデオにおいて、神の働き人が「獣のしるしをつけろ!」と集会の中で叫んでいる。
こういう集会を奨励している教会がある。しかしこのことは、見張り人は見ていないということを言われている。つまり、見張り人が見張り人になっていない、見えていない。
11節:「牧者」とは、牧師のこと。
自分の利得に向かっているので悟れない。おかしな霊を見分けられない。反対におかしな霊を推進してしまう。利得が罠になっている。
12節:「ぶどう酒」は霊的な事柄に通じる。
変な霊を掴んでも分からない。
再び詩篇に戻ります。
他の教会はそんな感じかも知れませんが、しかしレムナントキリスト教会は心を定めて神の警告を優先していくことにした。
Ex:トロントのビデオを輸入して、悪霊のリバイバルを告発した。それで結構な警告を行うことができた。
見張り人&角笛を吹く働きをしようと思った。
この世の多くの器は惑わされている。
121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
この方を主として崇め、声を聞いて歩んでいくときに災いから守られる。
「日」や「月」は、器のたとえ。
器によって、災いや惑わしに入ることがある。Ex:悪霊を受ける。
でも、この方を首都して崇めていくときに災いから守られる。適切な悟りや判断が与えられる。
121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
主の守りがあることを見ていきたい。
レムナントキリスト教会
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