詩篇123篇 2015.8.23

 

都上りの歌

 

 

123:1 あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

 

神ご自身は、天に住んでおられる。

 

天に関して・・・ひとつは文字通り、見上げる天のことを言われている。しかしまた、たとえの意味合いもある。

 

「天」は教会のことも指す。ゆえに言わんとしていることは、天的な教会に主は座しておられる、ということ。

 

しかし一方、「地」と呼ばれる教会もある。そして地的な教会のクリスチャンもアブラハムの子孫に何ら変わりは無い。

 

つまりアブラハムの子孫とは、すべてのクリスチャンのことを指す。そういう意味では、エドム(俗悪なクリスチャンのたとえ)もそう。

 

クリスチャンの中でも、天に住む者&地に住む者(この世に着いたクリスチャン)がいる。けれども「地」は良くない。

 

クリスチャンのあるべき姿→天的なクリスチャンになっていくことにポイントがある。

 

そのことに関して、黙示録を見てみましょう。

 

参照 ヨハネの黙示録12:1,2,410,13,14

12:1 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

12:2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

12:4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

12:6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、

12:8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

12:13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。

12:14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

順に見ていきましょう。

 

12:1 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

 

黙示録は、あらゆるたとえ&謎が使われている。そしてもっとも難しい書なので、たとえや謎を理解して読む。そうしていくときに少しずつでも理解できる。

 

:教会

 

巨大な女性の特徴:太陽を着ている。

 

ちなみに太陽、月、星は全て天に属するもの。そして砂や石や岩は、地のもの。ゆえにここでの記述は、天的なクリスチャンへの世の終わりの預言である。

 

12:2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

 

天的な教会に関しての事柄について。

 

「産みの苦しみ」とは、艱難時代の苦しみのこと。

 

12:4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

 

天的なクリスチャンの三分の一が、世的なものにされる。同性愛やこの世の標準を受け入れるようになる。

 

アメリカ主導の反キリスト的な国が、クリスチャンに戦いを挑んでくる。

 

そして女が子を産む。

 

12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

 

男の子は、殉教者。

 

12:6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

 

「荒野」(地下教会)にポイントがある。

 

背教の教会を出て、地下教会を行う。

 

天的な教会からサタンの働きが無くなる。

 

12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、

12:8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

 

:天的な教会

 

天的な教会からは、惑わしの教理や教えが追放される。偽りの教理や働き人が天的な教会からはいなくなる。

 

ゆえにあるべき教会のことは、艱難時代に起きてくる。

 

ポイント:背教はある。しかし正しい聖徒は追い出され、仮庵の祭りをし、建て直しがある。

 

12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

 

正しい教会の回復は、ある意味艱難時代に成就する。

 

12:13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。

 

天的な教会は、獣の国や竜に追いかけられる。しかし、逃げ場が与えられる。

 

12:14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

艱難時代の間、地下教会で養われる。

 

背教化した教会は、獣のしるしを付けられる。しかしそれと共に、仮庵の祭りで偽りの教えが一掃される。

 

背教化した教会で、いずれ同性愛を受け入れるようになる。

 

ゆえに目指すのは、天的な教会。

 

123:2 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

 

ここでは困難に会っている。さげすまされたりする。

 

そして問題がある。でも、主に目を向けて、主の憐れみを求めて待ち望む。

 

でも、自由気ままなクリスチャン生活を送っているときに、必ずしも祈りに応えてもらえるとはかぎらない。

 

そのことに関連してヨハネの手紙には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネの手紙5:14ということが書かれている。

 

いくらクリスチャンであっても、自分の肉の欲を願ったからといって必ずしも応えてもらえるとはかぎらない。

 

でも、しもべの立場を取り、御心の祈りをしていくときに応えられる。

 

「奴隷」ということがここで書かれている。

 

今の時代は、奴隷制度は無い。

 

しかし、聖書において意味があって書かれている。

 

「奴隷」について聖書的な意味合いがある。

 

私たちクリスチャンは、キリストに代価を払って買い取ってもらった。ゆえに買い取ってもらった主人に仕えていく。

 

私たちはキリストの尊い血によって買い取ってもらった。

 

「奴隷」ということばについて少し見てみましょう。

 

参照 ローマ人への手紙1:1

1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、

 

しもべ(ギリシャ語):奴隷

 

パウロはあえてこういうことばを使っている。つまり、私たちがキリストの尊い血によって買い取ってもらったことを彼は理解していた。

 

さらに見ていきましょう。

 

参照 Ⅰコリント人への手紙6:20

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 

クリスチャンは皆、代価を払って買い取られた。ゆえに後半のことが、あるべき姿。でも、皆が皆、そうとはかぎらない。

 

けれども書かれていることは、どんな小さなことでも行っていくのが良い。

 

奴隷、しもべの特徴:自分の好き嫌いで行わない。基本的には言われたことを行う。主人の言うことを尊重する。場合によっては自分の意志と違っても、主の働きを尊重して行っていくときに恵みに入る。実践する人は、恵みになる。パウロはしもべとして主の言われることを尊重して永遠の命を得パターン。しもべと言っても、名目だけのことがある。しかし実質をしもべとして歩むなら恵みがある。

 

エレミヤ牧師の証:以前いた教会で、たとえの意味合いを解き明かすことを反対された。そして周囲の人たちが離れていった。しかし聖書のみことばが全てたとえで書かれていることを尊重してこのことに従った。結果としてそこの教会を出ることになったが、しかしその後、牧師&預言者としての道が開かれた。それは当時、そんな風にしもべとしての歩みに徹していたからだと思う。神さまがそのことに報いてくださった。

 

ポイント:「しもべ」ということばは、たしかにある。でも、行うのは別のこと。しかし行っていくことに御心がある。

 

123:3 私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

 

しもべ、奴隷として従うのは尊いこと。しかし、周りの人にはさげすまされたり、場合によっては悪口を言われたりする。

 

ヨブがその一例。ヨブは正しかった。そしてそのことを神がサタンに自慢した。そうしたら、サタンは神さまに「それではヨブが本当に誠実かどうかを試したい!」なんて言って、ヨブは試されてしまった。ちなみにヨブは神さまとサタンがそういった会話をしていたなんてことは全く知らなかった。そしてひどい目に会った。でも、そんな時でもヨブは神さまを呪ったりせずに最後まで誠実を堅く保った。そして祝福に入った。

 

私たちもヨブのように歩むなら、また、ヨブよりも正しく歩むなら、似たようなことが起きる。

 

また、パウロもそうだった。パウロに関してイエスさまはこのように言われた。

 

参照 使徒の働き9:16

彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。

 

ちなみにキリストの時にもこのこと(ヨブのこと)は起きた。ヨブの言った「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」(ヨブ記1:21とのことばは、イエスさまの上にそのまま成就した。イエスさまはまさに裸で天に帰られた。これは肉体的なこともそうだけれども、単にそれだけではなく、名声や名誉や人からの称賛をはじめ、あらゆるものを失った。最後、十字架にかかる時には12弟子まで逃げてしまった。

 

このことにひとつの語りかけがある。たとえそうではあっても「従うか?」ということを言われている。

 

それこそヨブも苦難を受けた。でも、神さまを非難せずに最後まで従った。また、聖書の別の箇所には「ヨブの忍耐」ということを言われている。

 

参照 ヤコブの手紙5:11

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。

 

そして、これから艱難時代が来る。その時、ヨブのように正しいがゆえに困難に会う。それに関して少し例を見てみましょう。

 

まず、「さげすみ」ということばについて。

 

参照 詩篇31:18

31:18 偽りのくちびるを封じてください。それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。

 

「それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。」とあるように、神のしもべとして正しく歩んでいるのだけれども、なおかつ「さげすみ」を受けることがある。イエスさまもそうだった。

 

参照 マタイの福音書27:3744

27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。

27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」

27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

 

少しずつ順に見ていきましょう。

 

27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。

 

「罪状書き」とは、まさに「さげすみ」のこと。

 

27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

 

他の犯罪人と一緒に、罰を受けて命を失った。

 

27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」

27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

 

ここであらゆる罵りやさげすみが来ている。

 

イエスさまはヨブと同じような苦難を受けた。これはヨブと同じように、二段階目の苦難。

 

サタンは二段階で試みる。⇒(一段階目):持ち物を失う。(二段階目):肉体そのものの試し。

 

大抵一段階目で潰れてしまう。ゆえに二段階目が来たら、ヨブやイエスさまが受けた試しだと思って良い。

 

本当にヨブやイエスさまのように歩んでいくなら、このような二段階の試しが来る。

 

ポイント:ちなみに二段階目の「肉体の試し」というのはシビアなもの。けれどもヨブやイエスさまはこのような試しが来ても留まった。ゆえに永遠の命を得る、というのは結構厳しいということが理解できる。多くの苦難がある。しかしこれが聖書的なパターン。そしてどんな人も栄冠を得るためには苦難を経る。つまり主の前に栄冠を得る、というときに簡単にはいかない。そしてサタンはそのあたりを見ている。得そうな人を観察している。けれども得る人は、苦難を経ても得る。

 

このことに関して、さらに見てみましょう。

 

参照 へブル人への手紙12:1,2

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 

主の十字架のことを聖書的な視点で見る。

 

「喜びのゆえに」ということばにひとつのポイントがある。そして報いのゆえに、栄冠を得るために、耐え忍んだ。つまり、イエスさまのように、栄冠に目を留めるのが正しい。

 

たとえばオリンピックで金メダルを取るために皆一生懸命練習をする。そして金メダル等、タイトルをゲットするなら有名になる。皆それを目指している。でも、永遠の命は金メダルとは比べられないほどに尊いもの。

 

ポイント:受けるべきものを見る。そして耐える。そういう犠牲を払っても、永遠の命は得るべきもの。

 

123:4 私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。

 

しもべとして、女奴隷として歩んで働きを担っていくときに、さげすみやあざけりが大なり小なりある。

 

レムナントキリスト教会の働きもそう。時として「異端」と呼ばれることがある。そういう意味で、たとえ正しく歩んでいても、これからもさげすみやあざけりということはあるのでは?と思う。

 

参照 イザヤ書28:1418

28:14 それゆえ、あざける者たち――エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。

28:15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

28:17 わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。

 

順に見ていきましょう。

 

28:14 それゆえ、あざける者たち――エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。

 

エルサレム:教会

 

「あざける者たち」とあるように、正しく角笛を吹いてもあざけられることがある。

 

28:15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

 

こういうことを言っているクリスチャンは案外多い。

 

たとえば、「クリスチャンは裁かれない。携挙のときに、たまたま泥棒をしていても、それでも携挙される。」なんて言っている人が、もしいたとしたら、それは、「死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる」と言えるのでは?と思う。また、他にも、「クリスチャンは嫌でも永遠の命を得る」なんていうことも同じことが言える。

 

こういうことは、偽り&まやかしの教えである。

 

そういう人たちが正しいクリスチャンをあざけるのだけれども、だからと言って、つまりそういう人たちにあざけられたからといって、驚いてはダメ。

 

28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

28:17 わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。

 

18節に、「あなたがたの死との契約は解消され、」とあるように、「死との契約」は解消される。「死との契約」とは、「クリスチャンは決して裁かれない」というような教理のこと。また、「同盟」とは、「クリスチャンは決して地獄に入らない」というような教えのこと。

 

しかしそういうことを言う人たちにあざけられても、気にしない。

 

ポイント(1):本当に永遠の命を得る、というときに、サタンに妨害される。そして最後の最後でひっくり返されないように気を付ける。イエスさまは最後まで従って永遠の命を得たパターン。ゆえにイエスさまは私たちの良き模範と言える。

 

ポイント(2):得るべきものを得るというときに、苦難を経る。そして入るべき所に入る。