詩篇130篇 2015.10.11
都上りの歌。ソロモンによる
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130:1 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
ここでは、祈りについて書いてある。
「深い淵」ということばについて見てみましょう。
参照 詩篇69:1,2
69:1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。
69:2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。
2節の「深い泥沼に~押し流しています。」のことばが、「深い淵」と同じことを言っている。普通、「深い泥沼」ということばで連想するのは・・・もし、そこに入ってしまった場合にそこから逃れることが出来ない、ということを想像する。たしかに実際にそういうこともある。けれども、それだけではなく、たとえの意味合いもあるので、そのことも見てみたい。
「深い淵」とは、霊的な事柄を言われている。そしてたとえ私たちが深い淵に溺れたことが無くても、しかし霊的な圧迫とか惑わしとか攻撃を受けることがある。人間的にどうしようも出来ない、感情をコントロール出来ない、ということがある。そのような時に・・・主に求めていくときに・・・もし、深い淵に入ってしまっても、助けられたり守られたりする。そして実際に奉仕をしていく中で、霊的な圧迫が来たり、やる気が無くなってしまう、ということがある。
エレミヤ牧師の証:私は霊的な圧迫を受けたり、心の思いをすぐに攻撃されやすいので、そのことで主に祈っていました。人間的なことでは何の解決にもならないし、根本的な解決にならないので主に祈りました。ある時、メッセージをしなければいけないのに、奉仕する気持ちになれなかったり、思いが沈んでしまう、ということがありました。その時に祈っていきました。祈る前は気持ちが乱れていました。けれども祈りの中で圧迫が消えたり、解消されていきました。このことを通して教えられたことがありました。それは、そういう状況になったときには、逃げずに主に正面に向き合って、祈って勝利を取っていく、という経験をすることは大事なことだと思いました。
ポイント:敵はしょっちゅう来る。かつての旧約のイスラエルの民やダビデの時もそうだった。しかし主に頼っていく中で勝利を取っていく。アサ王やヒゼキヤ王も主に頼って勝利を取ったパターン。私たちもぜひ、そうしていきたい。そして主は真実なお方なので、このように祈って求めていく人は、霊的な圧迫からの解決や解放を得る。
130:3 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
130:4 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。
もし、神御自身が来られて、私たちの不義をハリの穴のように見られてしまったら、私たちはあれもこれもダメ出しを受けてしまう。
エレミヤ牧師の体験:私は若い頃50ccの原付バイクに乗っていて、よくお巡りさんに止められました。ある時、自宅の近くで「免許証を持っているか?」と聞かれました。けれども、家に置き忘れてしまったのでそのことをお巡りさんに話したら、「それは不携帯の違反だ。しかし自宅に取りに行くなら許そう。」と言ってくれました。その場所は自宅からすぐの所だったが、しかしその時に「あなたは免許証を持っていないから、歩いて取りに帰りなさい。私があなたのバイクを運転していきますから。」とお巡りさんに運転してもらったのだが、自宅付近になって、「あなたの良い所はヘルメットをかぶっているくらいで、このバイクのあそこもダメ、ここもダメ。」と言われてしまいました。このような例が良いか分かりませんが・・・私たちの不義も、主の前にはボロボロだ、ということを言いたかったのです。
けれども感謝なことに・・・イエス・キリストの初降臨は、それは「助け主」として来られた。たしかに12弟子の一人であったユダにも金を盗んでいた罪があり、もちろんそのことも知っていたのだけれども、しかしキリストは、人を助けた。癒しを行った。そして罪に関して、お巡りさんとは違って、あらゆる罪を暴く、ということをしたわけではない。
そうです。キリストは警察官のように、人の罪をどこまでも暴くお方ではなく、私たちの罪を赦してくださり、贖ってくださるお方。たとえば、ヨハネの福音書に書かれている姦淫の場で捕らえられた女がそうだった。「罪のある人が彼女に石を投げなさい。」と言い、さらに「私もあなたを罪に定めません。これからはもう罪を犯さないように。」と言われた。
むろん、罪を犯すよりかは犯さないほうが良いのだが・・・しかし万が一にも、罪を犯してしまった場合でも、イエスさまはその人の罪を罰することなく、助けてくださり、正しい道に入れるように備えてくださる。永遠の命の道を開いてくださる。私たちの罪をどこまでも追及しない。本来、罰せられる罪を赦されたり、解放してくださる。ちなみにイエス・キリストは、「聖霊」を描写する方であり、聖霊もそのようにして来られた。
参照 ヨハネの福音書3:17
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ポイント:私たちが罪に陥っても、救済するために来られた。私たちの罪は見えていても、赦してくださり、道(永遠の命への道)を講じてくださる。
130:5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
私たちは主を待ち、主のことばを待つ。
私たちが歩みや奉仕をしていくときに、主のことばを待ち望むのは良いこと。
エレミヤ牧師の証:エレミヤ書1章(5~10節)のことばが、奉仕する前に与えられた。これらのことばが来たことによって奉仕を進めるきっかけとなった。あらゆる教団に対して警告をするようになった。どの教団にも行った。そして今現在も、どの教団にも必要なことを語っている。エレミヤ牧師の生まれつきの性質はおとなしいタイプなのだが・・・しかし、「わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」とか、「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。」と言われているので、おかまいなしに、そして一言も省かずに語っている。その結果、恵みが大いにある。
130:6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
130:7 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
130:8 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。
「夜回りが夜明けを待つ」とは、夜は光が無く、朝は光がある、ということを言われている。
参照 Ⅱペテロの手紙1:19
1:19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
世の終わりの時は、「夜」。「光」がどんどん暗くなってくる時。ゆえに光を求めていくのが正しい。いずれ夜が明けて、「明けの明星」が来る。しかしそれまでは、夜を歩んでいく。そして残念ながら、世の終わりは「夜」。だんだんと真理の光が消える「夜」が来る。その時に、朝の光を待つように主を待ち望む。真理の光を待ち望む。
ポイント:たとえ真理の光が無い時であっても、朝の光を待ち望むように、真理の光を待ち望む。
しかし、真理についてどうでも良い、と思っている人には、真理は開かれない。真理を求めていない人には真理は開かれない、というのも一面の事実。けれども真理の光を求める人は、真理を得る。
エレミヤ牧師の証:真理を知りたいと思っていた。特に艱難前携挙説についてのポイントが分かると良いなぁ、という思いを持っていた。そうしたところ、つい最近非常に大事なポイントが示された。艱難前携挙説は、聖書的に全く根拠が無いわけではないということが分かった。詳細については、これから発行する角笛のニュースレター(11月号〔第67号〕以降)で紹介させていただく予定ではありますが・・・英語の改ざんされた聖書には、「キリストの日」と「主の日」は別の日だとある。そして日本語の聖書は改ざんされた聖書に忠実のため、艱難前携挙説を信じている。このことを、主は不思議な方法で示してくださった。
ポイント:夜のやみではなく、真理を求めていく人はそれを得る。レムナントキリスト教会は、祈り求めて行ってきたので、入るべき所に来ている。主に尋ねていく人が得る、というポイントを見ておきたい。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著