詩篇131篇 2015.10.18

 

都上りの歌。ダビデによる

 

 

131:1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。

 

一体これは何を歌っているのか?

 

絶対にそうです!とは言えないそうですが、しかしエレミヤ牧師はこのみことばを通して、ペンテコステやカリスマ運動の霊の不思議やしるしを思い出したそうです。そしてひょっとすると、このことはそれに対する警告なのでは?と思ったそうです。「奇しいこと」とは、まさに「しるしと不思議」を言われているのでは?と思ったそうです。

 

また、エレミヤ牧師によると・・・かつてペンテコステやカリスマ運動の渦中にいたときに、皆、高ぶっている、ということを聞いたそうです。働き人が威張っているそうです。そういう霊が働いているらしいです。つまり賜物やしるしや不思議に伴って、「高ぶる」ということが出てくるそうです。そして今現在、ペンテコステやカリスマ運動のしるしや不思議に深入りしている人が多いそうです。かつてロドニー・ハワードの集会へ行ったそうですが、その時に外国から追いかけて来た人もいたそうです。しかし、もし、神から来た人でないなら、追いかけないほうが良いでしょう。

 

131:2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。

 

このことは大事。たましいを和らげることは大事。

 

また、「乳離れ」することも大事。マタイの福音書にもそのことが書いてあり・・・「だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」(マタイの福音書24:19ということが言われている。このことは「堅い食物」が食べられない、ということを言われている。ゆえに「乳離れ」とは、「堅い食物」を食べることを言われている。そうするなら、変なリバイバル集会に引っ張られない。今、しるしと不思議が許されている。不忠実だと変な霊が許されてしまう。

 

131:3 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

 

主の霊の働きを待つのが正しい。