詩篇135篇 2015.11.1

 

135:1 ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち。

135:2 主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。

 

「しもべ」として神に仕えていくことにポイントがある。「しもべ」とは、神の言われたことを行っていく人のこと。たとえば、レストランの場合に・・・お客さんは椅子に座って料理を注文する。そうするとウェイターやウェイトレスがそれを運んでくる。両者を比べるなら、誰もが客の立場が良い。

 

でも、聖書は逆説的で、「しもべ」にポイントがあることを語っている。これは聖書の常識。そして信仰でもある。けれどもみことばに従って損をすることは無い。エレミヤ牧師もみことばに従って良かった、と思うことがよくあり、後の世でも多分そうなのでは?と思っているそう。

 

135:3 ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。

 

主の御名は麗しい。

 

135:4 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。

 

「主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで」とあるように、色々な民がいた。でも、彼らのことを神は愛された。そして、「イスラエル」とは、新約時代の「クリスチャン」のことを言われている。また、「宝」ともされている。私たちクリスチャンのことを、「宝」として扱ってくださるゆえに、もっとも良い所(天の御国)に入るために、色々と訓練もしてください。ゆえに、「宝」とされているのは真実である。

 

135:5 まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。

 

人間の器のことを、「神々」と呼んでいる。人の器で立派な人がいる。でも、そういった人に優って主が一番である。人の教えより、神のことばを取るほうがことごとく良い結果になる。神のことばを取るのが正しい。

 

135:6 主は望むところをことごとく行なわれる。天で、地で、海で、またすべての淵で。

 

起きてくることは、どれもこれも神の御手の中で起きてくる。たとえば政治についてもそうだと言える。つまり色々なことは神が起こしている。神の按配の中で起きてくる。「天」「地」は、「教会」のたとえ。「海」は霊的な事柄を示す。教会や霊の世界で起きるのも、神の許し&御心の中で起きる。

 

良いことも悪いことも、神の許しの中で起きる。そして全て公平である。思いも掛けないことも含めて、起きてくることは必然。人の判断は100%ではないが、神には間違いが無い。神を恐れ、正しく行っていけばOK。そして惑わしに入るのも、神の許しの中。神はあらゆる所で働いている。そして皆公平。ゆえに神を恐れる。霊の惑わしも含めて、全て必然。

 

135:7 主は地の果てから、雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。

 

「雲」「雨」「いなずま」は、皆霊的なこと。聖霊&悪霊が働くのも、神の御心の中で起きる。ゆえに神を恐れる。

 

135:8 主はエジプトの初子を人から獣に至るまで打たれた。

135:9 エジプトよ。おまえのまっただ中に、主はしるしと奇蹟を送られた。パロとそのすべてのしもべらに。

 

ここで、「エジプト」について言われている。「エジプト」は終末に大いに関係がある。黙示録にソドム&エジプトと呼ばれる都のことが書いてあり、これは背教の教会のことを指す。他にもあらゆる箇所で預言されている。世の終わり、教会がソドム化、エジプト化する。「ソドム化」とは、同性愛を受け入れること。そして「エジプト化」とは、どういうことを言われているのか?

 

「エジプト」の災いは、「しるし」「奇蹟」と関係する。しるし&奇蹟を送られることが、エジプトの特徴。ちなみにペンテコステ系の教会に関係する。彼らは聖霊の働きを求めているのだが、しかし、しるしと不思議が多い。リバイバル集会があり、その中で「デーモン、デーモン」と悪霊を呼んでいる。つまり教会がエジプト化するひとつの特徴として、しるし&不思議ということが挙げられる。教会で災いのしるし&不思議が起きている。

 

出エジプトで、10の災いが起きた。幾つかの例を挙げるなら・・・「かえる(黙示録のかえるのような霊に通じる)」「ナイルの川の血」「ぶよ(KJV訳:蝿→ベルゼブル、すなわち蝿の王に通じる)」「雹」等がある。これらは皆、「悪霊」のことに通じる。こういうものが、しるし&不思議と呼ばれる。つまりペンテコステ系で行われているしるし&不思議は、エジプトに下っている災いのこと。そして神の怒りによって、この世に着いたクリスチャンに災いが下る。

 

もうひとつのこととして・・・イスラエルがエジプトを出たことについて書かれている。エジプト化した教会を出る、というのが、神が語っていること。金粉が舞ったり、金歯が生えてきた、というのは悪霊から来たものだから。

 

135:10 主は多くの国々を打ち、力ある王たちを殺された。

135:11 エモリ人の王シホン、バシャンの王オグ、カナンのすべての王国を。

135:12 主は彼らの地を、相続の地とし、御民イスラエルに相続の地として与えられた。

 

今度は、「カナン」の話になる。「カナンの地」について、このことは出エジプトの後、「カナンの地を与える」という約束がある、ということを言われている。「カナンの地」とは、「乳と蜜の流れる地」のことを言われている。しかし、そこに強い敵がいる。つまり「巨人」がいる。ちなみに「巨人」とか「アナク人」とは、「御使い」のたとえ。

 

私たちクリスチャンは約束の地、相続の地をゲットしなければいけない。でも、そこは歓迎してくれるわけではなく、住民が住んでいて、戦っていかなければいけない。このことを通して、私たちが「永遠の命」を得る、ということを説明している。それこそ「命に至る道は狭い」とあるように、「永遠の命への道」を妨害している存在がいる。まさに「御使い」が妨害している。しかし「御使い」と戦い、勝って入っていく。

 

12節では、本来御使いが受けるべき地を私たちが受ける、ということを言っている。そういうわけで、御使いの怒りが爆発し、妨害してくる。ゆえに私たちは大変な戦いをしている。本当はカナン人が相続する。でも、イスラエルが相続する。「御使い」は、私たちは生まれついた時から永遠のライバル。

 

たしかに本来私たちには御使いに勝てる力が無い。でも、主にあって歩むときに勝利出来る。占領出来る。主に頼る人は打ち勝ってゲットしていく。

 

エレミヤ牧師の証:奉仕に入る前、弱い所があった。奉仕への恐れがあった。でも、祈っていく中で圧迫から解放されて出来るようになった。その時に思った。そういう時に引くことなく、祈りによって押していくことは大事なことであるか・・・と。

 

135:13 主よ。あなたの御名はとこしえまで、主よ。あなたの呼び名は代々に及びます。

135:14 まことに、主はご自分の民をさばき、そのしもべらをあわれまれます。

135:15 異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。

135:16 口があっても語れず、目があっても見えません。

135:17 耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません。

135:18 これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。

 

「偶像」について書いてある。仏像を拝むクリスチャンは殆どいない。しかし「器」(働き人)を拝む、ということをある。ゆえに聖書の視点で「器」を見る。「銀」「金」は「信仰」のたとえ。そして「人間的なわざ」について言われている。16、17節にあるように、大事なことを見えていなかったり、聞こえていなかったりするのは問題。たとえば、午前の礼拝での「サルデス」の学びを通してプロテスタントのクリスチャンが裁かれること等。

 

人間の器には限界がある、ということを言われている。しかし主に頼っていくときに、聞くことが出来る。「息」は「聖霊」のことを言われている。そして偶像を造る者は、人を偶像にしてしまう。人のことを何もかも信頼してしまうと、恥を受けてしまうことがある。たとえば、艱難前携挙説とかおかしな終末論等。今の問題は、器に引っ張られて変なものを掴んでしまうこと。

 

135:19 イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。

135:20 レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。

135:21 ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。

 

レムナントキリスト教会は、主に頼ってベストな真理が見えるようになった。主に頼ることと、人に頼るのは相反する場合が得てしてある。しかし主に頼るときに恵みがある。