詩篇140篇 2015.12.6

 

指揮者のために。ダビデの賛歌

 

 

140:1 主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

140:2 彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

140:3 蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

 

これらの節に関して、何が問題なのか?を見ていく。ちなみに聖書の本当の著者は神御自身。ゆえに、書いている本人もあまり意味が分からずに書いた、なんていうケースもあるのでは?と思う。

 

3節に「蛇」とある。「蛇」とは、エデンの園でエバを騙した「蛇」に通じる。エバに「あなたがたは決して死にません。」(創世記3章4節)と嘘を言い、永遠の命から外させたのが「蛇」である。「蛇」は、神のことばを曲げて滅びに至らせた。同篇の5節で言われていることもそう。みことばや教理の罠のことを言われている。同篇9節もしかり。そして、イエスさまが「蛇ども。まむしのすえども。」(マタイの福音書23章33節)と言われたように、「蛇」とは、律法学者やパリサイ人のことをも言われている。

 

基本的に聖書のどのみことばも、「キリストに従っていきましょう!」ということを言われている。しかし、教会の中で「蛇やまむしのすえ」と言われる働き人がいる。それは、神のことばを曲げる働き人のこと。みことばにおいて、間違えたことを語る人々。しかも、そういう人々はモーセの位置に座っている。

 

たとえば、カトリックでは、「聖書のことばには誤りがある。」ということを言っている。しかし、これは間違い。ゆえに教会は必ずしも正しいことばかりが語られているわけではないことが理解出来る。そういう意味で、場合によっては、教会は危険がある、とも言える。でも、そんな風に思っている人はいない。けれども実際のところ、「まむしの毒」で、咬まれてしまう危険がある。そして一般的に、まむしに咬まれると死んでしまう。同じく、教会の危険として、間違えた教理を聞いたり、変な教理を掴んでしまうときに、霊的に死んでしまう。一例を挙げると、艱難前携挙説とか、クリスチャンになったら皆天国というような教理がそうだと言える。

 

140:4 主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

 

「押し倒そう」ということが書いてある。「暴虐」のところは、KJV訳では「邪悪」とある。また、「押し倒す」のところは、KJV訳では「足を踏み外す」とある。これはつまり、命に入る道から外される、ということを言われている。

 

これらのことを通して言えるのは・・・メッセンジャーによって、結論が変わる、ということである。そして残念ながら、教会に行きながらも「道」を踏み外す人がいる。また、このことは旧約時代の時だけではなく、今現在にも関係がある。そういう危険が今の時代にもある。ゆえに私たちは危険から守られるために、福音書を読み、そこから学びをする。そしてダビデのように、「主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。」という風に、ぜひ、お祈りしていきたい。

 

エレミヤ牧師の証:過去、ブラザレン系の教会に通っていたことがある。ブラザレン系の教会というのは、中間祭司職を否定している。そのため教会に牧師がいない。無論聖書には、教会に牧師がいることについて書いてある。そのためだったのか・・・ブラザレン系の教会に対してだんだんと違和感を覚えるようになり、そして神さまに祈っていくようになった。そうしていく中で、教会には牧師がいなければならないことを聖書に書かれていることを改めて知り、だんだんとその罠から抜け出すことが出来た。

 

ポイントとして・・・そんな風に祈っていくなら、神さまに守っていただける。

 

140:5 高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。セラ

 

「落とし穴」ということばに関して・・・たとえば大人になって、目に見える「落とし穴」を作る人はいない。けれども教会や信仰や教理に関して、「落とし穴」と言われるようなことが語られている。たとえば今の時代において、初めの純粋なものやかつての良いしきたり等が保たれているわけではない。たしかに世の中もそうなのかも知れないが・・・しかし、教会も変質してきている。あらゆる教理に関して、罠がある。

 

たとえば、信仰のことをあまりにも強調するのも問題がある。なぜなら黙示録には、「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」(ヨハネの黙示録20章12節)と書いてあるから。「行ない」ということばがありますが、残念ながら教会から「行ない」が外されてきている。でも、さばきの対象となるのは、「信仰」ではなく、「行ない」だということを心に留めておく。プロテスタントでは、「信仰」を強調し過ぎている。でも、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)とあるように、神の前にたった一度だけ「さばき」があるので・・・しかもそれは試験のようなものなので、ゆえにそのために用意をしたり、備えをしたりする。

 

たとえば、英語の試験の場合は、英語の勉強をするように・・・そして聖書には、「行ないに応じてさばかれた」とあるので、ゆえに「行ない」を備えていく。しかし、実際にはこういうことがズラされている。そんな風に「罠」は、思い掛けないところに掛けられる。そして引っ掛かる。しかし主の恵みがあるなら、そういう罠から逃れていく。

 

140:6 私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。

140:7 私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。

140:8 主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。そのたくらみを遂げさせないでください。彼らは高ぶっています。セラ

140:9 私を取り囲んでいる者の頭。これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。

140:10 燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように。彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、彼らが立ち上がれないようにしてください。

 

高ぶった者、惑わしを語る人は、「罠」に入る。

 

140:11 そしる者が地上で栄えないように。わざわいが暴虐の者を急いで捕えるようにしてください。」

 

そしる者が地上で栄えないように(KJV訳):邪悪な語り手が地に堅く立てられないように。

 

このことばは、メッセンジャーに関してのことば。語っている人は、皆正しく語っていると思っている。しかし主の前には、蛇やまむしのすえ、と思われてしまうメッセンジャーがある。そして、もし、教会のメッセンジャーとして立った際に、御心でないことを語っているなら、歩みがぐらついてしまう。しかもダビデはキリストの型でもあるので、そのような視点で理解するなら、このお祈りは、キリストの願いでもある、と言える。あるいは、こうする・・・ということを言われている。つまり、メッセンジャーの姿勢によって、神&人からの扱いが変わってくる。そして正しくみことばに立たないために、地位や歩みがぐらついている人がいる。

 

エレミヤ牧師の証:かつて行っていた教会の牧師が福音に立っていなかった。そのため、歩みがぐらついていた。

 

140:12 私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

140:13 まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。

 

「直ぐ」とは、「まっすぐ」ということを言っている。そしてこのことは、聖書的に良いことば。ちなみに「いのちに至る門は小さく、その道は狭く」(マタイの福音書7章14節)とある。「狭い」のところは、英語で「まっすぐ」という風に訳されている。

 

主の前にまっすぐな道を歩んでいくときに、神さまの前に恵みを受けるようになる。その際に人から良い評判は来ないかも知れない。でも、神さまからの啓示や警告や大事な教えが来る。たとえば、バビロンの霊を受けると神さまからの怒りを買うとか、エジプトの災いとは贖いが無効になる等。ゆえにこのことばは正しい、ということは見ておく。