詩篇145篇 2016.1.10

 

 

 

ダビデの賛美

 

145:1 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

 

145:2 日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。

 

145:3 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

 

145:4 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

 

 

 

主のわざの素晴らしさを伝えていくことにポイントがある。

 

 

 

145:5 私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。

 

 

 

「主権」とあるように・・・教会で起きてくるあらゆる事柄は、神の許しの下に起きている。あれも神のわざ、これも神のわざ、と見えるなら、あるべきクリスチャンの姿。

 

 

 

「奇しい」とか「びっくりするわざ」について・・・

 

 

 

エレミヤ牧師の証:時を経るにしたがって思うことがある。天皇家とダビデ王朝のことがそう。みことばに「ダビデのともしびは消えない」ということが書かれている。つまり、王としてダビデの血族はとどまる、ということを言われている。でも、バビロン捕囚の時に、王朝は途絶えたように思えた。しかし、今でも続いている。そしてまさに日本がそうである。また、偽ユダヤ人と本物のユダヤ人とがすり替わっている。しかも本物であった日本人は、何も知らない。それも神のわざではないか?と言える。そういう意味で、神の方法はすごいなぁ・・・と改めて思った。

 

 

 

145:6 人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。

 

 

 

神のわざ、というのは、「恐ろしいみわざ」である。

 

 

 

145:7 人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。

 

145:8 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

 

 

 

神は、色々な特徴がある。そのひとつとして、「怒る」のに遅い。人の場合はそうではないかも知れない。しかし主は、私たちが色々と間違えても、忍耐強く教えてくださる。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:祈りに関して教えられ、訓練された。100回以上言われた。でも、なかなか身に着かなかった。でも、身に着くまで、忍耐をもって教えてくださった。ゆえに、主の声に耳を傾けて、成長していきたい。

 

 

 

145:9 主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。

 

145:10 主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。

 

 

 

どのクリスチャンに対しても、主の憐れみがある。

 

 

 

145:11 彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。

 

145:12 こうして人の子らに、主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。

 

145:13 あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。

 

 

 

「王国」について、語られている。

 

 

 

「王国」に目を留める。

 

 

 

新約聖書に、「神の国」ということが書かれている。KJV訳では、「神の王国」とあり、それは「教会」のことを言われている。そして、王さまが治めているので、「王国」と言う。

 

 

 

「教会」は「神の王国」とも言える。「教会」は、人間しか見えないかも知れない。でも、見えないキリストが、教会を治めている。

 

 

 

「統治」とあるように、王さまが治める。どんな風に治めるのか?具体的には、悪い人を罰し、正しい人には誉れを与える。そして、見えない神を「王」とするなら、祝福を受ける。

 

 

 

たとえば、カトリック教会は、見えるローマ法皇のことを王としている。たとえば、マリヤ崇拝を行ったり、聖書よりも法皇の言うことを優先したりしている。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:前の教会でジレンマを感じた。キリストは二回来る、ということを教会では語っていた。しかし、私(エレミヤ牧師)は、一回と理解していた。そして、教会の言うことに同意しない人は、神学校をやめてもらう、ということが言われていた。その時、どちらを選ぶのか?ということで悩んだ。そして、みことばを優先したら、追い出された。でも、主は統治しておられるので、正しく従った結果、報いてくださった。

 

 

 

つまり、「統治」とは、正しく行った人には良い報いを、しかし、そうでない人は良い報いを得られない。お一人一人の歩みにおいても、そうだと言える。

 

 

 

145:14 主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

 

 

 

私たちが倒れたり、かがんだりしても、主が起こしてくださる。

 

 

 

正しく従っていれば、助けてくださり、引き上げてくださる。

 

 

 

失敗しても助けてくださる。ゆえに、あまり細かいことを気にしない。たとえば、ペテロは溺れそうになった。その時に、「信仰の薄い人だ。」とイエスさまに言われた。でも、主はすぐに手を伸ばして、彼(ペテロ)をつかんで助けてくれた。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:ブラザレン系で歩んでいたことがあり、その時につまずいたことがあった。他の教会と交わりを持ってはダメ、というものがあり、それが縛りとなった。でも、主が助けてくださった。だんだんと正しいことを教えてくださった。そうこうするうちに、リーダーと少しずつ疎遠になり、ブラザレン系の教会から離れていくことが出来た。かがんでいるところを起こしてもらった。ゆえに、失敗しても、間違えても、正しく従っていこうとするときに、起こしてくださる。そういう意味で、主の方法を見ていく。

 

 

 

145:15 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

 

 

 

クリスチャンにとっての食物(命のパン)も与えてくださる。タイムリーなことばを与えてくださる。時にかなって、必要なことを教えてくださる。

 

 

 

145:16 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。

 

 

 

願い&祈りが答えられる。たとえば、奉仕に関しても、色々な事柄が開かれてくる。

 

 

 

145:17 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

 

 

 

「正しい」とは、「義」のこと。ゆえに、神さまは正しくさばくお方。不義に関しても、正しくさばく。ゆえに、あらゆることにおいて、神を恐れていきたい。たとえ理不尽な目に会っても、正しく歩んでいるなら、必要と思われる場合に、神さまがさばいてくださる。艱難時代においても、しかり。ゆえに、自分で復讐をしない。そういったことにおいて、心配しない。

 

 

 

145:18 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

 

 

 

主は、呼び求める者に近いお方。

 

 

 

145:19 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

 

 

 

主を恐れ、願い求めていくときに、祈りを聞いてくださる。

 

 

 

145:20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

 

 

 

主のことばを守る人は、守られる。しかし、悪者は滅ぼされる。

 

 

 

145:21 私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

 

 

 

私たちの口が、主の誉れを語ることは大事。