詩篇27篇 2013.10.6

 

27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

艱難時代の型

聖書の暗号は、サウルの記事と一致している

いずれこのことは起こる

キリスト教会やクリスチャンの多くが敵になっても恐れずに主に従っていく

理不尽なことが起こっても、訴えたりせずに主を頼っていく時に助けられたり、守られたりする

艱難時代でなくても今の時代においても理不尽なことが許されるのは聖書の価値観を知ったり、霊的に建てられたりするため、ある意味、艱難時代に正しく対応するための訓練とも言える

ただ、敵はいずれ自滅するので恐れずに主を信じていきたい

 

27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

いのちの日の限り:自分の人生の間

主の家に住む人と住まない人がいる

「家」は「教会」を指す

参照 ルカ2:4049

2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。

2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、

2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。

2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、

2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。

2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」

2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

無教会派なんていうことを言っている人もいる、しかし主の家、すなわち教会に住むことに麗しさがあるので住んだほうが良い

教会に行くことによってクリスチャンとして入るべきところに入っていく

家として働きに入っていくことに大事なポイントがある

 

27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

ダビデがサウルに追いかけられた→艱難時代の型

ここに書かれている「幕屋」は、仮庵、すなわち地下教会のこと→ひそかな所

正しい信仰を持とうとする人は、地下教会に入る

地下教会の大事なポイント→人から見破られない

本当の教会が地下教会の中にある

艱難時代、公の教会は獣化する、しかし一方、地下教会で神の栄光があらわれる

 

27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

「御顔」を隠すということについて

顔を隠されると表情が見えない

主が怒っているのか?悲しんでいるのか?笑っているのか?が分からない

人は往々にして勘違いをしている

終末、背教に関して主が怒りを発している、厳しい顔をしている

今の時代、主の顔を仰ぎ見るなら幸い

 

27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

主に救いがある

 

27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

父、母が見捨てるということがこの世において例外的にある

しかし主が助けてくださる

そして信仰の世界でもこれから起きてくる

教会の牧師が正しい信徒を訴えて死に至らせる

艱難時代、法律がからんで訴えられる、これは想定内と考える

でも、主に正しくついているなら、主が取り上げてくださるので絶望しないこと

 

27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。

27:12 私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。

小道、平らな道:正しい道→小さい門、細くて狭い道に通じる

神の道は神が教えてくださらないと歩めない

神が教えてくれなければ、見出すことができない

主に示されて、それがはじめて分かる

見つけ出しにくい

これをその通りに思い、謙虚に受け入れ、求めていくなら見出す

聞かない人は見出せない可能性がある

真に求める人は見出す

求めていく中で徐々に平らな道に入っていく

11節のダビデの祈りが正しい

求めるなら与えられる

求めない人は危ない

これからも求め続けていきたい

謙虚に求めていく人に御心があり、見出す

 

27:13 ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。

27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

主ご自身を待ち望み、主が正しい道を示してくださることを信じていきたい