詩篇60篇 2014.5.25

 

 

 

指揮者のために。「さとしは、ゆりの花。」の調べに合わせて。教えのためのダビデのミクタム。ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに

 

参照 Ⅱサムエル記8:17,1315

 

8:1 その後、ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させた。ダビデはメテグ・ハアマをペリシテ人の手から奪った。

 

8:2 彼はモアブを打ったとき、彼らを地面に伏させて、なわで彼らを測った。なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしておいた。こうしてモアブはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。

 

8:3 ダビデは、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来たとき、彼を打った。

 

8:4 ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。

 

8:5 ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を打った。

 

8:6 ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。

 

8:7 ダビデはハダデエゼルの家来たちの持っていた金の丸い小盾を奪い取り、エルサレムに持ち帰った。

 

8:13 ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰って来たとき、彼は名をあげた。

 

8:14 彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。

 

8:15 ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。

 

ダビデはペリシテ人、モアブ人を屈服させた

 

イスラエルの近隣の国々にダビデは勝利を得た

 

ダビデはイスラエルの王であり、キリストの型

 

そして新約の私たちもイスラエル

 

今もダビデ(キリスト)が教会のすべてを治めている

 

ユダヤ人の王としてキリストが殺されたのは正しい、また、イエスの罪状書は、ラテン語、ギリシャ語、ヘブル語で書かれた、そしてギリシャ語&ラテン語は新約聖書と関係がある

 

そしてキリストの十字架は終末にも再現する

 

参照 ヨハネの黙示録11:8

 

11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

背教の教会はイエス・キリストを王とは認めない

 

しかしキリストを真の王としている人は祝福を受ける

 

イエス・キリストは王として教会を治めている

 

イエス・キリストを受け入れようと受け入れまいと、すべてのものに対して正しい裁きを行う

 

真の王はたった一人しかいない

 

良いことには良い報いを、悪いことには罰を与える

 

ある人はキリストを受け入れて祝福に入る、ある人は拒否して災いを受ける

 

エドムは罰を受けた

 

私たちの歩みは主に牧会されている

 

御心に沿った歩みをしていくときに、良いことが起きてくる、しかし俗悪&御心でないときに、歩みが大変になっていく

 

裁き:良いことには良い報い、悪いことには悪い報い

 

クリスチャン生活は真の王であるキリストの下にある、ゆえに私たちの益のためにムチ打ちがある

 

何か起きたときは、少し考える、何か反省すべき可能性がある

 

 

 

60:1 神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。

 

神によって治められている民(エドム、モアブのような御心からズレた民)に関して語られている

 

地図を見れば分かりますが、エドムやモアブは中心地(エルサレム)からズレている、このことを通して、これらの民はろくでもない道に入り、ズレた歩みになっている

 

俗悪な歩みをしていることに対して、正しく裁きを行った→敵に敗れてしまう、神に顔をそむけられてしまうような歩みに入ってしまう

 

それぞれの歩みに応じて報いられる、正しい裁き&扱いがある

 

 

 

60:2 あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。

 

エドム的な歩みをしていると、地がぐらついていく

 

御心からズレた歩みをしていくときに、ろくでもない災いに入る

 

 

 

60:3 あなたは、御民に苦難をなめさせられました。よろめかす酒を、私たちに飲ませられました。

 

よろめかす酒(KJV):驚かす酒、そして酒は霊的な事柄

 

エドムの歩みのときに、ひどい扱いを受けたりする

 

私たちが正しくないときに、ろくでもないことになる

 

霊的に変なものを受けてしまう Ex:カトリック

 

歩みが忠実でないてきに、ろくなことにならない

 

プロテスタントも惑わしの霊が来ている Ex:艱難前携挙説

 

惑わしに入るのは自己責任、それなりに原因がある

 

主は公正なお方

 

 

 

60:4 あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。セラ

 

神を恐れた歩みをしているなら、「旗」を与えられる、色々と示していただける、「旗」があると目印になる

 

「旗」があるところには災いが下らない、こういう概念は見ておく

 

参照 エゼキエル書9:26

 

9:2 見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のそばに立った。

 

9:3 そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、

 

9:4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」

 

9:5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。

 

9:6 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。

 

神の裁きがこの町に行われる、しかし例外があって「しるしのついた者」は免れた、「しるし」「旗」に通じる、そしてこういう区分がある

 

神を恐れなければならない

 

神が報いをし、裁かれる方ということを理解しないと、終末のことを理解できない

 

神への恐れが無い人は、何も理解していない

 

神を恐れるときに、正しい事柄が見えてくる

 

多くの聖書の約束は目には見えない、「しるし」「旗」もしかり、しかし聖書に書いてある以上、区分がある

 

 

 

60:5 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。

 

60:6 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。

 

60:7 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。

 

60:8 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」

 

神はそれぞれの歩みに応じた報いを与える

 

かぶとや杖:誇らしい

 

それぞれのクリスチャンは、歩みに応じて報いをいただく

 

エドム的クリスチャンだったら、悔い改めてユダのような歩みをしていけば良い、エドム的なクリスチャンだからと言って、そのままずっとエドムのままでいるわけではない、悔い改めればOK!

 

クリスチャンの行いに応じて報いられる、ゆえにクリスチャンは一様ではない

 

 

 

60:9 だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。

 

60:10 神よ。あなたご自身が私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。

 

60:11 どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。

 

エドムの歩みのときに、ボロ負けしてしまう、敗北続きになる

 

 

 

60:12 神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。

 

クリスチャンは敵を踏みつける、しかし歩むべき歩みをしていないと敗北となる

 

私たちの歩み次第で祝福を受けるし、呪いを受ける

 

良いことも悪いことも、主の御手の中で起きている

 

ゆえに主を恐れて歩んでいく