詩篇75篇 2014.9.7

 

 

 

指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。アサフの賛歌。歌

 

 

 

 

75:1 私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。

 

75:2 「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。

 

定めの時:さばきの時が定まっている

 

参照 ヘブル人への手紙9:27

 

9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

 

「さばき」のことを念頭に置いて歩む

 

これは「この世」とは、異なる概念

 

私たちはいずれ、「行ったこと」や「語ったこと」について主の前に「申し開き」をする

 

そのことに「恐れ」を持って歩む

 

「さばき」に関しては、「私たちの働きの実」についても、その日、主は確認される

 

Ex:一タラントのたとえ話

 

何も稼いでいない人は怒られる、ゆえに単に歩むだけではなく、「主の働きの実」も残す

 

神の前に「申し開き」をすることを前提に、「恐れ」を持っていきたい

 

「さばき」に関して、「勘違い」をしてはダメ

 

それによって、「永遠のいのち」or「滅び」のいずれかが決まる

 

 

 

75:3 地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

 

揺らぐ(KJV):溶け去る

 

地に住む(英語:定住する)ということに関して、聖書では良いことを言っていない

 

参照 ヨハネの黙示録6:10,8:13

 

6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

 

「地に住む者」とは、ある種のクリスチャンのこと

 

本来のクリスチャンの歩みは、「地」に住むものではない、アブラハムのように、「旅人」とか「寄留者」が本来のクリスチャンの姿

 

アブラハムの歩みが模範

 

アブラハムは地において、寄留者&旅人だった

 

私たちはこの世にどっぷりつかる者ではない、この世と同じだと、「神の怒り」を買う

 

たとえ「地」に住んでいても、寄留者&旅人の歩みをする、そうするなら「恵み」受ける

 

参照 Ⅰヨハネの手紙2:15,ヤコブの手紙4:4

 

2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 

4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

 

「この世」にいても、「この世」を「迎合」してはダメ!

 

これから多くのクリスチャンやキリスト教が益々「地に住む者」になり、迎合するようになると思われる

 

Ex:カトリックは、「他の宗教」を迎合し、そこにも真理がある、なんていうことを言っている

 

たしかにこういう教えは、この世では喜ばれるかもしれない、でも、神の前には喜ばれない

 

すべての教会やクリスチャンが正しく御心を行っているわけではない

 

私たちはそれを見分け、歩むべき道を歩んでいる教会に従っていく

 

教会は益々「地」に住むようになり、この世を迎合する方向に向かう

 

Ex:同性愛を容認→オバマ大統領は「同性愛」を合法にした、そしてそれが教会にも入ってきている、結果、神の前に溶け去り、信仰から外れていく

 

正しくあるべき所に立っていく

 

神の御心を正しく行っていく教会にポイントがある

 

 

 

75:4 わたしは、誇る者には、『誇るな。』と言い、悪者には、『角を上げるな。

 

75:5 おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな。』と言う。」

 

誇ったり、横柄な態度で語るのは良くない

 

 

 

75:6 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。

 

75:7 それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。

 

「高くなる」とは、「名声」を博したり、「地位」や「名誉」や「評判」を得たりすること

 

でも、実際にはどうしたら「評判」が良くなるのか?

 

その答えが、ここにある、つまり私たちが高く上げられるか?or低くされるか?は、「神」による

 

神の前に意味があったり、用いられるのは、人間的なポイントではない、神の方法は異なる

 

クリスチャン生活の中において、人の評判や人に認められることに力を入れるという方法よりも、神の御心をとらえ、神が望んでいる歩みを求めて行っていくときに、自然に高く上げられる

 

パウロがそうだった、当時認められていなかった

 

しかし神の前に高く上げられた、その証拠にパウロの書簡は多い、彼の教えが中心となり、今の教会の歩みの土台になっている

 

しかし反面、人前では認められなかった、ユダヤ人からは敵対されていた

 

神はパウロの「忠実さ」を見て、彼を高く上げた、しかしそれは必ずしも人からはそう見えない、場合によっては低く見えたり、認めなれなかった

 

私たちに関しても同じで、人を見てはダメ、人前を見るべきではない

 

ポイントは・・・高く上げられるのは「神」による

 

人の目を気にしても仕方がない、神を一番としていく

 

神のほうに注目し、神のことに力を注ぐときに、「正しい結果」になっていく

 

 

 

75:8 主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。

 

杯、あわだつぶどう酒:霊的な事柄

 

「クリスチャンの歩み」において、二つの大事なポイントがある

 

①パン:「みことば」「教理」がひとつの柱となる

 

②ぶどう酒:霊的な事柄→「ぶどう酒」についての「災い」が来る

 

「かすまで飲んで~」とあるように、「ろくでもないぶどう酒」があることについて語っている

 

つまり、霊&パンに関して、「二種類」あることが理解できる

 

パン、すなわち「教理」や「みことば」に関して、どこの教会のメッセージでも良いわけではない→「毒麦」のメッセージをしているところもある

 

Ex:カトリック→地獄は無い

 

また、「霊的な事柄」に関して→教会において「聖霊」が働く、しかし一方「別の霊」も働く

 

今の時代、このことをハッキリ理解する

 

Ex:トロントブレッシング

 

「神の器」が一方で神の集会をして、裏では「獣のしるしを付けろ」と言ったり、「デーモン、デーモン」と叫んだりしている

 

「混ぜ合わされた」ということにも語りかけがある、「混ぜる」ということは、「二種類」入れること、これは聖霊&悪霊が混在した集会がある、ということを言っている

 

つまり、集会の中で「聖霊&悪霊の働きがある」ということを言われている

 

「よく混ぜ合わされた」とあるので、どこが聖霊なのか?どこが悪霊なのか?が分からない

 

そして「悪人」は、結局飲み干す

 

たとえ聖霊があっても、悪霊によって壊される

 

霊的な事柄を見分けていきたい

 

正しく歩んでいない人は、それを受け入れていく

 

「背教」が近いので、吟味する

 

正しく歩んでいくときに、「おかしな霊」から守られる

 

 

 

75:9 しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

 

75:10 悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。

 

正しく歩むなら、正しく上げられていく