詩篇84篇 2014.11.9
指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。コラの子たちの賛歌
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84:1 万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
84:2 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
84:3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。
「主の住まい」について
3節に書かれている「つばめ」とか「ひな」のように、鳥は霊的な事柄に関するたとえ、また、「鳩」は「聖霊」にたとえられているように、「つばめ」や「ひな」も、「聖霊」のたとえ
私たちも「聖霊」にあって「幸い」を受け、「平安」を受けていく
また、「祭壇」とはどういう所か?→旧約聖書の中で「牛」や「羊」を捧げるように、「捧げ物」を捧げる場所
そして新約においてはどうか?を見てみたい
参照 ローマ人への手紙12:1
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
これは具体的には「奉仕」のこと Ex:賛美のいけにえ
私たちは主に捧げたり奉仕をしたりする中で、霊的な安らぎや平安を受けていく
主のために「奉仕」を担っていくときに「平安」がある
歩むべき道を歩んでいくなら、焦燥感や悩みが無くなる
主に歩むべき道を示していただき、それを行っていく
84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ
84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
「その力が、あなたにあり」とは、主に頼っていくこと
「金持ちの青年」のたとえ話のように、クリスチャンと言っても力が神にある人ばかりとはかぎらない
クリスチャンであっても、あるいは神さまに頼っているつもりでも、結構自分の力で行ってしまう、ということが往々にしてある
でも、主の力によって行っていくなら、働きや歩みが残るものとなったり、意味のあるものとなっていく
そして、結構大事なポイントが示されていく
祈りの中で主が必要なことを与えてくださる
Ex:月刊バイブル→コンテンツの書き方とかを示していただいた
神に力があるなら幸い
主の力を基としていくときに、必要な大事なポイントを教えていただける
どのような奉仕も主に示されていきたい
なんと幸いなことでしょう。その心の中にシオンへの大路のある人は(原語):その心の中に道がある人は幸い
「道」について参照してみたい
参照 ヨハネの福音書14:6
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
「道」が大事
でも、実際には自分が正しいと思っていることと全然違う場合がある、「道」に関してさらにこのように言われている
参照 マタイの福音書7:14
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
「いのち」とは、「永遠の命」のこと
ゆえにここにおいて言われているのは、「いのちに至る道」がきちんとある人は幸いだということ
けれども実際には多くの人は、「道」が無いために天の御国に入れない可能性がある
しかし個々のクリスチャンにおける歩み方次第で真理の道が開かれる
正しい道を得るのが大事、道を見出すのが大事
そして終末のことも理解したり悟ったりするのは大事
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
クリスチャン生活は祝福や恵みばかりかと思う、しかしそれだけでなく、結構大変な所を通る
主の御心を行っても、なおかつ「涙の谷」を過ぎる、ということがある、たとえばダビデもそうだった、サウル王や息子のアブシャロムに追いかけられたりした
でも、主の御心に沿って歩んでいるなら、祝福に入っていく
「そこ」すなわち「涙」を流した所が祝福になる
ゆえに一時的な事柄で物事を見たり、全てを判断したりすることに御心は無い
たとえ神から来るものであっても、「涙の谷」を通ることがある、ということはよくよくとらえておく
そんな風にたしかに困難はある、でも主に留まるなら祝福になる
84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。
84:8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
84:9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。
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84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
「悪の天幕」と「神の宮」について
「天幕」と「宮」は、どちらも教会に関係していること
「教会」と名前が付いていても、「悪の天幕」と言われる場所がある
Ex:カトリックは進化論が正しいと言っている→これはまさしく「悪の天幕」と言える
教会にも区分がある、神の前に一律ではない
なので、どこの教会でも集えば良いというわけではない、そしてこのことは「御国の奥義」とも言える
もし、神の前に「悪の天幕」と呼ばれる教会へ行くのなら、永遠の命が危なくなる
教会の選び方次第で、結果が大きく変わる
84:11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
84:12 万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。
「正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」と書かれているように、聖書は単純明快なことを言っている
正しい方向性を歩むときに、神さまは良いものを拒まれない
正しい歩みをしていくときに祝福や恵みを得たり、人と和らいだりする
レムナントキリスト教会
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