詩篇87篇 2014.11.30
コラの子たちの賛歌。歌
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87:1 主は聖なる山に基を置かれる。
なぜ、エルサレムにポイントがあるのか?→①世界の中心地②聖なる山
「聖」ということについて見ていきたい
神の御心を行っている、神の聖なる民→働きのもっとも中心に置かれる
ペテロは教会の土台となった
「聖」ということばについて
参照 レビ記10:10
10:10 それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、
「聖」の反対語:俗(この世的)
聖い⇔汚れた
「聖」は「汚れたもの」から分離されている
「汚れたもの」について
参照 レビ記5:2
5:2 あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。
汚れた=死体
「死体」に触れると、汚れたものになる
欲、罪から離れることによって、聖くなる
汚れていると、神の働きは担えない
神の働きを担うなら、そういうところを見なければいけない
ある種のクリスチャンは聖くなって神の働きを担う Ex:ペテロ
でも、パリサイ人や律法学者は、サタンの働きの土台となってしまう
私たちが聖なる者であることがポイント
参照 レビ記5:3
5:3 あるいは人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知ったときには、罪に定められる。
聖くなるには、どんな罪からも離れる
参照 レビ記11:4
11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
反芻:みことばを何度も読む
みことばは何度も読むが、しかし世と分離されていない、すなわち罪や欲から分離されていないなら、汚れている
参照 レビ記11:27
11:27 また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。
足の裏のふくらみで歩く:地に接していく
Ex:ギャンブル仲間がいたり、酒飲みの友だちが沢山いる
この世との接触が増えることによって、汚れる
参照 レビ記12:7
12:7 祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。
出血:霊的な事柄(この場合、悪い霊)
霊的な汚れから離れる
再び詩篇へ
「汚れ」から離れて歩んでいくというときに、神の基になる
多くのクリスチャンは、そういうことに力を入れない
きよい歩みをするかしないかで、神の働きの土台となるか?否か?の差が出てくる
汚れからの分離=神に用いられる働き人の基本
本当に神の働きを担うつもりがあるのなら、気を付けなければいけない
神の方法を尊重する人が用いられる、自分の都合を優先したり、自己流の人はNG
「聖い」ということを尊重しない場合、神からのお呼びが掛からない
神の働きを担うなら、神の意向を尊重する
自分が「聖なる山」になるつもりがないとダメ
そういうことにおいて、主の言われることを尊重していきたい
87:2 主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
「シオン」にポイントがある
シオン:乾いた
つまり「シオン」とは、霊の惑わしから離れている、ということ
「門」にポイントがある
参照 ヨハネの福音書10:9
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
「門」とは、「救いの門」のこと
「門」を通って、入るべき所に入る
永遠の命に入る、というときに「門」が大事
違った門、滅びの門もあるので気を付ける
87:3 神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ
このことばは1節に対応する
こういう歩み(聖い歩み)をしているクリスチャンは、すばらしい恵みに入っている
しかしあるクリスチャンは汚れ、罪に入って、災いに入っていく
クリスチャンの歩みは決して一様ではない
87:4 「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」
生まれる:新生
バビロン:海の恐竜(終末の獣の国)も、クリスチャンとして新生している、だからと言って祝福ではない
クシュ:罪を犯している人たち、しかしこういう人たちも一応救われている、けれども行いは悪い、でも一応救いに入っている
87:5 しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。
シオンの人たちは、4節に書かれている人とは異なった祝福がある
この世の汚れから離れているので祝福がある
神の強調点と人の強調点は異なる
神の強調点:聖いこと
聖い人の恵み:神ご自身がその人の成長を建て上げたり、助けてくださる
神さまの手が入ったり、目をかけてくださる
罪から離れた歩みをしていくときに、神の目がとどまる
神が教える、ということがあり、それは祝福
でも、罪ばかり犯していると、特別な恵みは無くなる
87:6 主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた。」としるされる。セラ
登録する(KJV):数える
「数える」ということばは、聖書で特別な意味合いがある、大事な意味合いがある
Ex:神がソドムとゴモラを滅ぼそうとしたときに、しもべアブラハムは「もし、10人の正しい者がいたら・・・」と神に訴えた、そうしたら神は「滅ぼすまい。その10人のために」と言った
つまり数えられる人は正しい人だけ、そして正しい人は滅びを免れ、救いに入る
しるされる:命の書に名が記される→聖い歩みをしているときに、義人に入っていく
「聖なる山」に大きな恵みと祝福がある
87:7 踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。
泉:聖霊の恵み→これも1節に関わる
汚れから分離している人に聖霊の恵みがくる、集中する
レムナントキリスト教会
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