聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙5:6-8
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
本日も御言葉に沿って、学んでいきたいと思います。
「教会のメッセージは二分される」というテーマで、みていきたいと思います。
礼拝に行かれている方なら、毎週、教会でメッセージを聞いていると思います。
そして、メッセージについてですが、じつは、神様の前には、二種類のメッセージがあるのです。
何を申し上げたいのかと言いますと、本日の御言葉に、「パン種」という言葉が使われているように、メッセージには、パン種が入っているものと、そうでないものとがあるのです。
まずは、それぞれのメッセージについて、簡単に説明させていただきます。
● パン種が入っているメッセージ:神からの教えだけでなく、人からのもの、人間的なものが語られているメッ
セージ
メッセージはすべて、神からのものかというと、そうではなく、人からの言い伝えや教えが入り込んでいる、なんてことがあるのです。
たとえば、当時のパリサイ人や律法学者がその代表例とも言えます。
彼らに対してイエス様は、「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」と、おっしゃいました。
彼らは、今でいう、牧師や教師の立場の人たちです。
そういう人たちであっても、神からの教えではなく、人からの教えを語っているなんてことがあるのです。
人からのものですので、万人向けで多くの人々に非常に受け入れられやすく、反論する人は、ほとんどいません。
しかし、このことには、御心はありません。
● パン種がとりのぞかれているメッセージ:神からの教えのみが語られているメッセージ
具体的には、御言葉に基づいて語られているメッセージのことです。
たとえば、ペテロやパウロが、そうでした。
彼らのメッセージに賛同する人もいましたが、しかし、一方では、罵ったり、猛反発したり、迫害したり、議会へ引き渡したり、牢に入れたり、はたまた、死罪に引き渡したりする人がいました。
しかし、どこまでも、御言葉に基づいて論じていましたので、少数ではあったと思いますが、一部の人たちを説得し、悔い改めへと導き、結果として、永遠のいのちの道へと導くことができました。
以上、二つを比べてみて、理解できることは、パン種の入っていないメッセージのほうが、断然少ないということを言われているのではないかと思います。
では、なぜ、メッセージにパン種が入りやすいのでしょうか。
もう、すでにご存知かもしれませんが、パン種の意味合いは、「罪」です。
その要因としましては、6節の「高慢」という言葉にヒントがあるように思います。
まさに、人の「高慢」が原因と言われているのです。
英語では、「栄光」「栄誉」と訳されています。
つまり、神からの栄光や誉を求めるメッセージではなく、人からの栄光や誉を求めるメッセージだということです。
たとえば、有名な神学校を卒業して学位を得たとか、一流大学を卒業して博士号を取得したとか、大きな立派な会堂を持っているなど語るメッセージです。
もし、このようなことばかりがメッセージの中で、強調されているのなら、神様の栄光を反映しているメッセージとは言えないと思います。
正直、この世の人が言っていることと、さほど、変わらないように思います。
そして、二つ目の要因としまして、神様に向けてというよりも、会衆に向けて語っていることにもあると思います。
いわば、会衆の顔色を伺うようなメッセージも、パン種が入る要因のひとつとも言えるのではないでしょうか。
たとえば、クリスチャンは艱難に会わないとか、地獄は無いとかを語るメッセージです。
ゆえに、神のさばきに関して、ほとんど語られないメッセージです。
でも、残念ながら、このような教えは、いくら耳に良くても、はたまた、人受けは良くても、永遠のいのちに導くには至らず、滅ぼすものと言えます。
いかがでしょうか?今、行かれている教会で、そのようなことはありませんでしょうか?あるいは、神様のさばきについて、ちゃんと語られているでしょうか?
そうなんです、たしかに、それぞれの教会では、毎週ごとにメッセージが語られていますが、必ずしも、すべてのメッセージが人を永遠のいのちに導くものとはかぎらないということが理解できるのではないでしょうか。
8節ではハッキリと、「ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」書いてあります。
「古いパン種」とか、「悪意と不正のパン種」と書かれているように、滅びに向かうメッセージもありますので、メッセージを聞く側も、気をつけなければいけません。
どんなメッセージを受けるかによっては、永遠のいのちに入れない可能性は十分にあり得るのです。
たとえば、こんな例が良いかどうかはわかりませんが、あるところに、おにぎりを好物としている人がいるとします。
その人には、おにぎりを販売している行きつけのお店があって、毎日そこに行き、おにぎりを食べていました。
ところが、あるときから、体調を崩しました。
そして、原因は、毎日食べ続けているおにぎりにあることがわかりました。
なんと、おにぎりの中に、病気をもたらすある種の添加物が入っていたのです。
一度、二度なら、まだしも、何年にもわたって少しずつ蓄積された添加物によって、体調を悪くしてしまったのです。
でも、原因が分かったので、そのときから、そのお店のおにぎりを食べることをやめました。
そして、その人は元通り、元気になりました。
メッセージに関しても、同じことが言えるのではないかと思います。
もしも、パン種の入ったものを食べ続けていくのなら、霊的に徐々にむしばまれてしまい、やがては、荒廃してしまいます。
そして、それだけで、済めばいいのですが、死後、悪い意味合いで、大変な結果を招いてしまいます。
どこの教会に行くのか?どんなメッセージを聞くのか?このことは、自己責任であります。
それによって、永遠の行き先が大きく変わってしまいますので、教会も慎重に選んでいかなければいけません。
余計なことかもしれませんが、もしも、行かれている教会のメッセージが、永遠のいのちに導くものではないのでは?と、疑問に思われましたら、その教会からは離れたほうがよいと思います。
それこそ、毒入りのパン(メッセージ)を食べ続けて、知らない間に、霊の健康がむしばまれていたなんていうことになりかねませんので・・・
くり返すようですが、わたしたちは、自分の意志で、どちらかのパンを選び、食べ、それによって、報いを受けるということを念頭において賢く行動していかなければいけません。
また、「古いパン種」ということに関して、若干補足させていただきますと・・・
「古いパン種」とは、聖書を文字通りにしか解釈しないこと、いわば、聖書の表面の部分しか読まない、たとえの意味合いや奥義について理解しない、そして、そのことを語らないメッセージのことを言われていると思います。
このことにも、御心はありません。なぜかというと、奥義を悟らない、理解しないということは、当時のパリサイ人や律法学者や群集のように、さばきに直結してしまうので、くれぐれも注意しなければいけないのです。
ここまで、話をしましたが、賢いあなたなら、もう、お分かりのように、御心があるのは「パン種の入っていないメッセージ」だということをご理解いただいていると思います。
「パン種の入っていないメッセージ」とは8節の後半部分に書かれているように、「純粋で真実なパン」のことです。
「純粋」という言葉は、英語では、「誠実」と訳されています。
誠実と真実なパンで、祭り、すなわち、礼拝をしなさいと主は語っているのです。
わざわざこのように語っているということは、じつは、不誠実な不真実なメッセージのほうが、断然、多いということを言われているのではないかと思います。
このことには、まったくポイントはありません。
具体的に、パン種の入っていないメッセージとは、たとえの解き明かしや御言葉の奥義に関して語られているもの、なおかつ、神様の愛や恵みだけではなく、「公義」、すなわち、「神様のさばき」のことについて、語られているものを言われていると思います。
背信のクリスチャンへのさばきをはじめ、クリスチャンお一人一人に対する警告、叱責、訓戒、戒めなどが語られているものです。
まさに、それこそが、8節に書かれているような誠実と真実のパンと言えるのだと思います。
そのようなことを語っていくなら、人を永遠のいのちへと導いていくことができます。
耳には痛くとも、人間的には受け入れられづらくとも、しかし、神様の御栄光を反映するものとなり、主からの誉れを受けることができます。
わたし自身の証ですが・・・
わたしは、数年前まで、と、言いますか、レムナントキリスト教会のHPのメッセージを読む前までは、どのようなメッセージでも学びはあるし、天の御国に導くものだと思っていました。
あるクリスチャンが書いた本の中に、「主の前に心をへりくだっていけば、どの牧師からでも御言葉を学ぶことができる」ということが書かれていて、そのことをまともに受け入れていましたので、牧師が語るメッセージに関して、多少、「ん?」と思うことがあっても、そのことには目をつぶって、何とか、学んでいこう!と、思っていました。
しかし、エレミヤの部屋のメッセージを通して、それは、勘違いであることに気づかせていただきました。
いくら、神様に召された牧師と言っても、必ずしも、御言葉に沿ってメッセージをしているとは限らないということを理解し、そのときから、教会で語られているメッセージに関して、よくよく吟味していくようになりました。
その結果、その教会で語られているメッセージは、永遠のいのちに導くものではないことがわかりました。
すべてがすべて、おかしいわけではないのですが、永遠のいのちの条件に関しては、ほとんど、御言葉とは逆のことが語られていましたので、その教会を離れることにしました。
そして、そのことは、わたしにとって、益になりました。
ですから、わたしたちは、メッセージをよくよく吟味していかなければいけません。
また、メッセージは神様の前には、二種類あることも理解していなければいけません。
そして、世の終わりは、ますます、神様の前にメッセージは二分されていくと思いますが、ぜひ、パン種の無いメッセージに目を留めていきたいと思います。
たとえ、人から悪く思われたり、場合によっては拒否されたりしたとしても、正しく御教えにとどまって、永遠のいのちを獲得していきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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