聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙6:12

 

6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

 

本日も御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

メッセージの前に・・・

「すべてのことが私には許されたことです」の部分をKJV訳では、All things are lawful unto meと書かれています。

lawfulとは、「合法的」とか「法の認めた」とか「正当」という意味合いです。

そして「すべてが益になるわけではありません」の部分はall things are not expedientと書かれています。

expedientとは、「好都合」という意味合いがあります。

日本語と少しニュアンスが異なるのですが、ここで言われているのは、法的に認められていたとしても、必ずしも、それで、良いとされるわけではない」と、そんな風なことなのではないでしょうか。

更に「私はどんなことにも支配されはしません」の部分は、I will not be brought under the power of any.

と書かれています。

そのまま訳すと「その力(法の力)によって私は抑制されることはないでしょう。」という風になるでしょうか。

 

本題に入ります。

 

本日は、「法律に対して、どのような対応をとっていくのか?」と、いうテーマでみていきたいと思います。

 

さて、世の終わり、そして、これから、獣の国が台頭して、反キリストが擁立すると、クリスチャンを追い詰めるような法律が確立されていくと思います。

信仰生活を送っていく上で、法律的なことが絡んでいくということです。

当然のことながら、世の中には、ありとあらゆる法律があります。

人を殺せば、犯罪人として扱われ、刑務所に入れられて、それ相応の償いをしなければいけません。

悪いことをしたのだから、そのような仕打ちにあうのは、それは、ある意味、仕方の無いことです。

でも、宗教に関する法律、こと、キリスト教に関して制定される法律とは、どのようなものかお分かりになりますでしょうか?

私も、まだ、そういった法律が出来たわけではないので、詳しくは分かりませんが、概ねのことは、何となくは、分かります。

獣の国アメリカ、しかも、反キリストが制定する法律なのですから、クリスチャンにとって、有利なものではないことくらいは想像できます。

そう、訳の分からない法律が出来てきて、不利や状況にクリスチャンを追い込んで、滅びへと至らせる、そんな流れになっていくと思います。

もちろん、人を殺さない、盗まない等、これらことは、聖書にも書かれているので、そういう法律は守るべきではありますが、問題は、聖書に反する法律に対して、どうするのか?です。

たとえば、すでにアメリカでは、「503C教会法」という法律ができ、キリスト教の本質を突いた部分、たとえば、処女降誕とか復活とか再臨とか、救い、贖いなどについて語ることが禁止されていると言います。

そして、それらについて語らない教会は税の優遇がなされ、語る教会からは税を課すということです。

これって、正しいと思いますか?

誰がどう聞いても、おかしいですよね。

でも、事実、アメリカでは、はたまた、教会においても、現実、そんなことが、まかり通っているのです。

さっきも申し上げたように、原則は、法律に従って私たちは生きていかなければいけないんですけど、こんな風に聖書のことばを否定するような法律については、要吟味、いえいえ、従ってはいけないのです。

 

また、最近、アメリカのカリフォルニア州では、「同性婚禁止は違憲」という判断が下されたそうです。

しかも、同性婚の反対派は、連邦最高裁に上告する構えを示しているとのことです。

これって、聖書に書かれている「男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」の言葉に、まさしく反するのでは、ないでしょうか。

もし、こんな風に異議を唱えるのなら、最高裁に引き渡されてしまうのでしょうか。

でも、聖書に書かれていないような、はたまた、御言葉と真逆のことに関して、自分が気付いた範囲内で、私は、警告を発する働きにたずさわっていますので、はっきりと申し上げます。

もし、このようなことを安易に受け入れるのなら、「殺されなければならない」と書かれているように、永遠の滅びへと直行してしまいます。

ですから、御言葉に背かせるような法律が、これから日本に、あるいは、キリスト教会の中に入ってきたとしても、簡単に受け入れてはいけないのです。

仮に、そのことがもとで、迫害、逮捕、投獄をされたとしてもです。

はたまた、死罪に引き渡されてしまったとしてもです。

基本的に法律は守るべきであるとしても・・・しかし、御言葉に反する法律を守ったことによって、裁きの対象になってしまう可能性が大いにありうるからです。

ですので、どこまでも人間的な常識や方法に則して信仰の歩みをしていくなら、この先、こと、艱難期に入ったときには、あっという間にひっくり返されてしまいます。

そうではなく、聖書的に物事をとらえていくことが大切です。

御言葉は、どのように語っているか?聖書の視点に立って歩んでいくことにポイントがあります。

確かに、どんな法律であれ、それを守っていく人は、人から批難を受けることはありません。

迫害されたり、訴えられたりすることもないでしょう。

しかし、あまりにも人からの評判とか評価とか自分が不利になることは意地でも避けたいとか・・・そんなことばかりにとらわれてしまって、もし、永遠のいのちを損失したら、どうしますか?

御言葉にも「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と書かれていますように、永遠のいのちを失ったら、元も子もないではないでしょぅか。

物事の軽重に関して、特にこれからの時代・・・背教が本格的になっていくので、正しい判断が益々求められていくと思います。

起きてくるひとつひとつの事柄について、私たちはその都度祈りによって霊的に正しく判断して、対応していかなければ、とんでもない結果を招いてしまいますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

変な法律に関して、どんな風に対応していくのか?そのことに関して、今からきちんと考えていかれることをおすすめいたします。

私自身のことではありますが、もう、大分前から、艱難時代のお祈りに導かれています。

主がお祈りや御言葉、メッセージ、はたまた、夢や預言等を通して、備えをするようにと親切に語ってくださっているからです。

備えているから偉いとか、そんなんではなくて、艱難を通らないなんて、そんな嘘教理に騙されている場合ではないのです。

色々な意味合いで備えていないと永遠のいのちが非常に危なくなっていくと思いますので、ぜひ、おすすめいたします。

パウロが、法的に認められるとか、認められないとか、そんなことにとらわれずに、ひたすら主の働きを成していったように、ぜひ、私たちも、このことに倣っていきたいと思います。

また、使徒の働きの中で、ペテロとヨハネが「いっさいイエスの名で語ってはいけない」と命じられながらも、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」と言い返して、堂々とキリストの御名を宣べ伝えていったように、私たちも、そんな風にしていきたいと思います。

箴言にこんな御言葉があります。

「人を恐れると罠にかかる。しかし主に信頼する者は守られる」と。

また、イエス様はこんな風におっしゃっていなかったでしょうか。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と。

 

ですから、艱難時代に入ったからと言って、はたまた、法律が変えられたからと言って、何ら変える必要は全くないのです。

反対に御言葉に従っていくときに、結果として主からの守りや助けを受けることにもなりますので、こういった点に関して、勘違いしてしまって永遠の命を失うことのないように気をつけていきたいと思います。

主イエス・キリストが人からよく言われようと、悪評が立とうとも、そのようなことに一喜一憂することなく淡々と神の御心を行って十字架の死に至るまで忠実に歩み、神の御座の右に着座されたように、私たちも、後の世において誉れを受けられるような歩みをしていきたいと思います。

 

以前にも証をしましたように、私の周囲の環境は、ノンクリスチャンばかりです。

ですから、はじめに、弟子の歩みをするというときにも、色々と考えるものがありました。

家族から理解されなかったら、最悪、家族を失うことになってしまったらどうしよう・・・と。

弟子の歩みをはじめてから、しばらくして、「本格的にこのことに徹していこう!」と、決意をして、そのことを家族に表明しましたら、案の定、反対されてしまいました。

でも、その時に、今日のメッセージではありませんが、御言葉を取るのか?法律を取るのか?と、同じように、家族を優先するのか?はたまた、主の働きに専念するのか?と、そのような究極の選択に迫られましたが、神様の憐れみによって、弟子として歩んでいくことを選ぶことができました。

すると、不思議なことに、いまだに、賛成はしてはもらえないものの、家族と決別することなく、弟子の歩みにとどまらせていただいています。

もし、その時に、変に妥協して、人の言うことを優先していたら、このような歩みや働きは無かったように思います。

それどころか、反対に神様からの怒りを買い、御言葉にもありますように、投げ捨てられて、火に投げ込まれてしまった可能性があります。

ヨハネによる福音書には、こんな御言葉があります。

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」

これから先は、家族や友人を失うとか、やれ、人が離れ去っていくとか、そんなレベルではなく、肉体のいのちが、かかった選択が増えていくのではないかと思います。

そこまで極端にならなくとも、人間的には不利状況に追い込まれていく可能性がある、それでも、主に堅くついていくのか?ということが益々に課題になっていくと思います。

でも、その都度、正しい選択をしていくことが大切だということを示されていますので、神様の憐れみによって、ひとつひとつのこと、主のことを優先していかれるといいなぁと思っています。

今日も御言葉を通して大切なことを教えてくださいました主に栄光がありますように。

主の御名をほめたたえ、主に栄光を帰します。