聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙10:8
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
「霊的に倒されるなら御国を受け継げない」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。
ここに書かれている「姦淫」という言葉は、モーセの十戒の中にもありますし、他の箇所でも度々使われています。
第一義的な意味合いとして、世の中の男女間の不品行のことを指します。
たとえば、世間で言われている、「不倫」という言葉はまさに姦淫のことを言っていますし、こういったことは信者、未信者問わず、誰もが陥りやすい罪ですので、気をつけていきたいと思います。
ただ、今まで、何度か申し上げていますように、聖書には、御言葉は表の意味合いと、裏にある隠された意味合いがあって・・・私たちは、そのことを、「たとえ」とか「奥義」とか「謎」と呼んでいるのですが、そういった一面がありますので、そのことにも触れながら、主の語りかけについてみていきたいと思います。
「姦淫」に関して、さきほどは、肉体の「姦淫」について少し話をしましたが、聖書では、単にそれだけを言われているのではなく、霊的な姦淫についても語っています。
「霊的な姦淫って何なの?少なくとも、私は、誰とも変な関係は持っていない!」と、おっしゃるかもしれません。
もし、聞く耳がありましたら、少しでも傾けていただけると幸いです。
今まで何度も話をしましたが、今は、終末です。
終末の日の特徴を御存知でしょうか。
ちなみに黙示録の記述には、淫婦バビロンについて書かれています。
「バビロン」とは、クリスチャンを滅びに至らせるための、アメリカ由来のありとあらゆる嘘・偽りの教理、すなわち御言葉を冒涜するべく教理のことを言います。
多くのクリスチャンが終末の日、バビロン、すなわち、アメリカ由来のおかしな教理と関係を持ち続け、神の民らしからぬまったく別のものに変質してしまうのです。
つまり、クリスチャンの霊の父でもあり、夫でもあるキリスト(御言葉)との関係を捨てて、全く別のものと関係を結んでしまう、そのことを「霊的な姦淫」と言うのです。
以前の私もその一人だったのですが、今、多くのクリスチャンが、アメリカ由来の教理をもとに、滅びへと向かっているのです。
信じられないことかもしれませんが、アメリカのキリスト教の教えというのは、御言葉を曲解し、変質させ、クリスチャンを滅びへと至らせるものなのです。
ですので、聖霊からの教えではなく、悪霊の教えということになります。
その代表例として、今まで再三申し上げてきましたが、クリスチャンに艱難の備えを怠らせるための、艱難前携挙説です。
それから、終末について、肝心なことを言わないことも特徴です。
たとえば、再臨のときに、クリスチャンは裁きの対象に該当しないなどの教えです。
聖書には、はっきりと、「神の家から裁きがはじまる」と書いているんですけどね。
また、唯一の神に頼りなさいと聖書にはあるのですが、カウンセリングとか心理学など、この世の方法を取り入れることによって、その御言葉をなおざりにしています。
つまり、聖書の御言葉とは、ほとんど逆のことばかり書かれているのです。
本日の聖書箇所「彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。」の言葉は非常に暗示的であります。
「死にました」の部分をKJV訳では“fell”(倒れる)という風に訳されています。
「倒れる」ということで思い出すことがあります。
それは、「剣に倒される」という御言葉です。
たとえば、エゼキエル書には、こんな風に書かれています。
参照 エゼキエル書24:21
24:21 『神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。
「聖所」とは、「教会」を指します。
「教会を汚す」とは、さきほど申し上げたように、おかしな教理を教会内に持ち込んで、変質させてしまうことに通じます。
そして、その結果、どうなったてしまうかというと、「あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される」と書いているとおり、御言葉の剣、すなわち、おかしな教理によって、霊的に倒されるということを言っているのです。
そう、信じ難いことかもしれませんが、特に終末は、多くのクリスチャンが剣(おかしな教理)に倒されるときなのです。
まさに、本日の箇所で言われているように、真理の御言葉をさしおいて、おかしな教理と関係を持つときに、霊的に盲目となり、倒されてしまうということを、ここでは言われているのです。
また、クリスチャンはこの世の寄留者、旅人と言われているのですが、終末の大きな問題点のひとつとして、いつの間にか、この世にすっかり定住してしまっているということです。
はっきり言うと、建前はともかく、実質は、この世の人と、さほど変わらない生活を送っている人が多いということです。
世の中のことに陥り続けていくことも、霊的な意味合いにおいて、姦淫の罪を犯していることになるのです。
そんなことを言うと、「私は、絶対に違う!」と、おっしゃるかも知れません。
それなら、立派なことです。
でも、少し、ご一緒に、考えてみていただきたいのです。
一歩教会を離れ、日常生活に関して、どんな場合においても、果たして、キリストが中心になっているでしょうか?
一日に何時間位、祈っていますか?お祈りよりも、趣味や好きなことに費やしている時間のほうが上回ったりしていませんか?聖書は年に2,3回くらいの通読のペースで、読んでいますか?そのようなことを毎日継続していますか?
それから、こんなことを申し上げたら、失礼かもしれませんが・・・たとえば、男性で言うなら、マイカーでドライブや映画鑑賞など、趣味に没頭する、または、女性で言うなら、美容、ファッション、グルメなどがお祈りや聖書を読むことよりも、優先されていないでしょうか。
世の中で生活しているので、全く世のものを用いないわけにはいきませんが、必要以上に用い過ぎてはいないでしょうか?
御言葉にも、「世も世にあるものをも愛してはならない」とあるのですが、もし、世のことに、とめどなく陥り続けていくのなら、霊的に倒されてしまい、やがて真理が見えなくなっていきます。
そうすると、神様の御心が分からなくなってしまい、的外れな歩みとなり、結果として、御国を受け継げなくなってしまう・・・なんてことにならないでしょうか。
物理的には日曜日ごとに教会に行き、礼拝を捧げ、メッセージを聞いていたとしても、聖霊でない別の霊に引っ張られていくなら、最終的には、滅んでしまうのではないでしょうか。
そのあたりのことに関して、今は、特に真剣に向き合っていくことはクリスチャンとして大切な課題のように、私個人としては思うのですが、いかがでしょか?
はっきりと言いますが、世とは常にある程度の距離を保っていないと、御国を受け継ぐのは危ないということをどうか御理解ください。
先日、ある方からこんな話を聞きました。
その方もクリスチャンなのですが、その方の親族にもクリスチャンの方が何人かおられて・・・
その中のある人が、とても物欲があって、困っているとのことです。
もちろん、社会人ですので、自分で働いて生活もしているのですが、欲しいと思うものを何でも買わないと気が済まないそうです。
周囲の人も、そのことで直接本人に注意したこともあるそうですが、全く耳を傾けていただけないとのことでした。
もし、その方が、悔い改めずに、この世を去ってしまったら、恐らく、滅んでしまうと思います。
そのことに限らず、いくら、クリスチャンと称して、熱心に教会に行っていても、罪の奴隷のままなら、いのち(永遠の)至ることはありません。
そのことは、聖書にもハッキリ書かれていることだからです。
このことは、イエス様が福音書の中で言われたことです。
「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。」
聖書で言う「奴隷」とは、さきほど申し上げた「罪の奴隷」に通じるものです。
「家」とは、教会とか、天の御国のことを言われています。
「いつまでも家にいない」というのは、罪の奴隷となっているなら、御国を受け継がないということを言われているのです。
こういったことに関して、私たちは、決して盲目になることなく、気をつけていきたいと思います。
世とは、常に一線を画していき、主との関係を何よりも優先して、御国にふさわしい者になっていきたいと思います。
証
正直、世とのかかわり方に関しては、試行錯誤の連続の毎日です。
なぜかと言うと、良くも悪くも、とても便利で、何でも揃っている世の中だからです。
近所には、レンタルDVDのショップがあり、足をのばせば、すぐに観たい映画を借りたり、聴いてみたい音楽を聴いたりすることもできます。
そうでなくても、テレビをつければ、ジョーク満載のバラエティー番組を見ることが出来ます。
テレビだけではありません。
パソコンに関しても、インターネットを接続すれば、ありとあらゆる便利な情報を入手することができます。
でも・・・これらのものに時間やエネルギーを費やしていくときに、神様との間にどうしても距離が出来てしまいます。
もちろん、必要最低限だけ利用すれば、大きな問題にはならないのですが、いかに、深入りしないようにするか?の戦いを要します。
なぜなら、DVDやテレビやパソコンのことに限らず、罪や世の中に引っ張る力は、思いの他、とても強いからです。
自分では、意識していても、注意しようとしていても、いつの間にか、引きずりこまれてしまった、無駄な時間を費やしてしまった・・・なんて、ことが往々にしてあるからです。
ただ、どんな時代を生きていたとしても、さばきのときには、ハンディが適用されるわけではなく、同じエパ枡が用いられ、御言葉によってさばかれてしまいますので、日々、こういったことに関しても祈りを強めていき、何とか、罪や誘惑に陥ることのないように気をつけていきたいと思います。
また、私の場合ですが、ここ、最近のことを振り返ってみると、どんなに便利であったり、良いと思うものであっても、世の中の方法を通して、解決したことは、ほぼ、皆無でしたので、やはり、神様の方法に頼るのが一番!と、いう確信が益々内側で強まっています。
たとえ、目に見えて、特別状況は変わらなくても、主の御手に委ねていくときに、不思議な平安や喜びに包まれていきますので、これからもそんなスタンスでいこうかなぁと思っています。
本日も、大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著